生き延びるためのラカン (ちくま文庫 さ 29-3)

著者 :
  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (285ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480429117

作品紹介・あらすじ

ストーカー、リストカット、ひきこもり、PTSD、おたくと腐女子、フェティシズム…「現代の社会は、なんだかラカンの言ったことが、それこそベタな感じで現実になってきている気がする」。電車内の携帯電話の不快なわけは?精神病とはどういう事態か?こうした問いにラカンはどう答えてくれているのか。幻想と現実がどんどん接近しているこの世界で、できるだけリアルに生き延びるためのラカン解説書にして精神分析入門。

感想・レビュー・書評

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  • 斎藤環先生の本好き。平易な語り口でわかりやすいけど、やっぱり難しい。

  • ラカン入門書。難解で有名なラカンですが、初めての挑戦が本書で良かったな。著者の皮肉っぽい文体が和ませてくれて、各概念や用語の補足としての例示も親しみのある内容で何とか喰らいつけた。

    性的な表現が多いけど、詳しく向き合っていくと当初の嫌悪感を超えて少しはその主張に触れれたかな。理論としての精神分析を体験できました。

    何より、表紙が荒木飛呂彦!吉良吉影ネクタイがイカす。

  • 読んだ当時は概念が複雑で、完璧に理解できたという感覚はなかった。面白かった印象は残っているので、また手に取ってみたい本。

  • 《この本は、言葉と心の関係についての話からはじまった。つまり、心は言葉でできていて、そのために途方もない自由さを得たけれども、同時に果てしない空虚さをも抱え込んだ、ということだ。》(p.20)

    《彼女は言ってみれば、言葉によって治療を受けたはじめての患者なんだね。アンナ嬢自身がこの治療を「お話療法」とか「煙突掃除」と命名した。そういう機知と行動力に富んでいた彼女の本名は、ベルタ・ハッペンハイムという。彼女はのちに孤児院の院長をつとめたり、フェミニズム活動家としてたくさんの著作をのこした。》(p.148)

    《さらにラカンは、ヒステリーは神経症の一種で、ちょうど強迫神経症と対になっている、とも考えた。それというのも、ラカンは神経症を「問いの構造」として説明しようとしていたからだ。つまり、ある形式の問いを発し続ける主体を神経症と呼ぶ、という具合に考えたんだ。そのとき強迫神経症は「自分が存在しているかどうか」、言い換えるなら「自分は生きているのか死んでいるのか」という問いかけをする主体ということになる。》(p.152)

    《ではヒステリーは何を問いかけているんだろうか。ラカンは言う。それは性をめぐる問いかけなのだ、と。つまりヒステリー者が問うのは「自分は男なのか女なのか」「女とは何か」という問いかけなのだ。そしてこの問いのかたちは、患者の性別とは関係ない。》(p.153)

    《「性別への問いかけ」を、僕なりに翻案するなら、それは「関係性」への問いかけということになる。性、いわゆる「ジェンダー」なるものは、関係性の中にしか存在しないと僕は考える。だからここでは、「存在への問いかけ」と「関係への問いかけ」が対になっていると考えるべきなのだ。さらに極論するなら、あらゆる関係性は性的な関係性じゃないだろうか。僕にはそう思われてしかたがない。そしてヒステリーの存在こそは、いつの時代も社会制度や学問の枠組みを逸脱し、「性」すなわち「関係」を通じて、挑発を続ける存在だった、とも考えられる。》(p.153-154)

    《象徴界において男性は、ファルスを中心として「男はこれで全部」というような、閉じた集合をつくっている。ところが女性の場合は「これで全部」という具合には閉じていない。したがって「女性一般」なるものは存在しないことになる。これをラカンは「女は存在しない」と表現するわけだ。》(p.159)

    《男性の享楽、つまり「主体の立場」を定めたうえでの享楽こそが「ファルス的な享楽」なんだ。これに対して、「主体の立場」を完全に抹消してはじめて可能になる享楽こそが「他者の享楽」じゃあないだろうか。》(p.168)

