ブス論 (ちくま文庫)

著者 :
  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (294ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480420923

感想・レビュー・書評

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  • “この論の目的はブス礼讃ではない。美人礼讃でもない。”(本書18頁より引用)、“現代、これほど人の人生を左右していると思われるブスであるのに、世の中には美人論と思しきものは多いが、ブス論と思しきものは少ない”(本書20頁より引用)という著者の思いから書かれた本である。解説の小谷野敦氏によれば、日本初のブス論が本書とのこと。1999年より連載が開始され、2001年8月にマガジンハウスより『太古、ブスは女神だった』というタイトルで刊行された本書は、日本人が、とりわけ日本フェミニズムが真面目に考えてこなかった容姿の問題に対して正面から切り込んだ初めての本になるとのことである。

    内容は小谷野敦氏が「日本におけるブスの歴史」という言葉で要約している通り、古典文献に見られる容姿の悪い女性と(数は少ないが)男性が、その時々の人々にどのように見られてきたかを記紀神話から『東海道中膝栗毛』まで論じ、最終章で近現代についてとまとめがなされるという構成になっている。

    本書を捲ると最初の頁から、

    “ 日本最古のブスは、日本最古の神話に現れる、日本最古の女神である。伊弉諾尊(以下イザナギ)とまぐはひして、彼とともに日本国土を生んだ原初の女神伊弉冉尊(以下イザナミ)である。”(本書11ページより引用)

    という言明がなされ、万葉集の「醜(しこ)のみ楯」(三島由紀夫の楯の会の名前の由来ですね)という歌にある通り、佛教到来以前の古代大和族の観念では「醜」は「力」に通じていたものが(本書31-33頁)、佛教の普及によって次第に「醜」が持っていた力が失われていくというのが本書を貫くメインテーマになっている。

    また、本書では法華経の佛罰思想の論理的延長上に、「障害や悪い顔を持って生まれたことは前世の佛罰なのだから、馬鹿にしたり悪く言ったりしても何ら問題はない」という発想を生み出し、平安貴族の間に広く流布したという事実が強調されている(本書第2章、3章、4章)。具体的にはこんな感じである。

    “ 『日本霊異記』の時代には知識にとどまった仏教が、平安文学花咲く平安中期には、貴族の生き方を支配する価値観に高まり、貴族たちは前世に定められた“宿世”…宿命…が現世を決定すると信じた。男女の仲も幸も不幸も「運命」と受け止めた。『宇津保』や『落窪』と同じ頃には『三宝絵』や『往生要集』などの仏教説話集や論集が成立し、貴族に読まれもした。”(本書51頁より引用)

    “ 仏教の説く悪業を犯した者には醜く臭く病気がちな身体、善業を積んだ者には欠点のない美しい身体が、現世で、あるいは来世で、授けられるというのだ。面白いのは、完全なる人体を説明する際に「〇〇のように美しい」といった積極的な美の形容よりは、「〇〇のように醜くはない」という消極的な形容をしている点。醜は、美に矯正すべき不完全で病的な状態におとしめられ、また道徳的な悪行と結びつくことによって、それ自体、罪の現れであるという発想がここにある。こういう発想がとくに知識人に流布し、植えつけられたのが平安時代だった。
     だからこそ平安貴族は、ブスやブ男を笑うのに遠慮しなかった。それはむしろ前世の悪業を証明する、軽蔑すべき印と思われていた。一方、美貌の人が“いと罪軽きさまの人”(『源氏物語』)と一目置かれるのとは対照的に。”(本書54頁より引用)

    “ 物語を見るかぎり、『源氏』が生まれた平安中期の貴族一般は、醜い人、不運な人を軽蔑し、笑い者にするのに憚ることがなかった。仏教的な悪業を犯すと、醜く臭く病気がちな体になるという法華経の教えが貴族に流行したのと、外戚政治のシステムが、美貌至上主義に拍車をかけたのだ。”(本書72頁より引用)

