行動する仏教: 法然・親鸞の教えを受けつぐ (ちくま学芸文庫 ア 9-7)
- 筑摩書房 (2011年8月9日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (254ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480093967
感想・レビュー・書評
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「絶望」と「無関心」の正体◆「有限」に立ち向かう◆「エゴ」を転換する◆時代と向き合う◆「末世」のただなかで
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●以下引用
趣旨には賛同してくれても、実際に行動をともにする人は少ない。あるいは、どんなに正しく、また道理のある主張でも、人々がかならずしも耳を傾けてくれるとは限らない。こうした状況がつづくと、折角の運動も挫折しがち
どんなに正しくとも、また道理にかなった主張であっても、それが相手に受け容れられないということは、自分の主張が挫折しているということだ
なぜ受け容れられないのか。それは、正義や道理を主張している人も、それに賛同しない人も、同じ人であることにかわりがないにもかかわらず、正しくて道理にかなっているということだけの理由で、それを受け容れるのが当然であり、それを拒むのは人間としておかしいという差別が主張する側に生まれるからではないか。
「絶望」は、「自己主張」の挫折にある
自分は正しいという気持ちが強いほど、「絶望」も生まれやすい(中略)人はそんなに簡単に他者のいうことなど聞くわけがないという、ありふれた事実に目をつぶってしまうのだ
「無関心」が感覚的な自己保身に根ざしているということがよく分かる
人々が、正しいこと、道理にかなった主張や運動に「無関心」を装うのは、今の自分の「こだわり」を優先させるからであろう。彼らの主張に賛成すると、今の自分の生き方の方が揺さぶられて、場合によれば壊されるのではないか、というおそれや不安をいだくのだ。
自己というイメージが固まってくると、自分はいつも正しくて、悪いのはあの人だという「自是他非」という思いこみが激しくなる
「絶望」や「無関心」は「自己」へのこだわりから生まれている。そして「自己」を「もの」のように独立した不変の存在として、他から絶対に侵されてはならないという信念によって守ろうとする。だが、すでに見てきたように、そのような独立不変で絶対的な「自己」は、一つのイメージに過ぎない。あるいは「思い込み」なのだ。
一たび「自己」が関係性の網を使って「拡張」されるやいなや、「勇気、忍耐力、独創性」などのそれまでに経験したことがない能力が動員されて「同化」へと歩む。
シナジーとは、「何かのための行動に立ち上がるさい、私たちがまさにその守ろうとする存在たちの分身となり、それらから応援を受けるという現象」
幸・不幸にかかわらず、人生にたじろかずに生きて行ける「立脚点」をもつことが宗教だと私は考える
人になにかを施すという行為によって、自分をはかるのである。
僧侶たちは人々に「布施」の機会を与えているのであり、人々は「布施」によって自分のすがたを内省する機会を得ているはずなのである -
副題は「法然・親鸞の教えを受けつぐ」
仏教(浄土仏教)を軸として3.11以後のこの世界での生き方・死生観を説く。
楽しかったなあ。
・南無阿弥陀仏
・あの世でなく現実で力を発揮
・不如意なことに力を注がない
・凡夫という人間観→希望へ -
2014年99冊目。(再読)
「絶望」は「自己愛」から生まれる。
自己主張が叶わないところに生まれる。
完全に独立した自己「エゴ・セルフ」から、見えない繋がりも含めた無数の因・縁を感じる「エコ・セルフ」にシフトする必要があると説く。
私たちは「凡夫」であるという謙虚さが、末世の時代でも絶望を乗り越える力を与えてくれる。
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2012年12冊目。(2012年2月12日)
絶望は自己愛から生まれる。
その絶望を希望に転換する方法を説く。
曰く、
■自らが「凡夫」であることを認める
■因縁果の無数の繋がりの中の自分を自覚し、独立した自我という考え方をなくす(滅私:「エゴ・セルフ」から「エコ・セルフ」からの転換)
■「念仏のみぞまこと」という立脚点を持つ
など。
仏教徒でない自分は最後の部分は吸収できないが、
最初の二つは元々持っていた価値観ととても近かった。
「絶対神」を持たないこともあってか、
仏教は「宗教」というよりも「哲学」に近い印象を受けた。
阿満さんの他の著作や、親鸞についての本も読んでみたくなりました。 -
末世であるかのような日本・世界の現状。「絶望」と「無関心」が人の心を蝕んでいる。
そのような中、法然・親鸞の教えを拠り所に、どのようなスタンスで現状と寄り添っていけばいいのか、過去の宗教家の足取りを踏まえ、言及し、凡夫である私たちに一定の心構えを示唆してくれているのが本書である。
法然・親鸞の教えが如何に普遍性があるのか、そのことを論理的に教えてもらって、気持ちがすっきりとした。