    《必ずしもイコールではない「こころ」と「言動」を結ぶもの、それが言葉=隠喩であること。言動はこころの動きをそのまま反映するというよりは、こころを象徴する形で表出される。そしてこのとき、まさにこの象徴という形式が、言葉によって与えられてもいるんだね。》(p.201)

    《ここで述べたような「愛の生物学」は、徹底して還元主義的だ。そこでは、どんな愛も、脳や遺伝子という、物質的な基盤に還元されて語られてしまう。そういう説明は、たぶん「男性が女性を好きである」理由については、もっともらしいことを雄弁に語ってくれるだろう。しかし残念ながら「ぼくがきみを好きなこと」の理由を知る手がかりには、ぜんぜんまったく、なりはしない。科学は、再現性のある現象の解釈や予測には圧倒的に強いけれど、この世で一回しか起こらないような現象の分析には、てんで役に立たないんだ。》(p.215-216)

    《そして「愛」という現象は、常にすでに、一回性のものでしかありえないんだね。》(p.216)

    《複数の人が関係を持つこと。そして、その関係性の中で、能動的と思われていた行為が、ほんとうは受動的なものだったことに気づかされること。たとえばそういう瞬間に、確かに転移が起こっていると言うことができるんだね。》(p.235)

    《いま精神分析を語ることに意味があるとすれば、それは第一に「こころと情報は対立する」ということを、はっきりと主張するためだ。こころは情報化できないし、メディア論では語れない。そして僕らはこころを持ち、言葉を語り、転移によって関係を持つことができる存在なのだ。》(p.248)

  • 転移 治療者を好きになること

    対象a 決して届かない欲望。究極。

    ファルス 去勢されることで生まれる欲望

    私の欲望は他者の欲望である

    象徴界、想像界、現実界
    象徴界が壊れると、意味がわからなくなる。象徴界を治すことが必要。統合失調症の人は夢を見ない。意味や関係性を理解する象徴界が壊れてしまっているから、現実界がリアリティを持って見えてしまうのである。

  • 〜女性を言葉で明確に定義づけることはできない。なぜなら精神分析における性はセックスのことではないから。でも男は定義づけられる。なぜなら男はペニスをもつ存在だから。~
    これはそもそもペニスを精神分析の根底に掲げていること自体男性中心的でおかしい。エディプスコンプレックスにおいてファルスを絶対的なものとして、母の体力や戦闘能力の欠如をペニスの欠如と結びつける点から何の根拠もない男目線の賜物。その男の特権意識をひきづりおろさなきゃ「存在の根拠はファルス」で女性はファルスのない性、男ではない性としてしか解釈されない。フロイトの論をそのまま借用してファルスを存在の前提に置いたままじゃ女性は永遠に謎のまま。筆者はフェミニストに対して、ラカンは男性がえらいとか優秀だとか考えている訳ではないことを強く弁明しているが、問題の本質が全く分かっていない。ファルス(男)を主にして女は謎だと言う、その土台が男性中心的だということ。様々な分野で西洋中心主義だとか、自文化中心主義だとかがはびこっているが、精神分析の分野は酷いものがある。過去の誤った権威を未だにひきずりおろさない。そこを切り崩さない限り女性は永遠に謎のもままだ。女性はこの想像界において男ではない性としてしか存在させてもらえない。
    「女性は無意識の領域ではペニスが欲しくて男性なしでは語り得ない生き物」だという理論が未だに信じられているなんて。

