武満徹エッセイ選―言葉の海へ (ちくま学芸文庫)

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著者 : 武満徹
制作 : 小沼 純一 
  • 筑摩書房 (2008年9月10日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (476ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480091727

武満徹エッセイ選―言葉の海へ (ちくま学芸文庫)の感想・レビュー・書評

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  • 武満徹の放つ音楽への言及は、つまるところ書道をはじめとする、諸芸術の領域においても同様に確認できるものである。
    美学的な完成によっては、振動を提起するシグナルとしての書道作品というのは誕生しえないのではないかということを切に感じ、武満が楽譜の定義とした「すでに消えた音」の「再生装置」としての作品というものを見据えた作品制作が書道の領域でも求められるのではないか。


    ○以下引用

    文字を有つ民族の音楽は必ず抽象性へ向かうようであり、文字を有たない民族のそれは、音のひとつひとつがかなりはっきりとした具体的事物(事象)と結びついていて、そのことが音楽表現上の特異な性格を定めているように思われる。

    エスキモーの音楽も、またアメリカ・インディアンの音楽も、そのように発音されることによって音楽としての、また言葉としての意味をはじめて獲得するのである。音楽や芸能はつねに社会的な役割、つまりインフォメーションとして存在するのであり、音楽それ自体として純化されることはない。そしてまた、そうした社会(それを私たちは文明化されていない未開と呼んでいるが)にだけ、呪術的力は顕在するように思える。

    印刷文字を所有してサイレント・インフォメーションを頼りとする社会では、音楽は純粋化(美学的に)を目指し、和声的には複雑さを増しながら、旋律的抑揚に乏しい、また無音の効果については考慮しないようなものになっていく。

    西欧的な教養によって民族の独自の思想がさらに深められ、それがゆるぎない生活の基盤として老人の全体を支えている

    歴史は過去から現在への時間的な帰結ではなく、人間の記録であり、生きた人間の血液を運ぶ動脈のようなものでしょう。

    私は、音楽はやはり人間の生の奥深い部分へ働きかける力であるのだ、と思っています。

    私は、その聖性と卑猥な力がたくまずも渾然と、身体の細部とその全体に豊かな表情として顕れる舞踏の前で、実は全く言葉を失っていた。

    ことばの指示機能が尖鋭になることで、(私たち)が失ってしまったものは大きいように思う。たとえば、本来そうあるべきではない音楽ですら、知的な細分化を繰り返して、「私はどうも音楽は解りません」というような不可解なことを、言わしめ、それがまた当然のように聞かれている。音楽は知的に理解されるだけのものではない。

    音楽には、ことばのように名指ししたり選別したりする機能はない。音楽は人間個々の内部に浸透していって、全体(宇宙)を感じさせるもので、個人的な体験でありながら、人間を分け隔てるものではない。

    音楽言語ということが言われるが、これは一般的な文字や言語と同じではないだろう。

    かれら原住民にとって、すべては自然と大地が齎すものであり、かれらの生は自然に支配され、かれらはけっして自然を支配しようなどとは思わず、かれらのうたや踊りは、だからかれらの肉体を通して表象される自然そのものなのである。

    私は音楽というものを通して、人間が当面しているさまざまな危機的状況の中で、「ちょっと待ってくださう。一緒に考えましょう」と言い続けているのです。だかた私の音楽は必ずしも楽しいだけのものではないだろうと思います。

    音が出にくいような不自由さを人為的につくって、そこでひとつの音を生み出す。そうして得られた音は、力強く、また意味深く、多義的なものになるわけです。

    ぼくは作曲家として、人々と何のかかわりもない場所で仕事を進めていることに耐えられなくなったし、ぼくは、自分なりに結びつきの確かさが欲しかった。

    人々が音楽に対して無理解なのではなくて、音楽が人々の生活と無縁の場所に、無駄な軌跡を描いていることを言ったのではあるまいか。

    音楽は、本来数理的な秩序の上に成り立つものだ。作曲家が、数の錬金術をきたえあげることで、普遍的な全き美をめざすことに誤りはない。が、音楽にかぎらず、ぼくたちの仕事は、精神において触れえた事物を提示することにある。芸術は創造的精神の具体化に他ならない。音楽作品は【音】を媒体として、精神によって捉えられた事実なのであり、その意味で、作品はまったく具体的なものである。

