- Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480090546
感想・レビュー・書評
-
詳細をみるコメント0件をすべて表示
-
音というもののひとつの特徴は生まれたとたんに死ぬことである。
過去、現在、未来というのは我々の生活の中の分け方で、物理学には過去、現在、未来はない。全部時間変数t 。物理学に過去、現在、未来を与えるのは我々の生活。
音楽は人の心に様々な情緒を引き起こす。
言葉もひとの心に意味を呼び起こす。
西洋では技術の進歩と計測器が一種の世界を眺める根本様式だった。ところが東洋、特に中国では技術というのははじめから手作業。そして事の中心は道徳だった。人間の生き方だったわけです。このウェイトが高いといくら技術が進んでもそれが人間世界を眺める根本的な見方にはならなかったんじゃないでしょうか。 -
哲学
-
見ることと聴くこと◆“今”とはどういう時間か◆イメージは頭蓋骨の中にあるか◆風景を透かし視る◆未来が立ち現われる◆“私”はいない
著者:大森荘蔵、坂本龍一 -
タイトルにもあるように、大森先生は時間の哲学に明るい方のようで、<現在只今>というものの区切りはどこで、どこからが過去だろうか、だとか、「今」の定義だとか、そういうことをについて本書でも考えを述べたり、まさに考え中のまま語っていたりします。答えが出ていな中での、外堀を埋めたり、核心部分を見定めたり、そういったところの思索を語ってくれています。また、見たり聞いたりして認知するいわゆる知覚世界(ふつうの人間的感覚の世界ですよね)っていうものが、物理的世界(科学的に証明されていることを正解とする世界)に劣っていて正しくないとはしない考えなのは面白かったです。そして、たとえばイメージすることは未来の産物に関わることだとか、イメージしたものは未来に実在する産物、だとかっていう知覚の仕方っていうのが、みなさんなかなかしたことはないでしょうが、これも一つの考えとしてあるわけでした。難しいでしょうか、でも、頭の体操になるようでもあるし、そういう視点を持つことで見える世界も変わるので、ちょっとした知的散歩にもなりますよね。
-
あまりにも話が唐突に始まりすぎたのはびっくり。中身は…またじっくり時間をかけて読み解く必要があるかな。
-
2011/11/27購入
-
この異色な二人のコラボに、哲学+音楽ファンはある意味垂涎ものかもしれないという組み合わせ、それも、哲学講義とくる。大森は日本におけるここ数十年の哲学にかなり大きな影響を与えた人物であるし、ぱっと思いつく限りでも、野矢、中島、永井あたりはかなり大森の血を受け継いでいるような気がする。まあ、個人的には永井が一番近しいかなとは思う。スタンスが近しい。ただ、哲学に抱いている印象はやはり中島が一番近いのだが。中島、大森は、「哲学は一種の偏執病みたいなものだから、そこに拘らずに済む人は拘らずにいるべきである」と述べているわけで、それに対して永井は「哲学は愉しい」と述べているわけだから、ネガティブとポジティブで異なってしまう。とはいえ、言っていることは実は一緒であるのだが。彼らが言う哲学っていうのは、自分なりの価値観を徹底的に考える、そのために自分が気になることを徹底的に追求し場合によっては常識を疑い攻撃するというものである。ちなみに個人的には苦しいも快いも実は同じ線上にあり、必ずその曖昧な境界線が有る。だが、それは線上というよりは円状とも言えるかもしれない、だから、両極端なものは、つまりとてつもない快はとてつもない苦しみとなりうる。ただ、ここでうかつに線分とか、円状とか言うと、大森に「それは危険です」と言われそうではあるが……。個人的に本著を読んで抱いた感想は、大森は、ベルクソンの時間観、フッサールの現象学的視点、ヴィトゲンシュタインの論理的哲学考あたりを機軸として成立した独我論者なのだろうか?といった印象である。
