先生はえらい (ちくまプリマー新書)

著者 :
  • 筑摩書房
3.80
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本棚登録 : 1947
感想 : 245
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  • Amazon.co.jp ・本 (175ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480687029

作品紹介・あらすじ

「先生はえらい」のです。たとえ何ひとつ教えてくれなくても。「えらい」と思いさえすれば学びの道はひらかれる。だれもが幸福になれる、常識やぶりの教育論。

感想・レビュー・書評

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  • タイトルと内容はイメージが違う。
    先生とは何か、すごい先生ってどんなだ、など書いてある話と思いきや。タイトルはキャッチフレーズで。
    もっと深い話でした。

    人間のコミュニケーションの根源の話であり、文学の話でもあり、発展すると芸術の話だとも思う。

    この本で書かれているのは
    ファーストフードのようにあらかじめ決められたものをお金で買うようなコミュニケーションには人は退屈してしまい、何も発展しないということ。

    だから、「すごい先生」というのはあらかじめ存在するのではなく、生徒が見つけるということ。

    お互い何かわからない、誤解が発生するような部分が含まれたコミュニケーションの方が、お互いの興味が湧き、本当のことに近付くという。
    哲学的な話が容易に書かれている。

    小説でいえば、筆者と読者そして何らかの第三者(それを村上春樹は「うなぎ」と呼んでいる)がいて、そこから小説が立ち上がる。というところが非常に面白かった。

    語り口が口述筆記のよう(講演なのですかね?)で、話がどんどん膨らんでいて、センセイの話していない方が多いけれど、飛んだ話がたとえ話含めて全て面白い。
    これは内田さんの知識が豊富なのと、一つのテーマ(人と人がコミュニケーションすること誤解が興味を、新しい何かを生み出すこと)に即した上での話が飛んでいるので、安心して、それでいてドキドキして読めるのだろう。

    自分が高校生の頃に読んだら、かなり理解できない部分も多かったと思うが、なんだか変なこといってるけど面白いなと断片的な印象が残るのだと思う。
    その後の人生で、何かのきっかけでこの断片の印象が思い出され、あ、このことだったのか!となる。
    そんな感じの本です。

  • 内田先生の本は私にとって読む薬。本を読み飽きたら読む本。自分の考えを補強したり、新しい視点を仕入れたり、どれを読んでも安心してワクワクできる、という効果があります。この本で私にツボだったのは次の3点。コミュニケーションの目的はメッセージの正確な授受ではなく、コミュニケーションすること自体であること。
    先生とは、あらかじめ何らかの知識や技術を持っていて、あたかも商品のようにそれを伝授する存在ではない。「先生は何を伝えたいのか?」という問いを発するのは問う者自信であり、それが「学びの主体性」であるということ。
    解釈者である限り、必ず負けるということ。つまり、相手がどう出るか待ちの状態になるということは、絶対に相手の先手を取ることができない、ということ。これは、問題が起こってからそれに対処していると後手後手に回る、とか今のサービスをどう改良しようか、と考えているうちは決して創造的なものは生まれない、とかそんな自分の状況の理由が腑に落ちた一節だった。
    などど、これを解釈してるうちは、まだまだですな。これ、中高生向けの本らしいけど、読んで、どんな感想を持つだろう。子供の時と大人の時とで、読み比べてみたい本。

    • 猫丸(nyancomaru)さん
      「本を読み飽きたら読む本。」
      飽きるコトはないけど、読み疲れたら、気分転換にパラパラ捲ります(迎え酒的な本)。。。
      「本を読み飽きたら読む本。」
      飽きるコトはないけど、読み疲れたら、気分転換にパラパラ捲ります(迎え酒的な本)。。。
      2013/08/22
  • 万人にとっていい先生は存在しない。師を恋人で例えているのは面白かった。

    学ぶことを欲望するものしか学ぶことができない。そして私たちは「わからない」から、満たされないから知りたいと思う。
    私たちは自分のこともわからない。自分が考えていることが上手に言葉になっていかない。言い淀んで言い直してジタバタして、だからコミュニケーションは終わらない。全部わかったら対話はいらない。
    今現在も目下教育界で課題の主体的対話的な学びって、子どもたちの上手くいかないなーわかんないなーこの人のこと知りたいなってところから出発してるんだよね。

  • そこには無い何かを感じ、抽出し、意味付けをする力こそが学ぶ力である。
    意味のある(数値化でき、効用が明確である)ものを選択的に受容することに骨の髄まで浸ってしまうと意味のない(と思えるもの)は無きものとなる。

  • 初内田樹だけど面白かった

    大学生もっと早くに読めば良かったなあ

    学びは学びたいと思うものにしか現れない。
    よくわかる気がする

    よく分からん難しい教科書に、あれこれ考えて無理やり解釈つけてわかった気になって、先生にボコボコにされてあーそういうことかってなることよくある。

    謎があって、誤解の余地があるから人は想像するようになってるって、あーいいなって思う
    突っ込み所のないパッケージトークつまんないしね。
    逆に誤解するようにできてるから、人には想像力があるんだろう。

    突っ込み所が適度にあるよう会話って、考える前に自然にそこに突っ込んでて、突っ込まれた方もあーそれはこうだからって自然に展開して、
    考えてないから確かに第三者が操ってるような、会話がうまくドライブしていく感覚になる

    そういう会話ができたときはすげー気持ちいい
    会話のゾーンなんじゃね??

