「自分」を生きるための思想入門 (ちくま文庫 た 32-3)

著者 :
  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480421753

作品紹介・あらすじ

哲学は、生きることが苦しくなったときに役に立つ。それはまた、自分と他人、自分と社会の関係を深く了解するための"技術"でもある。こうした観点から、「私」とは何か、「他者」とはどういう存在か、「世界」とは何か、「死」をどう受け止めればいいのかといった、人が生きていく上で深く考える理由のある問題を、平易な言葉で論じていく。「自分」をよりよく生かすためのヒントに満ちた思想入門である。

感想・レビュー・書評

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  • 「自分」を生きるため,という文言に惹かれて手にとった本。

    思想と哲学の違いが正直にいうと,まだ私はよくわかっていないが,
    本の中には哲学者の考えがいろいろと出てきていたから,
    やはりこの2つは密接な関係にあるのでしょう。

    中に書いてあることは,「自分」がこの世界を生きていくための足掛かりになる内容でした。
    なかなか楽しんで読むことができました。

  • 哲学

  • 「自分とは何か」という問いから、死生観、国家の形成まで話は広がっていく。ただ、話は著者の持論である「欲望」について終始語られており、しかもわかりやすい言葉で書かれているために一気に読める内容だ。
    現代は大きな物語(社会の基礎を築いていた宗教や慣習、倫理観など)が崩壊して何に頼ればいいのかわからない。でも、各人がエロースという欲望の達成に勤めれば、道は開かれる。それをニーチェやハイデガーの思想とともに説いている。

  • p17〜19 デカルトの我〜我=第一と第二の私、キルケゴールの自己=第三の私
    p21 フロイトの自我とエス=第二と第一の私
    #第一の私は非言語であり、第二と第三の私は言語内存在である
    p22 岸田秀「自我=欲望」その欲望は自我を安定させようとする。それが欲望の本質。
    #欲望の源泉は存在不安の解消である
    欲望=物語の形をとる、物語は他人の借り物
    #物語=言語である以上、創作に際限はない。そこで形成される自己も様々な物語の影響を容易に受けて安定しない。
    p31 青年期のアイデンティティの希求は、社会にむき出しになり始めた自己が、拡大していく不安に対してとる態度。
    p38 人間の他人に対する愛は、「私」への愛をテコとしてのみ育て上げられる。〜この「私」という欲望こそが人間の関係的な愛の源泉でもある〜。
    p81 #「欲望存在」は「消費者」に近い違和感。欲望の根源には不安がある。「不安」が関係や物語による自己の対象化を欲望する。
    p89 人間は自分の欲望が何であるかを、最後の最後までは分析できない存在〜
    #人間の欲望の根源は不安の解消。
    第4章不読
    p154 世界とはある客観的な秩序を持った大きな容器〜哲学的な考え方からは〜もはや時代遅れ
    #対象は変わらずそこにあって我々の認識(期待)が変化する。
    p161 古典的な「真理」や「客観」〜に対しては、すでにニーチェが徹底的な批判〜。〜ある共同体にとって都合のいいルールが「真理」と見なされていたにすぎない、〜「真理」や「客観」を“発見“することではなくて、どうやって〜新しいルールを合意として導くことができるか〜。
    p177 〜「よい」ものか「悪い」ものかを決定するのは、〜面白いか、面白くないか、ということだけ〜
    #エロス原理にはもう一つ同意できないが、これには同意。活動を動機づけるものをエロスと呼ぶか不安/期待と呼ぶかは大差ないのかもしれない。
    p185 私の考えでは〜
    p191 人間の生のエロス性の源泉は〜ルールによって成り立っているゲームであることからきています。
    #ルールが先??
    p203 〜「外圧」がものをいいます。
    #外圧は存在を不安に導くから?
    p229 〜まずは自分の社会のルールが、少しでも開かれる方向にあるかどうかをよく注意することのほうが、より重要なことです。
    p234 その理由は人間が時間を生きる存在〜。
    #記憶機能が時間を措定する。時間はそれ自体で存在しない。
    p235 死のルールがバラバラだと、共同体は成立しません。
    p236 死が何であるかまったく分からないと、生というゲームの意味がなくなってしまう〜。
    #自我の消滅として仮定された「死」は「生」という壮大な物語(意味)を打ち立てるが、死が生に意味を与えるのではなく、両者は不可分であり、死ぬからこそ生きられる。
    p237 〜エピクロス〜
    #中観に近い発想か。
    p242 〜この社会的存在ということも、今では大した意味を人間に与えなくなって〜。〜エロスゲームの世界になりつつある。
    #不安の解消は他者からの承認が重要。「私」が言語内存在である以上、利己的なエロスの追求では解消されないのでは?
    p251 〜じつは人間は自我というものに縛りつけられ、こだわっていることが一種の大きな緊張になっている。
    p270 〜
    二人の思想家は〜むしろ大きな問題をわたしたちの課題として〜。〜救済の物語を失って〜、人間はその自己中心性を超えられるかどうか〜
    #自己中心であっても人間は他者の承認を自らの根拠とするため、期待の交換が成立しない領域で自己中心的に振る舞い続けることはできない。従って、自他相互の期待の交換が循環できる社会、世界こそが目指すべき社会像であり、自己像である。またその期待の循環のための物語(フィクション)を生み出し続けることが人間の営みの全てである。

