増補 日本語が亡びるとき: 英語の世紀の中で (ちくま文庫 み 25-4)

著者 :
  • 筑摩書房
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  • / ISBN・EAN: 9784480432667

感想・レビュー・書評

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  • 「今地球に七千ぐらいの言葉があるといわれているが、そのうちの八割以上が今世紀の末までには絶滅するであろうと予測されている。」

    そんな環境下にありながらも日本語が亡びず日本近代文学の時代を作れたという奇跡と、しかしその奇跡を護る努力が現在足りないことを憂う気持ちを綴った一冊。
    (植民地化を免れ、母語を奪われた経験がない日本は、「日本語が亡びるなんてことはない」とナイーブに信じていてあまりにも無策。でも日本語が亡びないって本当に?)

    もともと読もうと思ったきっかけは、
    最近進学校の海外大学進学率が増えていることに気づいたから。格差社会の加速に加えて、日本語で学問をすることの未来が気になって読もうと思った。
    結果的には上記以外にも論点がとても多い一冊で、興味を持っていた色んな話題について思考を促され、思うところ多すぎて感想にまとめるのが難しい。

    無理やり二つ書くなら、まず図らずも去年取り組んでた「なぜ古典を読むのか」という問いにすごく示唆を与えてくれる本だった。

    426p 「自分の国の言葉を愛していなくては、ほかの国の言葉も愛せないし」

    同一の言語感覚、文字感覚を共有しているということが文化の正体なんだと、それは言い得ているかもしれないと思った。

    もう一つは、日本近代文学を語るときの、熱を帯びた言葉が好きだった。

    「当時の日本の〈現実〉が匂い立つと同時に日本語を通してのみ見える〈真実〉がちりばめられた文章がきら星のごとく溢れている」
    「「西洋の衝撃」を受けたあと、古い言葉から新しい言葉を生まねばならなかった運命に直面し、その困難と興奮と情熱のなかで、天が大きく動き、才をもった人たちが続出し、はやばやと〈国語〉が生まれ、〈国民文学〉が生まれ、以来たくさんの人がその言葉を糧にして生きてきたのである」

    日本近代文学、少しずつ読んでいきたい。

  • 第8回小林秀雄賞受賞作。
    『続明暗』を書いた作者として名前は知っていた。
    この文量を書ききった感が、すごい。凄まじい。

    国語=日本語の定義が、崩れつつある。
    英語が「普遍語」となった現代、ビジネスチャンスやグローバルコミュニケーションを求めるものは、況や英語を話せることを目的とするようになった。

    日本人にとって、何語で話し、何語で書くかというのは大きな問題提起であると思う。

    「〈学問〉とは本来、〈普遍語〉で読み、〈普遍語〉で書くものだという〈学問〉の本質が、否定しがたく露呈してきた」

    文学の世界にとっては更に切実である。
    世界の第一線で活躍する日本の作家といえば、私はまず村上春樹を思い浮かべる。
    彼の作品はすぐに翻訳され、あたたかい内に世界へと提供され、ノーベル文学賞の候補にも度々名を連ねる。
    水村美苗氏はそこまで言及はしなかったけれど、では、村上春樹がいわゆる日本的な作家かとすると、やはり隔たりがあるように思う。

    本が出れば大ヒットを獲得する彼の魅力を、果たして私たちは皆「分かって」いるんだろうか、と時々疑問に思うことはある。
    日本の文壇が、どのような方向性で居場所を見つけるかは、きっと考えが必要なのだろうと思う。

    本を殆ど読まなくなった日本人。
    書店は苦しい戦いを強いられ、新聞はデジタル化の一途を辿る。
    読める環境にいながら、読まない選択をし続ける我々が、国語の議論をすること自体、刻一刻と難しくなっているのかもしれない。

    再読前提。

  • 久しぶりに痺れる本に出会った。
    著者の水村美苗は学者であり作家である。名門イェール大学・大学院でフランス文学を専攻し、アメリカの大学で日本近代文学を教えながら日本語で小説を書いた。本書の発刊は2008年。5年をかけて書き上げたことからも著者の情熱が伝わってくる。
    書き出しは著者の体験が小説のように綴られる。もうすでにこの文体が心地よい。しかし、そこからは緻密な調査と考察が積み重ねられ、一つの結論に向かっていく。それは「日本語は亡びうる」という結論である。
    島国日本では連綿と日本語が使われてきた。それは時代に応じて変化はすれど、なくなるとは想像していない。しかし、日本語はなくなる可能性がある。
    インターネットが出現して、英語一強の傾向が加速した。中国でも韓国でもアメリカの大学に行かせるのが流行っている。「もっと英語を」の声は日本でも高まり、小学校でも英語が必修になった。この流れに抗わなければ、日本語はなくなってしまう。
    では、そのためにはどうすれば良いか。具体的には日本近代文学を読めと著者は言う。明治維新の後、欧米の書物を翻訳する中で、日本の書き言葉は昇華した。言葉と向き合い、日本と向き合い、日本人と向き合ったからこそ、明治・大正・昭和初期までの文学こそ読む価値がある。そこから日本語を守ることを考えよと著者は言うのだ。
    結論までの道程では河合隼雄や坂口安吾を切りながら力強い論拠を積み上げていく。それは学者・水村美苗の明晰な頭脳を示している。
    小説家であり学者でもある著者の力を存分に発揮した本書。著者の筆力に痺れる一書であった。

