流罪の日本史 (ちくま新書)

著者 :
  • 筑摩書房
3.48
  • (2)
  • (6)
  • (13)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 82
感想 : 10
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480069993

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 流罪という共通点はあるものの後半はかなり辛い

  •  流罪が刑罰としては死罪に次ぐものであるとすれば、改めてその重さが分かる。

     現代で言えば、無期懲役だろうか。

     どちらもそれまでの縁(地縁、血縁など)から切り離される事を考えると、一種の社会的抹殺と言える。

     現代よりも縁が濃かった過去の時代ならば、より一層刑罰としては重くなっただろう。

  • 古代以来の流刑の歴史について。特に交通不便の時代の流刑は送られる側も受け入れる側もどんな心境だったのか、気になる。

  • 江戸時代以降の流罪・流人に関する書物は多いがそれ以前についてはなかなか類書が少ないなか、網羅的に述べられている。

    巻末にきちんと参考文献(手に入りやすいものに限る)リストがあるのは好印象。

  • #流罪の日本史 #北海道も流罪の土地
    蠣崎波郷「酋夷列像」が光格天皇の天覧を果たすために必要な、朝廷への人脈はこの事件から築かれた・・・
    本書P214にある猪熊事件。慶長14年(1609)天下無双の美男子左近衛少将猪熊教利ら青年公家達が、後陽成天皇の寵姫達との密通騒ぎを起こす=「公家衆乱行随一」
    天皇は激怒し全員極刑を幕府に命じました。
    この事件をきっかけに「公家衆法度5ヶ条」が定められ、2年後の禁中並公家諸法度に至る。
    (鎌倉~室町時代の決まり事を明文化しただけで、朝廷をしばりつける統制が目的とも言えず、乱れた風紀をただし、天皇の権威が凋落するのを防ぐ目的)
    ※個人的の意見(笑)

    猪熊事件に連座して蝦夷に配流された従四位上左近衛少将花山院忠長(=廃嫡)が、松前藩と京都を結びます。
    配流されたとはいえ貴種である忠長を藩主の慶廣は賓客として迎えた。この好意に京都公家との婚姻という形で応えたのが忠長で、。その後、松前藩歴代藩主に6人もの輿入れがされている。大名が朝廷と接近するのを嫌う幕府にとっても異例の出来事です。

    十三世道廣の室敬姫入輿の際は、右大臣という格式の高い花山院家であるため、京都から五十人もの腰元を従え、江戸を経て行列を組んでの入輿であった。
    これらの女中のなかには松前家々臣に嫁入し、京都の風俗、習慣、生活を松前地方に定着させる役割を果 した。

  • <目次>
    第1章  流罪とは何か
    第2章  鎌倉時代~影響力のある者は流罪が最適
    第3章  南北朝・室町時代~実質的な死刑あるいはパフォーマンス
    第4章  戦国時代~権力誇示のための「見せしめ」
    第5章  江戸時代~増える犯罪人を江戸から離島へ

    <内容>
    「流刑(流罪)」という視点から日本史を見ようというもの。著者が言うように、流刑になった人物にスポットを当てたものは見かけたことがあるが、「流刑(流罪)」そのものに注目した本はなかった気がする。本の中で著者も言っているように、流刑先での状況は、1次資料が希薄でわからない。よく言われる話は、多くが創作のようだ。

  • 流罪とは何か。古代からの流罪の実例を調べ上げ、それがどのような意味を持っていたのかを探った。最初は刑罰だったものが、やがて見せしめや政敵の排除など、多様な意味を持ってくる。近代となり、辺境がなくなっていくとともに流罪は消滅した。

  • 322.14||Wa

  • 東2法経図・開架 B1/7/1290/K

全10件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

(株)歴史と文化の研究所代表取締役。専門は日本中近世史。
『豊臣五奉行と家康 関ケ原合戦をめぐる権力闘争』(柏書房、二〇二二年)、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』(星海社新書、二〇二一年)、『関ケ原合戦全史 1582-1615』(草思社、二〇二一年)、『戦国大名の戦さ事情』(柏書房、二〇二〇年)。

「2022年 『江戸幕府の誕生 関ヶ原合戦後の国家戦略』 で使われていた紹介文から引用しています。」

渡邊大門の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×