    好きな人と喋ってるとうまくんできんのはなんでなんですかね。知って欲しい欲とか知りたい欲とかが勝って変なただの思い出とかをポーンと言っちゃうからなのかね

    わかりたいんだよなあ。わかりきったらつまらんくなるのよなあ。人間めんどくせえなあ

  • 子ども向けの本にしては、内容が深遠すぎると思う。もちろん悪い意味ではなく。この本を読んで子どもがどう思うのか、単純に興味もあるし。
    お互いのコミュニケーションにひらけた人間関係は、この本で取り上げられている師匠と弟子に限らずすごく重要だと思います。
    めちゃくちゃ昔にこの本は一度読んだことがあるのですが、今回再読してみてやはり内田さんの思想に影響された部分はたくさんあるんやなあと再認識しました。この人の本に出会えてよかったと思う。

  • ちくまプリマリー新書は中学生や高校生を対象とした本のよう。
    けど、大学生にこそ読んでもらいたいと思った。
    今度、学生講義で紹介しようかな。

    以下、本文より。

    ・みなさんはもしかすると「学ぶ」ということを、先生が有用な知識や技術を与えてくれる対価として、生徒がしかるべき対価を払うことで成立する「取引」のようなものだと考えてやしませんか?

    ・学ぶというのは有用な技術や知識を教えてもらうことではありません。

    ・弟子達は先生から決して同じことを学びません。ひとりひとりがその器に合わせて、それぞれ違うことを学び取ってゆくこと。それが学びの創造性、学びの主体性ということです。

    ・「学びの主体性」ということで私が言っているのは、人間は自分が学ぶことのできることしか学ぶことができない、学ぶことを欲望するものしか学ぶことができないという自明の事実です。

    ・コミュニケーションというのは、要するに、何かと何かを取り替えることです。そして、沈黙交易のところで明らかになったように、何かと何かを取り替えたいという欲望が最も亢進するのは、そこで取り替えられつつあるあるものの意味や価値がよくわからないときなのです。

    ・私が皆さんに理解できないような仕方でお話しするの場面があるのは、わざとは言いませんが、実は明白な意図があるのです。この誤解の幅によってこそ、皆さんは、私の言っていることについていけると思うと、言うことができるのです。つまり、皆さんは不確かで曖昧な位置にとどまっておれるのです。そして、それがかえって訂正への道を常に開いておいてくれるのです。
     言葉を言い換えて言えば、私がもし、簡単に解ってもらえるような仕方で、皆さんが解ったという確信をすっかり持てるような仕方で話を進めたら(中略)、誤解はどうしようもないものになってしまうでしょう。

    ・師が師でありうるのは、師がいかなる機能を果たすのものであるかを、師は知っているけど、自分は知らないと弟子が考えているからです。

    ・弟子は、師は私の知らないことを知っているはずだと想定したことによって、何かを(しばしば師が教えていないこと)を学んでしまいます。そして、何事かを学びえた後になってはじめて、その学習を可能にした師の偉大さを思い知るのです。

    ・自身の問いに答えを出すのは弟子自身の仕事です。師は「説教檀の上から」出来合いの学問を教えるのではありません。師は、弟子が答えを見いだす正にその時に答えを与えます。

    ・私たち(弟子)が「あなた(師)はそうすることによって、私(弟子)になにを伝えたいのか?」という問を発することのできる相手(師)がいる限り、私たちは学びに対して無限に開かれています。私たちの人間としての成熟と開花の可能性はそこにあり、そこにしかありません。
     私が「先生はえらい」ということばで言おうとしたのはそのことです。

  • この本から私が勝手に学んだことによると、レビューなんて果たして微妙なものなのだけれど、いつかの他我のために書きます。
    先生と生徒の関係は、買物のようにお金を払ったらその決まった対価がでてくるものではない。だから先生も、いい教師というのが事前にいて、そこで生徒が学ぶということではない。寧ろ結果と手段は逆転しているのだ。つまり生徒の学びは無限であるのだ、そう「先生は偉い」と一言信じれば!
    中学生高校生向けだそうだが、筆者は中学生高校生の知識をちょいちょい馬鹿にし過ぎじゃないだろうか。面白いからいいけど。しかしたぶん実際に高校生のときに読んだらイラっとすると思うのでそれ以上の人に勧めたい。

  • 「先生はえらい」というタイトルから、先生を肯定するような内容かな?と思っていたが、コミュニケーションや学ぶことの条件について、かなり論理的に、そして、内田樹さん的に解説してあった。

    その人がいったい何を知っているのか私たちには想像が及ばない先生、それが「謎の先生」=「学べる先生」「尊敬できる先生」

  • ★恋愛というのは、「はたは色々言うけれど、私にはこの人がとても素敵に見える」という客観的判断の断固たる無視の上にしか成立しない。いい先生に出会うことと同じです。★

    本の題名に対する先入観は捨てた方がいいと思います。
    「先生は偉いんだから、なんでも言うことを聞こう」ではなく、
    「一人一人の先生から何か一つでも学び取ろうという姿勢」が大事という話です。

    この本を買う人は尊敬する先生に出会った人たちだと思いますが、著者が読んで欲しいのは、先生は偉くないと思っている人達だと思います。帯にそのような内容があればいいなと感じました

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著者プロフィール

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。神戸女学院大学を2011年3月に退官、同大学名誉教授。専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。著書に、『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』『街場の戦争論』『日本習合論』(以上、ミシマ社)、『私家版・ユダヤ文化論』『日本辺境論』など多数。現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。

「2023年 『日本宗教のクセ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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