  • 自分が知らないものはとりあえずこき下ろすし、自分が知っているものに対しても長ったらしい理屈をつけてこき下ろすヒステリックババアの日記にしか読めない。何でこんなものが小林秀雄賞を獲ったんだ?小林秀雄に失礼すぎるだろう。
    「憂国」を悪癖として自覚しているのならチラシの裏にでも書いておけばいい(というかそもそも5,60ページくらいであまりのひどさにパラパラとしか読めなかった)。
    ジジババか、余程この雑多なひん曲がった文章の中から要点を抜き出せる人ならば読んでいて意義を見出せるのかもしれないけれど、学術的な文章ではないこの随想を読まなくても他に読むべき本はいくらでもあると思う。

    七章にある「英語教育の前に日本語教育を何とかしろ」というところくらいはまあそうだよね、と思うが、そのくらい。ブックオフに売って他の人が読んでしまうのも憚られるのでゴミ箱に捨てます。

  • 私は本書の著者に対して偏見がある。夏目漱石の未完の小説
    『明暗』の「その後」となる『続明暗』を発表したことにより、
    「余計なことをしてくれるな」と思ったから。

    『明暗』は未完のままでいいのだと感じていたのだもの。だから、
    『続明暗』も手に取る気はさらさらないし、著者の他の小説も
    読んでいない。

    なので、私は本書をかなりの確率で誤読しているはずだ。でも、
    読み手がどんな反応を示すかはそれこそ十人十色なのではないか
    と思う。

    グローバル化が進む世界で英語は世界共通の普遍語になりつつある。
    英語が世界を席巻したら、日本語は地域語に成り下がる。では、
    日本語が国語として生き延びる為にはどうすればいいか。

    学校教育で徹底的に近代文学を読ませることだ。「読まれるべき言葉」
    は近代文学にこそあるのだ。

    かなり乱暴にまとめてしまった・要は12歳で父の仕事でアメリカに
    渡り、日本語に接する機会が極端に少なくなった著者の慰めが父の
    蔵書にあった日本の近代文学の作品だったから…とのかなり個人的な
    体験がベースになっている気がする。

    「近代文学、最高っ!現代文学は糞」みたいな書き方になっているの
    が非常に気になっていたら、文庫化に際してのあとがきでこの部分を
    相当に言い訳している。

    「そんなつもりじゃなかったんです」と後から言われても、漱石ほどの
    頭脳の持ち主が現代に生まれたら小説を書こうと思っただろうかなんて
    書かれたら、「そんなつもりじゃん」と受け取ってしまうのよ。

    「英語の世紀」との副題は分からないでもない。日本の企業でも社内
    の公用語は英語にしている企業もあるくらいだからね。

    ただ、グローバル化=英語のひとり勝ちではないと思う。漫画や
    アニメを媒介として日本語を学ぶ外国人も増えているのだから。

    高いところから「このままでは日本語は亡びる」って言われても
    なぁ。だって、言葉って時代と共に変化すると思うのよ。

    本書で何かと比較対象として名前が出て来る漱石だって当て字を
    多用しているしね。

    近代文学にしろ、現代文学にしろ、小説って結局は娯楽だと思って
    いるので、本書のような作品を読んでも「何もそんなに危機を煽ら
    なくてもいいのに」と感じてしまった。

  • 刊行当初からおおいに反響を呼び、第8回小林秀雄賞も受賞した話題作だが、読んでみて正直ガッカリした。たしかに、示唆的な内容も多く含まれているし、たとえば「社内英語公用語化」や近年の教育改革などにおいて、まるで英語さえできればすべて良しとするような傾向は眼に余る。それよりはまず日本語や日本文学をシッカリ学ぶべきであるという著者の主張には頷けるものがある。しかし、だからといって、日本近代文学こそ至高であるというような考えかたはいかがなものか。夏目漱石が国民的で模範的な作家であることは否定しないが、近代文学といっても玉石混淆である。文法などがまだ確立していないために、今日の規範でいえばどうかという箇所もままある。とうてい絶対的なものとは呼べないであろう。著者はけっきょく、漱石や鷗外など、もともとすばらしいものを同語反復的にすばらしいといっているだけなのではないか。全篇にわたってこういう著者の思い込みにも似た主観ばかりが登場するので、読んでいて疲れてしまう。曽野綾子にはわたしはまったく共感しないが、文章の感じは似ているように思う。曽野は近ごろ話題の「反知性主義」を代表するような人物だが、この本もまた「なんちゃって知性」で色づけしただけで、内容的には曽野と同レヴェルではないか。この作品しか読んでいないので、著者を全否定するつもりもないが、文章もまったくおなじ文末表現の文章を無意味に重ねるなど、ハッキリいってぜんぜんうまくない。文学賞を受賞しまくっている作家が書いている文章とは思えない。こういう作品を自信満満で上梓されると、問題提起以前の問題であるという気がする。

