シミュレ-ショニズム (ちくま学芸文庫 サ 14-1)

著者 :
  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (400ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480086358

作品紹介・あらすじ

恐れることはない、とにかく「盗め!」世界はそれを手当たり次第にサンプリングし、ずたずたにカットアップし、飽くことなくリミックスするために転がっている素材のようなものだ-「作家」と「作品」という概念およびその成立の正当な基盤とされる歴史性と美学、ひいては「近代」の起源そのものの捏造性を看破、無限に加速される批評言語の徹底的実践とともに、まったく新たな世界認識のセオリーを呈示し、その後のアート、カルチャーシーンに圧倒的な影響を与えた名著。「講義篇」増補を含む。

感想・レビュー・書評

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  • samplingやquotation、怪しさ、いかがわしさ、シミュレーションによる虚構の露呈/暴露、等々、矢張り浅田彰「逃走論」の潮流がバブル終焉の時代、最後に放ったあだ花ということ。その後の「逃走=闘争」は村上隆的な、いわばアートとして売れたものがアート、という(きわめて中庸でフェアーな)価値のみを残しポストモダンは動物化するということだろう。パフォーマンスに於けるなさけなさの露呈などと格好よくいうが、上方には「わやく」や「おちょくり」といった言葉があることを思えば、「そう、たいそうに…」という思いが頻り。歴史のcheap化が現在のcheap化しかもたらさないことを知ってか知らずか、現代アートは一種の歴史主義的ニヒリズムの裡に実際には「安らかに遊んでいる」ようにも見えてしまう。ゲリラ戦と言おうが何と言おうが、いわゆる「ダッコウ」理論を持って極めて「真面目に」遊んでいるということだ。「真剣に」遊んでいる者が、いつも新たなアートを生み出してきたのだろうが、いづれにせよ現代アート論というものは、いつも言葉のラグに強度を吸い取られていくということだ。
    パンク論は面白く読んだ。

  • 美術批評家、椹木野衣の強烈なデビュー作。いやぁ、面白い。アジるアジる。そしてちょっと懐かしい。当時は「〜は死んだ」とかいう断定が可能なだけ、何かが生き残ってたんだなぁと感じる。この本で多用される(日本・現代・美術でもあるけど)「そうではなくて」は、蓮實重彦経由か。とにかくこの著者は、海外の美術や音楽をひっぱってきてばっかと言わてたけど、文体そのものは同時代の日本国内の、主に文芸批評が基盤にあると思う。
    この本の「面白さ」は、そこに刻印されている時代性を超えて、ある強度を今だ保っている。その強度を支えているのは、実は一見怒りに見える否定的な素振りに収まらない、異形の情熱だと思うのだ。「否」を連呼しながら、しかしその連呼を生み出す基底には、最終的な肯定がある。もちろん、その肯定は単なる現状肯定とかとは無関係な、生のインテンシティの高さにだけ捧げられていて、だからこそあらゆる「死体」に向かって「お前はもう死んでいる」(古)という十字架をつきつけまくるのだ。椹木野衣のこの本は単純なニヒリズムではない。単純な破壊でもない。むしろ古風なまでに創造への指向を持った、悦びの肯定を歌う本なんだと思う。

  • simulationやappropriation
    =音楽でいうsamplingやremix

    戦後のアメリカ美術
    minimalism、land art、conceptual art
    精度にすぎない絵画や彫刻といった制度

    →80年代
    歴史的展開の必然性を無視neo expression
    ジュリアン・シュナーベル、デヴィッド・サーレ、キース・ヘリング、ジャン・ミシェル・バスキア
    サンドロ・キア、エンツォ・クッキ、フランチェスコ・クレメンテ
    ゲオルグ・バゼリッツ、A・R・ペンク