    #結果として著者の思想の起点とはややズレがあったが、自分の考えを深める時間を与えてくれた良著。著者の体験や思考経験が結晶したひとつの物語。願わくば、こうした智者と話してみたいものである。

  • 2017.7.27
    もはや私のバイブルと言ってもいいかも知れない。私の哲学はここから始まっているような気がする。時たま読み直すが、私の中にある重要な考え方や概念はここから始まっている気がする。それぐらい、影響を受けた。
    人間は欲望存在である。欲望は関係に先行する。他者とは何か。関係幻想。ロマン世界。現象学的世界認識。実存とは個々人の課題である。私はまだこの考え方の確信を掴みきれていない、特に竹田さんの「欲望」という概念は我々が普段使う欲望という概念よりももっと深く広い意味を持っているように思えるし、人間はエロス可能性を求めるというのも、この現代社会における薄っぺらい渇望の話だけの問題ではない。早く欲望論出してくれないかなー。

  • 竹田欲望論の立場から、自己や他者、恋愛、社会、死といった問題についてどのように考えるべきなのかを論じた本です。

    われわれ人間は、動物とは異なり、あらかじめ設定された世界と身体の関係によって欲望のありようが定められてはおらず、社会とかかわっていくことを通して、「自分」を活かしエロスを汲みあげることのできるような新たなルールを設定することができます。著者はこうした人間にとっての世界のあり方を、「欲望ゲーム」と呼びます。本書は、欲望ゲームの主体である自己が、世界のなかでみずからのアイデンティティを確立し、恋人や社会と関係を結んでいく姿を描いています。

    また最終章で著者は、死の問題に触れています。われわれの実存にとって死は、世界からエロス的な可能性を汲みあげることを不可能にするという意味をもっており、欲望論の臨界を示しています。著者はニーチェの永遠回帰の思想に独自の解釈をおこない、自分の生の全体を肯定できるかどうかというぎりぎりの問いを通り抜けることで、それ以上の現実はけっしてありえなかったという深い了解が訪れるという道筋を示そうとしています。

    著者の哲学の応用編というべき内容の本です。著者の実存の立場から、実存の有限性という意味をもつ死の問題について論じられている箇所は、興味深く読みました。

  • 苫野さんおすすめの一冊。普遍的なテーマについて哲学的に読み解いて行く。参考になるところも多く、楽しめた。ビギナー向けだが、僕には難しくも感じた。でもビギナーの方にはぜひおすすめしたい。