  • 「なんですかねえ、この『許されてる』感は」
    葉月はため息混じりにそんなことを言った。
    「それは『女性は存在しない』っていうところかな?」
    彼のその言葉は、問いかけというよりは確認のようだった。
    「ああ、それかも。お見通しですね」
    葉月は、あっさり認めた。
    彼は頷く。
    「既存の価値観の脆弱さに安堵するのかもしれない。だってそうだろ、欲望なんて他人に与えられるものだと言われたら、そして誰も本当に求めるものに触れることができないと言われたら、あるいは生殖とヘテロセクシャルであることとは無関係だと言われたら、他者への共感など自己イメージでしかないと言われたら―――そうやって、自分を取り巻くあらゆる『当たり前』を疑われたら、心地よいだろ」
    彼は意地の悪い笑みを浮かべていたが、それは嫌味というよりは、暗にそれらを肯定しているという合図のようだった。
    葉月はそれを受けて、思いつくままを言葉にする。
    「この世界は、本当の現実とは違う。結局のところ、人は言葉がつくり上げた世界でしか生きていない。その中でしか関われない。完全で満たされた世界を失って、他者と自己という概念を手に入れて、失ったものを他者に求めて」
    それはなんて孤独だろうと、葉月は言う。
    孤独で、素敵じゃないかと。
    「他者への共感など、所詮は思い込みでしょう? 結局は、自分ならこう感じるというものを、他人に押しつけているだけでしょう?」
    彼は、恐らくは自らに向けられたわけではないであろう問いかけに、静かに口を開く。
    「そうかもしれない。でもそれを忘れないとコミュニケーションは成立しないのかもしれない。相手も同じ、満たされないものを抱えていて、同じように感じているのだと思わなければ―――イデオロギーってそういうものだろう。共同体が共同体であるためには、皆が好き勝手のことを考えていては困るだろうしね」
     それから少し、沈黙があった。
    「段々、何の話か分からなくなってきましたが」
    「言葉は空虚なものだから、かもしれないね」
    彼は冗談めかして、そんなことを言った。

  • 「日本一わかりやすいラカン入門書」との謳い文句だが、ラカンに関係なく精神分析の読み物として面白い。著者はひきこもりやおたく論関係の執筆も多いけど、自ら「精神分析は科学ではないし、治療のツールでは忘れられつつある」と言ってしまう様に精神分析の限界を認めた上であくまでツールとして出来ることを提示していて、その態度にはとても好感を持ててしまう。統合失調症で損なわれているのは「文脈」であるという言葉の通り精神分析と文学というのは相性が良く、精神分析とは人や社会を1冊の書物として読み解く行為と言えるのかもしれない。

  • 最近面白い本に良く出会う。
    幸運。

    斎藤環さんの著書が好きで、最近立て続けに読んでいる。

    彼は、精神分析における、池上彰だと私は思っている。
    精神分析というカテゴリーを、我々素人に分かりやすく説明してくれる。

    本書もそういった本のひとつで、ラカンとその思想について、語りかける口調で説明している。

    私が一番印象に残ったのは、以下の箇所

    「ラカンの言った言葉でいちばんよく引用されるのが、『欲望は他人の欲望である』というものだろう。そう、ラカンは欲望が僕たちの内面にあらかじめ備わっているわけじゃなく、常に他人から与えられるものだ、ということを強調したんだ。」(p.25)

    私自身は旅行に行くのが趣味であるが、よく考えると、自分が楽しむことも面白みのひとつであるが、それを自慢して、周囲の反応をみるのも面白い。そういうことなのだろうか。

    余談ですが、表紙を荒木飛呂彦先生が描いています。
    パッと見、全然荒木先生らしくないのですが、よく見ると、ラカンの締めるネクタイの柄が「キラークイーン」…

    にくいっ!!

  • 20世紀最高の知性、ジャック・ラカンの理論の解説本。日本一分かりやすいラカン入門書と著者が言っているとおり、分かりやすい言葉でラカンの理論が紹介されていました。世界に対する認識が一気に深まったような気になる本でした。面白かった。

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著者プロフィール

斎藤環(さいとう・たまき) 精神科医。筑波大学医学医療系社会精神保健学・教授。オープンダイアローグ・ネットワーク・ジャパン(ODNJP)共同代表。著書に『社会的ひきこもり』『生き延びるためのラカン』『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』『コロナ・アンビバレンスの憂鬱』ほか多数。

「2023年 『みんなの宗教2世問題』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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