多読術 (ちくまプリマー新書 106)

著者 :
  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480688071

作品紹介・あらすじ

読書の楽しみを知れば、自然と本はたくさん読めます。著者の読書遍歴を振り返り、日頃の読書の方法を紹介。本書を読めば自分に適した読書スタイルがきっと見つかります。読書の達人による多読のコツを伝授。

感想・レビュー・書評

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  • 新年早々ヤマザキマリラジオに出演されていたのをたまたま聞いてすごく心を動かされたので、読んでみました。
    NHKのサブカルチャー史にも出演されていました。

    何冊も同時に読むことを自分も最近始めたので、達人にコツを聞いてみたいと思ったのだが、やはり、この人は並のお方ではない。
    ジュリア・クリステヴァのいう「インターテクスチュアリティ」(間テキスト性)についての紹介
    「本来、書物や知は人類が書物をつくったときから、ずっとつなかっている。書物やテキストは別々に書かれているけれど、それらはさまざまな連結と関係性をもって、つながっている。つまりテキストは完全には自立していないんじゃないか、それらの光景をうんと上から見れば、網目のようにいろんなテキストが互いに入り交じって網目や模様をつくっているんじゃないか」
    「どんなテキストも自立的に思想的にかまえたものではあっても、何かと関連しあっているし、ちょっと緩めにソフトアイで本やテキストを見れば、その本やテキストは、その大きなインターテクチュアルな網目の一部として、いままさにここに突起してきたんだというふうに感じられるんです。」

    その複線的で複合的な読みのネットワークの中で、「キーブック」というものが必ずあるという。確かに!と膝を打つ感じだった。その「キーブック」たちが結節点になって、柔らかい系統樹を示すという。

    セイゴオさんの「キーブック」
    宮本常一「忘れられた日本人」
    ヘルマン・ヘッセ「デミアン」
    フーコー「知の考古学」
    モンテーニュ「エセー」
    洋の東西を問わず、古典の方が断然きわどいものが多いという。まさに古典はリベラルアーツ。

    さらに「千夜千冊」の巻立に従って「フランケンシュタイン」「嵐が丘」「地球幼年期の終わり」「時の声」「生物から見た世界」「パンダの親指」「幻想の中世」「アレゴリーとシンボル」「世界劇場」「パッサージュ」「かたち誕生」「アンナ・カレーニナ」
    読まずに死ねるかという本が続々と…。

    セイゴオさんの哲学は
    読書は、第一に現状の混乱している思考や表現の流れを整えてくれるものであり、第二に、そもそも思考や表現の本質は「アナロジー」であり「連想」であるということ、第三に元気が出てくる源泉は「曖昧な部分」「きわどい領域」「余分なところ」であると確信しているということだと言う。

    「暇と退屈の倫理学」で紹介されていたドゥルーズが語ったという「攫われたい」というフレーズ、ここでもセイゴオ先生が「本に攫われたい」と語っている。さすが達人は同じ境地に達するというわけだ、と納得。

    その時代に悪書とされたものはのちの名作であるらしい。
    その例としてマキャベリ「君主論」、「アラビアンナイト」「デカメロン」、スタンダール「赤と黒」、フロベール「ボヴァリー夫人」、マルクスとエンゲルスの「共産党宣言」、ディケンズ「オリバー・ツイスト」、ストウ夫人「アンクル・トムの小屋」スタインベック「怒りの葡萄」、フォークナー「サンクチュアリ」、ヘンリーミラー「北回帰線」パステルナーク「ドクトル・ジバゴ」、ジョージ・オーウェル「動物農場」バロウズ「裸のランチ」ナボコフ「ロリータ」を挙げている。
    …何冊よめるか?

    いい本に出会う打率は最高でも三割五分、普通は二割五分くらい。その打率を上げるために「駄本」を捨てるのではなく、むしろ三振したり見送ったのがあるという思いが重要だという。どんどん空振りして相手を褒めるつもりになった方がいいと。

    セイゴオ先生は今癌の闘病中とラジオで話しておられた。まだまだ活躍してもらいたいと心から思う。

  •  本をたくさん読むということの理由を問うことはむなしい。読むことが読む人をどう変えるのか考えても仕方がない。
     しかし、「世界」は読むことで変わっていくとを読んだ人は知っているはずだ。そういう頼りない期待を励ます本。
     励まされて、読み始めれば、次の本、次の本、次の本・・・が待っている無間地獄かもしれない。
     まあ、しかし、それは、それで、面白いじゃないか。この世にいて出会う無間地獄などたかが知れているに違いない。