    2015.3.29再読。同著者による、自分を知るための哲学入門を読んでからこの本を読むことをお勧めする。自分とは、他者とか、世界とは、その関係性とは、死とはについて、過去の哲学者の考えを骨組みに著者の思想を展開した一冊。難しかったが前回読んだ時よりは理解できて、自己や世界に対する理解や考えが広がり、深まり、すごくすっきりした読了感がある。

    2015.10.27再再読。ルソーのエミールに、人間の不幸とは欲望と能力の差であるという記述がある。ならば人間はどのような欲望を持ち、そしてどのようにその差異に対し納得するか、これがわかれば少しでも生きやすくなるのでは、そんな直観をエミールは与えてくれ、そしてこの本と同著者の「自分を知るための哲学入門」が、その直観に対するひとつの答えを与えてくれた。まず死について。死ねば無になる、これはかなり説得力のある言説であり、またエピクロスの言うように、生ある内に死はなく、死ある内に生はない、よって死は原理的に分かり得ない。この暗黒点に対する不安、恐怖が人間にはある。死ねば終わり、それなら人間はただ快楽を求めればいいという、ニヒリズム及び快楽主義に陥ってしまう。まず死に対する解釈として、死があるからこそ生がある。もし不老不死なら、と考えると、食べず眠らず何も欲しない。自我すら成立しない。つまり、無欲である。なぜなら何をしなくても死なないから。これはつまり河原の石ころ同然ではないか。死があるからこそ欲望もあり、幸も不幸もある人生を歩める。死んだら私は無になるが、死なないのならばまた私は無なのである。そして死を避けることを根本に、人間は欲望存在である、と言える。それは幼少期の全能世界から、母から褒められるということを通し、全能世界の挫折による空想的ロマン世界の形成及び母に褒められたいという関係の欲望へと変わる。しかしこの空想的ロマン世界も現実ではありえないため挫折する。そして次に青年期のアイデンティティの欲望へとなる。これは欲望の形を関係の中から、つまり周囲の他者から学ぶことで、社会的な価値観を見出し、それと自分と同一化させようとする物語(私は〇〇だ)の欲望である。このように人間の欲望は、無からの逃避と、全能への憧れ=ロマン的理想自我欲望を持っている。アイデンティティの欲望に至るまでがそうであるようにこのロマン的欲望は、常に現実との関係の中で挫折し、新たに組み替えられた欲望として生まれ、という中で育まれたものである。人間は欲望存在であり、その欲望(ロマン)と能力(リアル)のぶつかり合いこそが、その均衡の了解を刷新していくことが、生きるということである。そしてそのバランスを、取り間違えると人間はスポイルしてしまう。ヤンキーはロマンを捨てきれずしかしリアルも認められず、ルサンチマンに囚われ、反社会的行為と自我を同一化することで全能感を保つパターンではないか。またロマンの挫折から立ち直れず寧ろリアルから身を隠し、自分の肥大化したロマン世界をネットやゲームで放蕩するのが、ネトゲ大好きの引きこもりではないか。ルサンチマンが世界への反抗でなく自己への攻撃つまり自己懲罰へと向かうのがメンヘラではないか。ロマンが挫折し、リアルも受け入れられず、完全に宙ぶらりんになると、生きながら自我が無になる、これが自我拡散ではないか。つまり、何を欲するか、その欲するものと現実との折り合いをどうつけているかで、その人間がわかる。また自分自身も、わかる。人間の悩みの大半はこの折り合いの失敗ではないか。ではどのように折り合うか、いくつかある。1.遊び、集中、瞑想などにより、ロマン的欲望を一瞬忘れることで自我の緊張を解く、自己解発。2.ロマンを下げる、つまり諦める。3.リアルを上げる、つまり努力する。4.ロマン的世界を他者の主観に晒すことで、リアルの中で生き延びられるロマン世界を相互確証の中から探す。5.別のロマンへ目標を変更する。私がいろんなとこから引っ張ってきたので大体これくらいである。そしてまた死に戻るが、人生の最終地点が死であり無であるという物語は人間の生をニヒリズムと快楽主義に陥らせる。しかしそんな刹那的快楽では人間は満足できない、瞬間的に自分の死という悲劇的運命を忘れるだけである。ではどうするか。ニーチェとハイデガーによると、まずその死の自覚、つまり自分の人生は他者と交換不可能なオリジナルでありかつ一回だけの限定的なものであるという自覚を持つ。それにより、初めて人は、その一回限りのうちで生のほんとうを目指し始める。それは刹那的快楽ではない。それは、死の時に振り返って、やるだけやったという自分の生への肯定感かも知れない。死んでもいい!というほどの喜びの経験が一回でもあれば、永遠回帰を自らの生に望むかもしれない。何にせよ生きる意味、目的は、客観的なそれは、与えられるそれはもうない。神は死んだから。しかし主観的な、自分にとっての意味や目的は、この一回きりの人生の内に見つけられるのではないか。これさえ手に入れば死んでもいいとか、これだけ本気で生きたんだから死も受け入れられるとか、そういう自分の生を肯定できるような本性的喜びを得ること、また自分にとってのそれは何かを知り、得ることが、生の目的であり意味ではないか。死は、この欲望ゲームの上がり、つまり目標ではない。それはゲームオーバーを意味する。つまりゲームオーバーするまでに、上がり=主観的な本性的喜びを見出すこと、それにより生を肯定し、これなら死んでも後悔はないと言える境地に至ること、に至ることが、このゲームではないだろうか。人間とは何か、生きるとは何か、生きる目的とは何か、私が悩んできたこのような中二病的な取り留めのない、しかし切実な問いに対し、説得力のある物語を与えてくれた一冊。これをある程度理解できる自分になるまでに時間がかかったが、同著者の哲学入門と合わせて、今ではバイブルとも言える哲学書である。

