凡庸な芸術家の肖像〈下〉―マクシム・デュ・カン論 (ちくま学芸文庫)

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著者 : 蓮實重彦
  • 筑摩書房 (1995年6月発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (490ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480082138

凡庸な芸術家の肖像〈下〉―マクシム・デュ・カン論 (ちくま学芸文庫)の感想・レビュー・書評

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  • <我が凡庸なる近代>
    蓮實重彦という書き手が、映画批評に与えた影響(抑圧?)は周知のことだ。ただし彼は、近代小説の始祖と言われるギュスターヴ・フロベールの研究者でもある。フロベールの「悪名」高い友人であるマクシム・デュカンの詩と真実を、フーコー的制度としての近代が急速に輪郭を明らかにしていく19世紀に密着して描いた長編を読んでいて、感じたのは映画的印象だった。当初、確信犯的に、明瞭さから逃れようとする身振りで描かれるマクシム・デュカンのアカデミーフランセ―ズ入りの経緯。その曖昧さは、意味論的には明快ではないが、映像的に退屈ではないゴダールの映画だ。散文という、ノイズの入りにくいメディアで、否定に否定を重ねながら、概念が固定化することを嫌う彼のスタイルが全開している。


    さらに終盤、フロベールという偉大な友人に嫉妬し、パリコミューンに敵対した変節感にして、密告者という文学史上あまりにも重過ぎる軽蔑を与えられてきたマクシム・デュカンの文体的人生を克明にたどり、近代あるいは、19世紀という時代の登場の中で、奇妙な律儀さで、マクシムがフロベールに友情を示すことが、近代という時代の捩れの中で、天才を讒言した変節漢へと貶められていく微妙で複雑な過程を精緻に描き出していく。そのさまは、筋肉質の脚本の上で「一つの画面の選択も誤らずに一篇のフィルムを完成しうる説話論的緊張感」という偉大なシネアストを称えた彼の言葉に限りなく近似している。安易な要約を許さない、テキストの豊穣さを味わうにはとにかく自ら手にとって感じるしかない。


    19世紀後半、学校、監獄、文学、ジャーナリズム、精神病院などのフーコー的制度が続々と出来上がってくる「近代」という時代の典型として「凡庸」で律儀に生きるマクシムと書くということの政治性に抗って「愚鈍」に無と戯れるギュスターヴを蓮實が対比するクライマックス。


    「「何も書かれていない本」を夢想したギュスターヴは、もはや文学が主題によって成立しうるものではないという現実を身をもって実践してみせた。だがマクシムは、彼ほど積極的に無=意味と戯れる図々しさを欠いていた。マクシムは書くことの有効性をあくまで信じ続けたのである。誰かに、何らかのかたちで役に立つ書物を書こうとすること。その誰かは、もはや権力者でしかなく、何らかのかたちは政治的たらざるをえず、役立つのは祖国にでしかないという事実を、彼は歴史的に証明してしまったのだ。何も書くことができなくなったとき、さらに書きつづけるために残された唯一の途は、何も書きえないというそのことじたいを書くことでしかないだろう。そうでなければ、黙る以外にない。にもかかわらず人に黙ることを選ばせず書くことへと向かわせるとき、文学はあからさまに政治的となる。文学にとどまらず、あらゆる言説は、というべきかもしれないが、その事実を、われわれは百年かかってもいまだに体得しえずにいる。


    いかに語るかがすべてなのだ。何かを立証しようとする芸術作品など、何の値打ちもありはしない。何ごとをも意味せぬ美しい詩句は、何かを意味しているそれと同程度に美しい詩句よりも、秀れているというべきなのだ。形式だけが救いなのである。」


    ジョン・フォード、ハワード・ホークス、フリッツ・ラング、ゴダールを「読解」する彼のスタイルや思考の温度を近代文学を語る彼の言葉の中に感じた。結局、ゴダール的映像と蓮實的文体は、見るものでも、読むものでもなく、全身を浸すべきものという点で通底しているようだ。

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