だが、大森は閉鎖的な独我論者でもないし、大森が言いたいのは、自分しかいないというよりは、自分によってしか相手を知覚できないと言いたいのである。つまり、大森には坂本の痛みはわからない。大森は大森の痛みとしてしか坂本の痛みを知りえないのである。大森の独我論とはこのようなものなのであろう。そして、大森は自分を通してしか知りえないからこそ、他者から知識を与えてもらうことに貪欲となる。なぜなら、他者から知識を与えられる際も、それを自分を通してしか知りえない以上、それは自分の知識となりうるからである。それに大森は「私」を追及してはいけないと述べる。「私」を追及すればそこには必ず主客問題が生じる。それはつまりデカルト以降の二元論になるわけだが、この二元論的構図が危険なのではないか?片方は分子生物学的に解体しては死者=客体とし、分解し切れなかったものは主体=精神として取り除かれる。それなら、これは語ってはいけないのだと大森は述べる。だが、これは違うとも述べる。このような不満足な定義ではなくて、この説明しないという方向でなにか言葉があるはずなのだと大森は言う。だが、この言葉はあらかじめわかっている答えを表すものではなくて、この言葉を見つけることによって不明瞭であったものが明瞭となるといった答えであり、だがそれはやはり明瞭にはなりきらない答えである、といった具合である。これは創作経験の有る人が、それを直観を基にして作った場合なんかに感じることであろう。ようやく満足のいくものができたとしても、それはやはり、「何か違う」のだ。ちなみに本著における、大森の二大哲学観は、一つ目が、「我々が捉えうる今というのは今頃でしかない」というものであろう。つまり、我々が捉える今をなんとか定義しようとするのだが、非常に難しい。どこかに境界があるはずで、それを像や音などで大森は考えをめぐらせる。だが、この今頃ってやつに対して、直線状の中の区切られた時間枠と考えたり、今頃は厚みを持つと考えたりするそれは危険であるという具合なのである。我々はつい今を厚みを持ったものとして考えたり、あるいは線分として考えたり、更には点と考えたりするのだが、これはどれも先入見による罠であると大森は判じる。そして、ただそれを言い表せるものがあるとすれば、「今頃」とか「ただ今」とかいう、なんとも曖昧で不正確な言葉で、ベルクソンに倣って「純粋持続」というのが当面の答えなのではないかと大森は述べる。他方で、もう一つが、未来と過去である。我々が未来や過去を考えるとき、それは既に存在しているのではないか?目に見えないだけであって、それは確かに在る。我々がレストランで、ハンバーグとオムライスで迷ったとするならば、それは既に未来に存在している、更にこれは頭の中に存在しているのではなくて外部に存在している。確かに頭の中で考えていることだが、しかしそれは頭の外部にあるように感ぜられる。
これは別の例を挙げれば、我々が誰かに腹を立てて誰かを殴ろうと考えているとき、それは考えていると言いながらも、それは実は外部にあるはずであるし、それは必ずその殴ろうとする対象の身体に付随しているはずなのである、だとすればそれはやはり外部にある。この思考したものが必ずしも内部にあるわけではなくて実は外部にありうるというこここそが、本著では述べられていないが、二元論を超克する鍵だと思われる。つまり、我々の思惟が実は外的なものであったとするならば、我々の思惟が身体と捉えられる(まあ、この枠組みがパラダイムなのだが)ということだろう。あるいはその逆も言える。我々の肉体も実は内的なものであるとしたら、我々の肉体も精神と考えられる(これも二元論的なパラダイムに縛られている)。著者はこのパラダイムにつかってしまった自分を明晰に意識しながらここから逃れようと刻苦している。そうして、亡くなってしまったわけである。-
こんにちは。フォロー解除の件、了解しました。私としてもやはり残念ですが、思うところがおありとのこと。(こちらからのフォローは継続しても構わな...こんにちは。フォロー解除の件、了解しました。私としてもやはり残念ですが、思うところがおありとのこと。(こちらからのフォローは継続しても構わないのでしょうか?)
解除の際に丁寧にコメントまで残してくださる方というのはなかなかいらっしゃらないので、その点嬉しかったです。しかも先輩からお褒めの言葉まで頂いて!
今後もカズハさんがよい読書生活を送られることを願っています。では、また御縁があれば。
2011/11/11
-