  • [ 内容 ]
    哲学は、生きることが苦しくなったときに役に立つ。
    それはまた、自分と他人、自分と社会の関係を深く了解するための“技術”でもある。
    こうした観点から、「私」とは何か、「他者」とはどういう存在か、「世界」とは何か、「死」をどう受け止めればいいのかといった、人が生きていく上で深く考える理由のある問題を、平易な言葉で論じていく。
    「自分」をよりよく生かすためのヒントに満ちた思想入門である。

    [ 目次 ]
    第1章 「私」という存在―人はなぜ「私」にこだわるのか
    第2章 「他者」という存在―なぜ他人は「私」を脅かすのか
    第3章 自己と欲望―人生は欲望ゲームの舞台である
    第4章 恋愛における欲望―男女のかかわりとエロティシズム
    第5章 「私」と世界―人はこの世界とどうかかわっていくのか
    第6章 生と死のあいだ―死をどう受け止めるかが生の姿勢を決める

    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


    [ コメント ]


    [ 読了した日 ]

  • 青臭いタイトルにひかれて手に取りました。
    誰しも生きていく上で様々な悩みを抱えるのは人の世の常ですが、そんなときに思想や哲学は著者も述べているように役に立つ"技術"なのだと思います。
    ただし、即効性があり、すぐに解答を提示してくれる現代的な"便利な"技術とは本質的に異なりますが。
    自我やエロスといった、いかにも哲学的観点から、人間や社会について述べていますが、決して難解なものではなく、入門レベルでの良書だと思います。

    http://www.lib.miyakyo-u.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=236096

  • 面白い。素直に、こういう考えもあるよなと感心した。

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著者プロフィール

1947年生まれ。哲学者、文芸評論家。著書に『「自分」を生きるための思想入門』(ちくま文庫)、『人間的自由の条件ーヘーゲルとポストモダン思想』(講談社)など。

「2007年 『自由は人間を幸福にするか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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