    あくまで人間の実在を探求するはずのものであり、作曲家が外形の図式的な追及にのみ終始するとしたら誤りも甚だしい。

    十二音音楽において顕著な、音楽の数学的・幾何学的な追及は、まったく知的な行為であって、それは美学の純粋性が際立ちすぎることによって得る欠陥と同様の結果をまねくであろう。そこには芸術創造の第一の要素である感受性を硬くし、固定させるおそれがある。

    その頃の人々と外界との照応はすばらしいものだった。人々は樹々と交わり、石と交わり、空と交わっていた。そして、そこでは詩と宗教と歌と踊りが、未分化されない総体として在った。

    スワヒリ語の単純な反復は、まるで音楽のように響く。これらの言語はすべて沈黙を母胎としてうまれ、発音されることで生命を有つ。

    発音とは、言葉の容量以上の意味内容をそこに充溢させる行為を意味している。

    音は、時間を歩行しているからいつも新しい容貌でわれわれの傍にいる。ただわれわれは、いくらか怠惰であるためにそのことに気付かない。

    なにものにもとらわれない耳で聴くことからはじめよう。やがて、音は激しい変貌をみせはじめる。その時、それを正確に聴くことが聴覚的想像力なのである。

    人間の周囲にある自然とか、世界のすべては無名に等しい状態にある。それらを人間が名付けたり呼びかけたりするときに、そのような無名のものが、人間のものとしてよみがえる。同時に人間と同化する。私たちが一本の樹を【樹】を名付けるときに、美はその最初の姿を現す。

    言葉と交渉を持つと、私のなかに他者があらわれ、私の考えは緩やかにだがひとつの方向性をもった運動として収束されていく

    イルカの交信がかれらの鳴き声によってではなされないで、音と音のあいだにある無音の間の長さによってなされているという生物学者の発表は暗示的だ。

    琵琶や尺八の演奏をはじめて耳にして笑うことは、かならずしも不真面目なことではありません。

    私たち人間は、各自のさまざまな特徴をもちよってそのユニヴァーサル・エッグに同化させ、新しい文明が生まれるための、さまざまな差異の錬金術的融合と対峙しなければならないのです。

    楽器というものは、人間という有機的な器官の延長、あるいはその拡大と考えることができよう。また、言語だけでは伝えられない(人間の)感情表現の一部を扶けるために創り出された道具であると見なせるだろう。

    東洋音楽の多くは、そのような騒音をいずれもたいへんだいじにしていますが、それがさわりという言葉で、美学的に捉えられているのは日本だけではないか。

    (尺八の先生)その方が吹いた音というのは、スキヤキのぐつぐつという音と何ら差別されないのです。日本の音楽がある理想として持っていたのは、さきほどお話したピーンというようないろいろのノイズ、自然の音と同じである。全くそれらは異なった音ではあるが、平等の価値をもっている。

    尺八の先生が自分の演奏で一番望む音は、朽ちた竹やぶに風が吹いてきて、その根方にあたって自然に出てくる音、そういう音を自分が演奏することができたら一番すばらしい

    西洋の音楽というのは、まず個人の自我を相手に音を通して伝えるということがあるわけです。自分の言いたいことを通す。
    ところが日本の音楽の場合は、自己を否定する方向に向かっている。今まであげた例でもおわかりだろうと思いますけれども、尺八の先生がいつも自分の演奏の訓練のために、朝四時半から練習をするわけですが、それは何か決まった楽曲を練習するわけではなくて、ただ一つの音だけを吹いたりする。

    風鈴がチリンと一つ鳴った音を美しいと感じる、そうした一つの音にある美しさを感じることができる、そういう感受性を持っていると思うのです。

    西洋の音楽の場合は、Aという音とBという音を積み上げて、そのために「ベートーベンの音楽は音楽的建築である」などと言われているのですが、音という一つの単位-一つの音自体は何もものを言わないけれども、それが二つぶつかりあうことで表現行為が生まれて、それをどんどん積み上げて音楽表現をしていく。自然と対立するものとしてあるわけです。もっとつっこんでいくと【神】という問題になってくると思います。
    東洋の場合だと、自然から人間を仕切るのではなくて、たえず自然と一緒になろうとしている。

    音を通して人間の実在を追及するはずであったわけです。そして、そこにいろいろな音楽的形式とか秩序法則が生まれたのですが、いつのまにか本当のことを忘れて、ただ形式の新しさ、技法上の斬新さだけを追求するようになってきました。

    私は西欧的な音楽教育を受けた者であり、その事実は拭い去ることはできない。単純に言い切れる事柄ではないが、私が方角の音に強く心を動かされたのは、この事実と無関係ではない。