    私は本書を読むまで、法華経を全ての人々が残らず成佛できることを説いた素晴らしい佛教経典で、天台大師智顗が大乗佛典の中で至上のものだとしたことを当然だと思っていたのだけれども、実は法華経こそが容姿や身体障害への差別を、本人にはどうしようもない「前世の悪行の報い」という発想から肯定する思想の背景にあったことを思うと、そんな悠長なことは言ってられなかったんだと反省した次第です。

    ちなみに、大乗「仏教思想を背景にこのような不利な身体的な特徴や障害と、それに伴う差別を「前世の悪行の報い」として肯定していた日本にて、「人を顔で判断すべきではない」という発想が定着したのは著者によれば儒教の普及によるとのことである。

    “ はっきりと「人を顔で判断すべきではない」という観念が定着したのは、儒教道徳が根づいた近世以降のことである。こういう意味で、生まれつきの顔の悪さや障害を前世や心の悪さに結びつけられ、いわれなき差別を受けてきた人々にとっては、儒教道徳は福音だった。”(本書15頁より引用)

    前田勉先生が強調なされている通り、江戸時代の儒教、とりわけ朱子学は積極的自由を思想的に唱え、部落差別の批判や売春の批判など先駆的な問題提起を行っていたのだけれども、本書ではこの儒教と容姿の問題については十分に展開されていなかったのが心残りだった。儒者であろうと顔で人を差別しない訳がないと思いつつも、建前としては「人を顔で判断すべきではない」ということを言い続けたのか、それとも本当に人間を外面ではなく内面でとらえようとし続けていたのか、気になるところである。ぜひとも大塚ひかり氏「には今後『女大学』などの女性向けの儒教的な処世訓との関連の中でこの問題に切り込んでほしい(もうそういう作品を書いていたならばごめんなさい)。

    最後にルッキズムについて一言。私はルッキズムを問題だと思うし、江戸時代までの日本のように、見た目の善し悪しが前世の悪行と結び付けられて、見た目が悪い=人間性が悪いという発想がまかり通るような社会には暮らしたくないと思いつつも、自分自身の心性として見た目の良さを好んでしまう気持の克服は困難だと思うし、果たして社会を挙げて克服しようとすることが正しいのかというのもやはり疑問だと考えている。というのも、ルッキズムの問題に集団的に原理的な対処を行っているのはイランのイスラーム革命政権だけれども、

    “……一九七九年三月を境に、ヴェールは、反国王運動のシンボルからイスラーム政権へのシンボルへ、「選択」から「強制」へと変わったのである。
     対外的には、全人口の半数を占める女性たちを覆う「ヴェール」は、西洋的な価値に真っ向から挑むイスラーム共和国のシンボルそのものとなった。イスラーム政権の指導者たちは、肌を露出させた女性たちで溢れる西洋のメディアを、道徳的退廃と女性蔑視の象徴とみなし、「女性の商品化」をもたらした欧米の女性解放をこぞって批判した。これにたいして西側諸国は、ヴェールのなかに女性を閉じ込め、彼女たちから選択の自由を奪ったイランの後進性を嘲笑してきたために、両者の溝は深まるばかりであった。”
    (桜井啓子『現代イラン――神の国の変容』岩波新書、2001年7月19日第1刷発行、147頁より引用)

    “ イスラームにおけるヴェールは、本来「私的空間」に存在すべき女性が、やむなく男性の支配する「公的空間」に入る場合に、男性の邪な視線を遮断し、女性としての「名誉」を守るためになくてはならないものと考えられている。実際、女性たちは、イスラーム的服装を遵守することで、学校、役所、病院といった公的な場で働く権利を獲得してきた。普段着の上に地味な色のコートとヴェールを羽織るだけのビジネス・スタイルは、男性の視線ばかりか女性の視線からも解放される気楽さがある。「強制」されていることへの不満はあるものの、「隠す」ことの気楽さや便利さもそれなりに実感されている。西洋の女性が、「見せる」ことによって自己を表現してきた結果、常に「見られる」存在であることを強いられてきたのにたいして、イランの女性は「隠す」ことを強制された代わりに、「見られる」窮屈さから解放されたとみることもできる。”
    (桜井啓子『現代イラン――神の国の変容』岩波新書、2001年7月19日第1刷発行、149頁より引用)