    日本 ニューペインティング

    neo gioからneo pop
    ネオイズム

    理論的背景を付与することによって、流通可能にするsimulationism
    レーガンによる新古典派経済政策、投資の規制緩和

    106

    133ボードリヤール

    138 …「表現の自由」などという戯れの前に猶予される動物的痴呆性を前にして、批評の攻撃性と闘争性が放棄されてはならない。

    167

    176 フェミニズム理論

    249 引用は肥大、samplingは霧散
    引用は収奪、samplingは没収

    305 スプラッター

    332 ブラック・ロック
    黒人が白人のために演奏する白人よりもうまい白人音楽

    349 simulation artにおけるシミュラクール

    362 ウクライナ・ポストモダン

    386 冷戦構造の崩壊とともに敗北したのはアメリカ美術であった

    →フランス中心のワールドアート体制
    「大地の魔術師」展

  • 恐れることはない。とにかく「盗め」。世界はそれを手当り次第にサンプリングし、ずたずたにカットアップし、飽くことなくリミックスするために転がっている素材のようなものだ。(p.116)。サンプリング、リミックス、アンビエント。どのように登場し、使われ、影響を与えてきたかが語られていて興味が尽きなかった。特に、マイク・ビドロ、ジェフ・クーンズ、シンディ・シャーマンあたりを語るところ。ブライアン・イーノと「アンビエント」、ハウスミュージックを語るあたりが心惹かれた。それにしても、展覧会で、ピカソの精密な模写を並べて「これはピカソではない」という人を喰ったタイトルにして、それが否が大きめの賛否両論を呼び、けど作品は売れたっていうのが1980年代。デュシャンが、便器にサインして、それがただの物体か芸術品か、"両者を隔てるのは、「芸術」として認められているか否かという「信用」以外にはありません。つまり、煎じ詰めれば「芸術」とは信用の問題なのです”と喝破したところから、芸術家たちは迷走を強いられたのではないか。その行き着いた先が、サンプリング、リミックス、アンビエントなのでは、と。印象的な展示は、"出品作家に精液の提供を求め、液体窒素で凍結し、作品としてギャラリー展示。中原昌也、大友良英、飴屋法水らが参加。"といったもの。その後体外受精に活用され得ることも織り込み済みだったとは。ジョン・オズワルド「プランダーフォニックス」(音響略奪)..."著作権によって法的に権利を守られた音源をあえて使いつつ、同時に情報の出所を不明にするために0コンマ数秒単位でサンプリングし、たがいにまったく等価の、前後関係や価値関係のないものとして羅列して、一定の時間を物理音響的に専有"...とあるが、youtubeなどで聞いてみると、ビートルズのレボリューションNo.9に近い響きと感じられた。アシッド・ハウス、ディープ・ハウス/ガラージュ・サウンドあたりも聞いてみたいと思った。◆ケージが沈黙を重視したのに対して、イーノはいわば「不完全な沈黙」を重視し、この不安定性、無名性こそがその周囲の環境へと注意を喚起させるのだとしているからだ。(p.274)◆

  • 美術手帖の編集に携わる著者の講義を書籍化したもの、ぽい。読みたかったハウスに関しては200ページぐらいから始まるためにまあまあ長い道のりではあるけど、美術史におけるサンプリングなどの盗用芸術視点で絵画、彫刻、写真等に触れていて、音楽と同様にサンプリングが用いられている様が説明されていて興味深い。
    90'sに音楽業界がhiphopを無視できなかったように、美術手帖に携わるいわゆる本職の人もサンプリングの異常な面白さは無視できない存在なんだろうな。
    “サンプリングしてる側 ”からの視点で読んだけど、色々な側面から的確に分析してると思う。ただ、使われている言葉が美術用語なのか馴染みのないものが多くてすんなり入ってこない部分があるのと、芸術側からみたサンプリングと実際にサンプリングする側とのギャップが少しある印象。
    しかしハウスの成り立ちや黎明期の混沌に対しての洞察はさすがで最終的に面白いと感じる一冊。
    これはver.1.03だけど、最新のverが出版されてる模様。

  • サンプリング、カットアップ、リミックス。それらをハウス、ヒップホップ、シンディ・シャーマンらのアート、バロウズらの文学に至るまでの広い領域で分析された内容。自分が体感してきたものが、これ程明晰に整理してあることに感謝。名著です。

  • ・デヴィット・ヴァイナロヴィッチ

    ・言われてみれば、私たちはしばしば、歴史的に重要とされる出来事でも、たった一枚の写真からしか知っていないということがあります。だから実は、そのとき実際にどのようなことが起きたかということは、もう永遠にわからないわけですね。もしかしたらそれはひじょうにいい加減な、冗談のようなたぐいのものだったかもしれない。けれども、ひとたびそれが言説をともなって、写真という固定されたイメージのなかに回収されて、一種の絶対性を獲得してしまえば、それはもう容易には覆すことができない。ところが、ビドロのようにたとえそれが偽物であっても、同じパフォーマンスをそっくり再現することによって、その怪しさ、いかがわしさをあらためて浮かびあがらせるくらいのことはできる。つまり、偽物だからつまらないのではなく、そもそも失われた本物自体がさしておもしろいものではなかったのではないか、というような疑惑を生みだすことは可能なわけです。
    そのとき、偽物はすでに偽物だ絵はない。ビドロが行った<これはイヴ・クラインのパフォーマンスではない>はすでに、「イヴ・クラインのパフォーマンスではな」くはなくなっているのです。