    あくまで音楽は個人的な感情から出発するものですが、それがあるひとつの方向性をもって他者にはたらきかけるということです。

    今日の作曲家としての自分を形成しているものは、もちろんいくらかの音楽的知識もかかわりがあるのでしょうが、それよりも自分が読んだ一冊の本、また出合った友人、あるいは一枚の絵画、そういったものなのです。

    音楽というものの根本を考えれば、それはある意味では、未分化の挙動というか、生の挙動そのものともいえましょう。それは、泣いたり、笑ったり、あるいはくしゃみをしたり、というようなこととも深いつながりをもっているだろうと思います。そういうところから、音楽は生まれてくるのであり、音楽を教養とか、知識として理解しようとするのは間違いです。

    いろんな違う人たちと仕事をする、例えば映画音楽もそうですが、自分のうちの未知なるものというか、思いがけない自分を発見することがあるのです。

    僕の場合、自分の中に音楽的な感興がワッと湧いて来て作曲しようと思うのは、自然の風景を見て心を打たれた時が多いです。それも日本の自然です。なぜか僕は、日本でしか作曲できない。

    受けた感動を音楽的プランに置き換える。つまり、メタファーをやっているわけです。僕は最初に緻密な構想を立てる方ですが、いったん書き始めたら、もうそれにはとらわれません。

    作曲を開始する前に、言葉との激しい交渉をもたなければなりませんし、そうしなければ、音楽的な表現、音楽的な行為は生まれてこない。

    自分の内側に言葉を獲得したときにはじめて、自己の内部に「他」への自覚が生まれてくる。そしてついに、音楽を書き始める時点では、自分をも「他」として客観視するようになります。ですからぼくは、音楽家が言葉で語ることもまんざら無意味ではないと考えますし、逆に、他者に対しての確かな認識を経ない作家の表現行為は、ほんものではなありえないのではないかと考えます。

    すなわちこの他者とは、具体的な聴衆、鑑賞者あるいは読者ではなくて、ヴィクトル・ユゴーが指摘している、「自己の内部にこそ求められなければならない外部にあるもの」ではないかとぼくは認識しています。

    きわめて限定的に考えようとするのが、科学者、哲学者の態度であって、芸術家はいつでも言葉をもっと動的な、変化し続ける状態として捉えようとしていると思います。

    言葉が言葉自身の肉体をもちえない、あるいはわれわれが言葉を肉化していない、肉体にしていないといったほうが正しいように思います。

    色彩のサンプル帖を頭に持っているが、あるときそれを超えて、色彩自体の自発性を発見し、色彩に肉体を与えたい、という希望を語っている。

    作曲家の耳程、けがれた耳を持っている人間はない。

    子どもが見せる突然の感情飛躍は、肉体の生理と精神の生理とが不可分だから、というより、それは肉体とか精神を超えた生命そのものの表れなのだ。

    衰弱した肉体と虚大な精神が、大人の言葉を貧しいものにしている。

    奇妙なことにみえるかもしれないが、哲学者の方が遥かに詩人よりも言葉を信頼しているのだ。詩人はむしろ言葉と意味との食い違う部分、つまり暗示の入り込むような部分だけを信じるといえようか。言葉と意味の食い違いが生む空白、ある眩暈、その部分にこそ、詩人は彼の現実を定着しようとするのだ。

    私は、作曲という仕事を、無から有を形づくるというよりは、むしろ既に世界に遍在する歌や、声にならない呟きを聞き出す行為なのではないか、と考えている。

    音楽は、紙の上の知的操作などから生まれるはずのものではなく、音符をいかに巧妙にマニュピュレートしたところで、そこに現れてくるのは擬似的なものでしかない。それよりも、この世界が語り掛けてくる声に耳を傾けることのほうが、ずっと、発見喜びに満ちた、確かな、経験だろう。

    生活空間の中に聞こえているなんの変哲もない響き。主人公の義母が履く下駄の乾いた木質の音、遠い人声。それら画面の外から聞こえてくる物音が、静的な長回しの画像を驚くほどいきいきと息づくものにしている。

    音は消えるのだ。楽譜は、作曲家が聴きだした、実体としての音を、再び、時空を超えて、この世界に呼び戻す装置であり、その不完全さが、逆に、そのことを可能にしている。つまり音楽史は、一面において、転写と注解の果てしない繰り返しである。

