来るべき書物 (ちくま学芸文庫 フ 10-2)

  • 筑摩書房
3.60
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感想 : 7
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  • Amazon.co.jp ・本 (575ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480095060

作品紹介・あらすじ

20世紀フランス最大の文芸批評家モーリス・ブランショの代表作。「作品とは、作品に対する期待である。この期待のなかにのみ、言語という本来的空間を手段とし場所とする非人称的な注意が集中するのだ。『骰子一擲』は、来るべき書物である」。そしてブランショは、作品の奥行、あるいは作品群が構成する世界のみならず、作品を作り上げる作者の精神そのものと直接対峙する。取り上げるのは、マラルメ、プルースト、アルトー、ルソー、クローデル、ボルヘス、ムージル、ブロッホ、ジューベールなど。燦然たる輝きのもと、作品や作者のイメージを一新させる、鮮烈で深い、全26章の批評集。

感想・レビュー・書評

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  • 文学を表す言葉とは異なる、しかし、切れ味の良い明確さはなく、だからと言って難解でもない。

    一言で言うと、遅読が要される。

    自殺したヴァージニア・ウルフについての論考が興味深かった。

  • 通称"顔のない作家"こと戦後フランス最大の文芸批評家、ブランジョが50年代に発表した小論を集めた批評集。エクリチュール(文章表現)は書かれた直後に作家から切り離され、書き手は不在になるという主張から成される文学的考察は難解ではあるが、「読まれること」そのものに対する思索を深めることで文学の可能性を切り開いたという点では後続の思想家に与えた影響力大。文学は日常を超えた所にあるからこそ死や実存というものを取り扱えるのであり、そうした非日常的な問題の本質が問い直される度にまた、文学の可能性も更新されていくのだ。

  •  
    ── ブランショ/粟津 則雄・訳《来るべき書物 201301011 ちくま学芸文庫)
    http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4480095063
     
    ── ブランショ/出口 裕弘・訳《文学空間 19621001 現代思潮新社》
    http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4329000989
     
     Blanchot, Maurice 19070922 France 20030220 95 /“顔の無い作家”
     
    …… 1946年にバタイユが創刊した雑誌「クリティック」の編集に協力
    しながら、書くとはどういうことかについて考察し、マラルメやカフカ
    のエクリチュールに見出した書き手の不在や死の経験を、また無為や忘
    却といった事柄を書くことそのものに結びつけていくことになる。戦後
    のブランショは顔写真一枚公開することなく、ただ書かれたテクストを
    書物として提示するのみとなるが、それは「書くとはどういうことか」
    について考えていく中で彼が辿りついた、「書くその場において、そし
    て書かれたものにおいては書き手は不在となる」ということを自ら引き
    受けたことを示すものでもある。このことから、ブランショは、
    「顔なき作家」「不在の作家」と呼ばれるようになる。
     小説と批評の両面において注目されるようになったブランショは、
    1955年に『文学空間』を発表した。さまざまな文学者や文学作品を論じ
    ながら、ハイデッガーの存在論を批判的に応用し、書くことについて、
    エクリチュールについて、死について、「非人称の死」について、そし
    て書くにあたって書き手が潜り彷徨う場としての「文学空間」について
    論じたこの本によって、ブランショは文学についての思想・思考に新た
    な一歩を記し、批評の新しい局面を開くとともに、現代思想の最前線に
    位置する思想家として知られるようになる。(Wikipedia)
     
    (20220410)
     

  • ふむ

  • 苦しむことと考えることとは、密やかなかたちで結ばれているということだ。なぜなら、苦しみとは、極度のものになると、苦しむ能力を破壊するものだからである。時間のなかにあって、つねに自分自身に先立ち、それが、苦しみとしてしっかり把握され成就される時間を破壊するのだからである。思考についてもおそらく同様のことが言えるのだ。奇怪な関係だ。極限的な思考と、極限的な苦しみとは、同じ地平を開くのであろうか? 苦しむことは、究極的には、考えることなのだろうか? p.90
    象徴的な読みかたは、文学的なテキストに対する、おそらっくもっともよくない読みかたである。あまりに烈しい言葉に当惑するたびに、われわれは、これは象徴なのだ、と言う。聖書というこの壁は、かくして、魂のちょっとした疲労のかずかずが憂愁の色で色どられる甘美な透明性と化した。荒々しいが慎重なクローデルのごとき人間も、聖書の言葉とおのれの言葉とのあいだにおいたさまざまな象徴にむさぼり喰われてあやうく死にかける。言語の真の病いである p.181

  • 何年か前、モーリス・ブランショを集中的に読んでいたことがあったが、この『来るべき書物』だけはハードカバー版が7千円もしたので、なかなか買えずに先送りしてきたのだ。今回なんと、ちくま学芸文庫が出してくれた。
    モーリス・ブランショの書く物は難しい語句を使うわけでもないし、ねじくれた文体で難解さを表出してくるわけでもない。ブランショにある「難しさ」は、彼独特の思考の傾向にある。極めて難解でとらえどころのない彼の小説群より、文芸批評を読んだ方が、ブランショの思考を捉えるのに向いている。それを経ないと彼の小説には肉薄できないかもしれない。
    文学(小説、詩)について書かれた文芸批評は、それ自体が文学である。20世紀には哲学者に分類されるであろう人々もよく文学を論じた(フーコー、ドゥルーズ、デリダ・・・)が、不思議なことに、文学が論じられるとき、そのディスクールそのものが文学になってしまうという事が起きる。
    「ブランショ文学」は、その独特の文体(エクリチュール)に沿って、コンテクストの中で、読解される必要がある。この本ではとりわけマラルメの『骰子一擲』が「来るべき書物」として神話化されるのだが、各ページにあらゆる方向から文字が並べられたマラルメのこの「現代詩」は、音楽で言うとちょっと図形楽譜を連想させる。その価値とは何か、と追いかけるのはしんどいものの、マラルメとブランショは結局はまったく別の思考をもった別人であり、ブランショが語った神話を論理をたどって、ブランショの小説に戻っていく読み方が良さそうだ。

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著者プロフィール

1907年―2003年。20世紀後半のフランスが持ち得た最大の作家・批評家の一人。主な邦訳書に『至高者』(筑摩書房)、『死の宣告』(河出書房新社、)、『望みのときに』(未来社)、『私についてこなかった男』(書肆心水)、『最後の人/期待 忘却』(白水社)、『文学空間』(現代思潮社)、『来るべき書物』(筑摩書房)など。

「2013年 『他処からやって来た声』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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