    ・クリスチャン・マークレー「レコーズ」1981~1989

    ・ひとはどのようにして分裂病になるのか?H・ランドルトの仮説によると、それは病前の脳波異常が強制された正常化を起こすときだという。すなわち分裂病の発生は正常から異常への移行ではなく、異常が強制的に正常化される瞬間なのである。

    ・ブライアン・イーノ

    ・「今年の一月、私は事故にあった。たいした怪我ではなかったが、私はほとんど身動きできない状態でベッドに寝かしつけられていた。そこへある日、友人のジュディ・ナイロンが、18世紀のハープ曲のレコードを持って見舞いに来てくれた。彼女が帰ったあと、私はかなり苦労してレコードをかけた。横になってから、アンプが非常に低いレヴェルにセットされてあり、ステレオの一方のチャンネルから全然音が出ていないのに気付いたが、起き上がってちゃんとする元気もなかったので、レコードはほとんど聞こえないほどの音でかかり始めた。このことが私に、音楽の新しい聞き方を教えてくれたーーーそれは光の色や雨の音が環境の一部であるように、音楽もまわりの環境の一部として聞くことだった」

    ・「海は多様であり、動いており、しかも緊密に結合している。海の多様性とはその波のことである。波が海を構成しているのである。波は無数にある。航海者は波によって完全に囲まれているのである。波の動きの同質性はその大きさの差異を妨げない。波が完全に静止することはありえない。波の外部から吹いてくる風は波の運動を決定する。波は風の命ずるままに、この方向、あるいはあの方向へと打ちよせる。波の緊密は結合は、群衆のあにいる人間たちがよく知っているあるものである。すなわち、それは、あたかも他の波が自分自身であり、自分自身と他の波とのあいだにどんな厳重な隔壁も存在しないかのように、他の波に従うことである。この従順さからの脱出はありえず、したがって、その結集としての力の勢いと感じは、波全体が一緒になって引き起こしたものである」

  • ちょっと難解だったな…

  • キーワードは「サンプリング/カットアップ/リミックス」。80年代に広まった美術運動、シミュレーショニズムの考えをポピュラー音楽に援用していくその切り口はウィルス的感染力を感じさせる。本編は20代の頃に執筆されたが故のレトリック過多な部分も目につくが、増補において加えられた最初の講義編が導入として優れており現代アート入門としても機能している。「盗め!」という発売当時のメッセージは現代において「コピれ!」と言い換えるのが相応しいだろう。IT技術の発達で世界はこんなにもコピー&ペーストで満ち溢れているのだから。

  • 「サンプリング、カットアップ、リミックスはこのように、われわれの時代の最悪の部分のエッセンスともいうべき性質のものである。したがってそれは、エイズ・ウィルスに対するさして有効なワクチンが発見されていない現在までのところ、おそらくは最強の認識論的体制であり、われわれの生体とその認識機構そのものを変化させる強度を携える「デジャ=ヴュとしての前衛」のためのソニック・ボムなのだといってよい」 ー 258-259ページ

    東浩紀のデータベース論は概ね本書で述べられているポップ・カルチャーとシミュレーショニズムの範囲のことを述べていると僕は理解しているが、シミュレーショニズムがあちらの論壇であまり話題にならないのは単純にフィールド上の違いの問題なのだろうか。

    もっとも、東浩紀のデータベース論自体はともかく、そこで挙げられている例は、宇野の指摘するように極めて限定的である。本書の区分けでいえばポップ・カルチャーにあたるものばかりであって、それはサンプリングやカットアップといったシミュレーショニズムを多くは含んでいない(と記憶している)。

    シミュレーショニズムは自覚に基づくデータベースの切断と結合でありカウンターカルチャーとしての側面を持つものとされているので、確かに現代日本全体の雰囲気を述べるうえでは資本主義下にあることに無自覚なポップのほうばかり取り上げたのは正しいのかもしれない。

    ただ、データベースの時代の可能性を述べていくうえで、現在では多少古臭くなったようにも思われるサンプリングやリミックス、カットアップといった表現形態にも、もう少し積極的に注目する必要があるのではないかと思わなくもない、というか思うわけなのだ。

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著者プロフィール

美術評論家

「2022年 『ベスト・エッセイ2022』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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