    以上に見るように、”「女性の商品化」をもたらした欧米の女性解放”を根底から批判し、”男性の邪な視線を遮断し、女性としての「名誉」を守る”ために女性にヴェールを被せることを正しいと言い切れるのかというとそんな気はしない。

    ある人が他人を外見からの情報についてそれを肯定的に判断するか、否定的に判断するかというところにまでに権力が踏み込めば、それは良心の自由の侵害なので、そのような「ルッキズムをしたがる個人の心性」に対する思想改造を否定したところでルッキズムを原理的に否定するならば、イランのイスラーム革命政権が行ったように外見を変えるというハードな手段が選択肢として残るのだけれども、そういう社会が良いのか悪いのか。多分、日本の女性の大多数は否定すると思うんですよね。男性にもヴェールを強制着用させれば男女平等で良いということになるのか。誰か頭の良い人にこのイランの「女性の商品化」に対抗するためのヴェール強制という手法についての意見を伺ってみたい。

  • 2005(底本2001)年刊。かぐや姫のごとく絶世の美女への求婚譚から始まった日本文学は、源氏物語では末摘花のように決して美形でない女性でも源氏から求められる具合に変遷した、しかし、その後は…。「醜女」という観点から、平安文学、中世、そして江戸期の文芸までを批評し、女性の地位変遷まで炙り出そうとする意欲作。表紙の阿亀(お多福)の面のインパクトが強すぎるが、内容は平易かつ伝わりやすい文体で記述されているので、読みやすい。所々、著者の本音(美人好きな男性に対する怜悧な目)が垣間見れ、くすくす笑いながら読める。

  • 古典文学に登場するブスなどに関しての解説が細かく、ブスと関わる様々なものに対する考察も深くて、とても面白い本だった。古典文学における醜美というのはとても重要であることは知らなかったので、そのような観点からの文学考察はとても興味深かった。現代でも見た目で判断される時代が続いており、昔の日本と比較して、今の日本はあまり変わっていないように感じた

  •  【自分のための読書メモ】
     長男ができたときに、古風で力づよい、かつエスプリのきいた名前をつけようと、講談社学術文庫で、『古事記』と『日本書紀』を大人買いした2年前の夏。読破の夢叶わず、長く積読状態にあるけれど、やはり神話の世界には興味があって、そこで今回、これまた長く積読状態にあったこの本を手に取る。
     昔の人は、感性がおしゃれだ。ネーミングセンスバッチし。言葉が、そのものの状態すべてを表す完全言語は存在しないけれど、コノハナノサクヤ姫(木花開耶姫)なんて、その美しさがこの名前からびしばし感じ取れます。
     漢字の使い方も最高にうまい。やってることは、暴走族のお兄さんとおんなじで、音を合わせて言葉に漢字を当てはめているわけだけれど、1500年たった今もそのおしゃれセンスは不変のものです。
     さて、テーマの「ブス論」については、コノハナノサクヤ姫のお姉さんイワナガ姫のほうが繰り返し登場します。古来、醜は鬼を意味し恐れられていた存在とのこと。僕も醜女ならぬ醜男ですから、もっと大切にされたいものです。

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著者プロフィール

1961年横浜市生まれ。古典エッセイスト。早稲田大学第一文学部日本史学専攻。個人全訳『源氏物語』全六巻、『源氏の男はみんなサイテー』『カラダで感じる源氏物語』『ブス論』『愛とまぐはひの古事記』『女嫌いの平家物語』(以上、ちくま文庫)、『快楽でよみとく古典文学』(小学館)、『ひかりナビで読む竹取物語』(文春文庫)、『本当はひどかった昔の日本』(新潮社)など著書多数。

「2016年 『文庫 昔話はなぜ、お爺さんとお婆さんが主役なのか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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