    異なった音が木霊しあう世界に、ひとは、それぞれに唯一の声を聞こうとつとめる。その声とは、たぶん、私たちの自己の内側でかすかに振動し続けている、あるなにかを呼び覚まそうとするシグナルであろう。いまだ形を成さない内心の声は、他の声(信号)にたすけられることで、まぎれもない自己の声になる。

    思想というものは、私の考えでは、絶えずそれへ向って形成されつつある状態、あるいは、個人としての人間の内部に起こり続けている状態へのひとつの決定なのである。

    それが音楽としての生きた響きとなるには、私の力だけで、それを行うことはできない。私の「歌」が、新しい振動として社会のなかにひとつの方向性を得るとすれば、それは、さまざまな他の波長との触れ合いによってなのである。

    音楽的感動、音楽的体験はつねに個人的なものであり、音楽は生の「開始」のシグナルとして私たちを変える。そして、それらの無数の個別の関係が質的に変化し続け、ついに見分けがたく一致する地点に社会はあるのでないか。社会は、自己と他とが相互に変化し続ける運動の状態として認識されるべきであると思う。

    音楽は記憶とむすびついて、時にひとを過度な感傷におとしいれることがある。だが、そういう音楽は人をただ一か所に立ち止まらせるだけだ。それは「他者」としてあらわれるものではない。音楽がもっとも純粋な始原的な「歌」の形としてあらわれるときは、それは見ることができない。

    私はそれと出会ったことで、もう昨日の私ではなかったし、その歌もすがたを変えてしまった。

    生は自らの手で獲得されなければならないが、しかし生は個人の営みにおいて完結するようなものではない。まぎれもない自己の生は「他者」との有機的な関係のなかにおいてあらわれるものであり、それは正しくは個をこえたものである。

  • 語られているのは、頭で考えて組み立てる「音楽」も、自然の中に存在する「音」と同じように奏でられないか、ということ。

    「すぐれた音楽とは、すべての音と対等に、ほんとうに同じ量で測りあえるぐらい強い」

    前衛的で難解な音楽を作る人だろうという先入観があったが、そのストイックでシンプルな言葉でつづられた音楽観に興味を持った。

  • さすが音楽家。文章のリズムにものすごくこだわっているのがわかる。


  • 《武満 徹》

    という邦人作曲家を知ったのは1951年に作曲された“妖精の距離”を聴いたのが切欠だった。確か三年ほど前の事だったと思う。
    瀧口修造の詩からこの曲の題名が取られているという事を知ったのもこの曲だった。
    和声の上に可憐な和声が折り重なって出来たこの曲をとても純粋に綺麗だと思う。
    そして、それが切欠でこのエッセイを読んでみたいと思うようになった。純粋な好奇心。
    ストラヴィンスキーが「厳しい、実に厳しい。このような曲をあんな小柄な男が書くとは…」と彼に言った。
    それを聞くと、彼はいったいどんな文章を、物語を書くのだろうか、という気持ちがあった。

    このエッセイには彼の書いた散文も含まれている。
    そしてそこに《骨月》というものまであったのには少なからず運命を感じてしまったわけだが…。>「骨水」
    彼の文章は音楽と文化というものが一対になって一つのものになっているような気がする。
    西洋と東洋の融合だ。琵琶や尺八や笙などの声とオーケストラの声が融合する。
    そしてそこには変わることの出来ない血の壁がある。それはどうしようもない差であり、砦でもある。

    たくさんの人々に読んでもらいたい。
    彼を知らない人も、クラシック音楽を知らない人も、日本人でも、日本人でなくても、隔たりなく読んでもらいたいと、切に思った。
    いつも同じ場所からではなく、歩きながら彼の言葉の姿を見てもらいたい。前から後ろから横から上から下から。いろんなところから。

    (2009.01.22)

  • 音楽家武満徹のエッセイ。
    面白かった。音楽家だからこその視点があって、「なるほど」と思うことが多かった。
    言葉は思考を規定するものだけれども、実はそれは音楽にもいえる事で、音階が規定されていることで、
    音楽の幅が狭まっているのではないかというようなことが面白かった。
    他にもかれは自然を愛していて、自然の素晴らしさを言っており、自然に対する感性の大切さを言っていた。
    また、日本の音楽と西洋音楽の違いを言っていて、西洋音楽が全体の構造を重視する一方、日本の音楽は日本の風土と関係があり、風のように音自体の移り変わりを大事にするようなものだといっていた。

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