  • 英語のニュースを題材にしたもの、英単語やよく使う言い回しを例文と共に覚えるもの、こういった英語学習の英語表現では、how have you been?
    が、どうしてた?と聞かれていると分かればよく、その英文に英語の美しさや味わいなど求めてもいなかった。
    英語ニュースでは、どこで何が誰がどうなったのか、が分かればよく、表現の妙など気にかけなかった。

    水村が、日本文学作品が英訳されたとき、日本人が原文を読んでそこから感じ取るものと、英語が母語の人がその英訳版を読んでそこから感じ取るもの、その違いについて書いている。
    水村は例に誰かの一文を載せていた、私は古井由吉『杳子』、中野重治『むらぎも』が英訳されたときのことを思った。
    三島由紀夫の「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋」は、日本固有の日本人でも注釈が欲しいような固有名詞が出てきて、何度か読み返して美しいなと思ったが、これは英訳されたら外国の人は理解できるのかなと疑問に思うし、たおやか、とかほかにもなんだか美しい日本語がどんな英語になるのか分からない。

    逆に、少々読んできた外国の小説は、英語が母語の人には味わい深い英語表現を、日本語で読む私は受け取れてなかったのかと思う。
    『ライ麦畑で捕まえて』には訳者が2人いてそのどちらかで読んだのかが問題になっていたことを思い出す。

    ある国の文学を、他国の人が読んでも、まず原著で読めないという時点で、その国の人と同じように味わえずに受け取れないものがたくさんある、文体、その文体の醸し出す微妙なカンジが、また、その国に住みその国の歴史や文化を学び生きてきた人でなければ共有できない何かを共有していないことによっても。
    何かとは、その国に住む人ならすぐに想像できるある街の様子とか、その国の人の住む建物の描写とか、、、。

    マリーンディアイ、エニーエルノー、フランスの彼女らの小説は、フランス語で書かれて、そのまま日本語に訳されたのかな、アチェべは英語を学んでいたため英語で描いたアフリカ作家だという。
    英訳からの日本語訳という二重訳だったのかな?
    魯迅は中国語で書いたのかな? 日本留学もしていたから日本語?
    そんな視点を与えてくれる本。

    感情のこもった英語は映画の中に。

    英語の歌の歌詞は英語ニュースを訳すのとは違って、なんだか難しい。
    そこには、もっと味わい深さ、表現の妙があるのかもしれない。

    英語の小説や詩を原著で読んだことがない、手を伸ばしてみよう。

    英語の歌を聴いて、その歌詞がスゥーっと染み込んでくる歌は「nothing compare 2 u」くらい。
    それは私が、その歌の英詩を音として、意味に繋がらない英単語の連続として、しか捉えていなかったから。
    Norah jones「dont know why」、cindy lauper「true colors」、の詩をじっくり聴き直し身に染み込ませてみた。

    Norah jones 「dont know why」で
    My heart is drenched in wine という歌詞が
    私の心はワインに浸かっている、
    私の意識はワインで酔えたのに、
    私の心はワインでびしょ濡れ、
    など和訳がネットに載っているが、英語が母語の人はどういうふうに受け取っているんだろう?
    どんな感じで受け取ればいいんだろうか。
    というようなニュースのような情報伝達英語にはない難しさがある。

  • (遅ればせの)水村美苗の発見。
    赤坂真理に次ぐバイリンガル小説家の発見だ。
    この明晰な文体は翻訳に耐えられる。
    本人が逃げてきた英語、英語から逃れるために学んだフランス語、その強靭な論理性が彼女の文章のバックボーンとなっている。
    亡びゆくフランス語と日本語。
    だが、亡びゆく文学を持つこと自体が稀有な事態であることを思い知った時の衝撃!
    「日本語が<亡びる>とき」と言う題名は、三四郎に語りかける広田先生の「日本は亡びるね」にそのまま通底する。

    亡びゆく言語と、普遍言語としての君臨する英語とは圧倒的な非対称性を持っている。
    しかし、滅びるとは高みからの失墜ということだ。
    滅びるだけの高みに上ったということ自体が、日本近代文学の奇跡なのだ。
    日本文学のおかげで、日本語は学問出来る言語のレベルまで向上した。
    <読まれるべき言語>を守っていくこと、の重要性を訴える。

  • 【本学OPACへのリンク☟】
    https://opac123.tsuda.ac.jp/opac/volume/427468

  • 2022I221 810/Mi
    配架書架:A4

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著者プロフィール

水村美苗(みずむら・みなえ)
東京生まれ。12歳で渡米。イェール大学卒、仏文専攻。同大学院修了後、帰国。のち、プリンストン大学などで日本近代文学を教える。1990年『續明暗』を刊行し芸術選奨新人賞、95年に『私小説from left to right』で野間文芸新人賞、2002年『本格小説』で読売文学賞、08年『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』で小林秀雄賞、12年『母の遺産―新聞小説』で大佛次郎賞を受賞。

「2022年 『日本語で書くということ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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