  • 松岡正剛氏がインタビュー形式で読書の魅力や方法などを語った本。口語調で約200Pなので軽く読めるが、受ける印象は遥かに豊かで充実したものだったと読了後に気づくであろう。

    この本で得た一番の発見は、読書中の自身の認知活動がどうなっているかを知ることができたことである。例えば、
    「人が何を読んでいるか分かっても、人がどのように読んでいるかはわからない」
    「自分の感情や意識を無にして読めるかといえば、そんなことは不可能である。読んでいるハナからいろんなことを感じたり、考えてしまうものなんです。」
    など、読書しているときの内面の動きを表した文章があり、興味深い。
    また、難しい本を読むときは、それを理解している人あるいはその解説書を読むことで、その人の起伏感や強弱感を受け取って読みやすくなるなどの話も、読書中に行われている思考の動きを教えてくれる。

    そのためこの本は、本を読むという行為が、今までよりもぐっと広くとらえることができるので、これからの読書がもっとワクワクするようになれる「パンドラの箱」を開けるような本である。

  • 松岡正則氏による読書論・多読論。読書遍歴や日頃の読書の仕方について、インタビュアーの方との対話形式で進行していく。後半にはメディア論も少々。
    自分に合わないと感じた本は「合わない」という気持ちで済ませてしまっていた。何故自分に合わないと思うかを一層掘り下げて考える癖を付けてみようと思う。また、読書に多様性を持たせつつ、同様分野の本を横断的に読むというバランスが今後の課題になりそう。
    読書に関して色々な考えに触れられて興味深かった。

    ~memo~
    ・好みを一辺倒とせず、読書に多様性を持たせる
    ・「分かったつもり」で本を読み始めない
    ・読書はリスク(背信、裏切り、負担など)も伴う。つまり薬にも毒にもなる
    ・本は3R(リスク、リスペクト、リコメンデーション)
    ・横断的に同様分野の本を読み進めることで見えてくる“キーブック”の存在
    ・読書する仕組みをリズム化する。その時の調子や好みに応じて本を選ぶ。するとそのうち何を読めば調子が戻るか分かってくる
    ・良書or悪書の2択で分けることはできない
    ・合わないと感じた本のなかからも気付きを見つける

  •  ウェブ上の「千夜千冊」でも知られる読書の達人・セイゴオが、読書の悦楽とセイゴオ流読書術を語った本。

     ちくまプリマー新書は基本的に中高生対象だが、本書は中高生にはちとムズカシイのではないか。担当編集者がセイゴオにインタビューする形でまとめられたものなので語り口は平明だが、中身はかなりハイブラウな、ある程度の読書遍歴を経た人でなければわかりにくい読書論になっているのだ。

     『多読術』というタイトルは誤解を招きやすいと思う。このタイトルだと、巷にあふれる速読術の本のように、「いかに効率よく読書をするか?」を説いたビジネス書だと思われかねない。セイゴオがそんな本を書くはずがないのであって、本書はむしろ、ビジネス書的な「効率重視の読書論」の対極にある内容となっている。

     たとえば、セイゴオは次のように言う。

    《ぼくはときどき読書シンポジウムのようなところへ引っ張りだされたり、「ビジネスマンに役立つ読書特集」といった雑誌企画につきあわされるんですが、これにはいつも困るだけです。「役に立つ読書」について聞かれるのがつまらない。それって、「役に立つ人生って何か」と聞くようなものですよ。そんなこと、人それぞれですよ。
     むしろ「読書は毒でもある」ということを認めていったほうが、かえって読書は面白くなると思います。これはとても大事なことで、本はウィルスでもあるし、劇薬でもあるんです。その一方で漢方薬でも抗生物質でもあるけれど、だからといってすべての読書において対症療法のように本を読もうとするのは、いささかおかしい。そんなことはムリです。そのことも勘定に入れておいたほうがいいですね。
     読書とはそもそもリスクを伴うものなんです。それが読書です。ですから、本を読めばその本が自分を応援してくれると思いすぎないことです。背信もする。裏切りもする。負担を負わせもする。それが読書です。だから、おもしろい。》

     「何かの役に立てるための読書」ではなく、読書という行為そのものの愉しさと深みを、書物の大海原に漕ぎ出してさまざまな本と出合うスリルを、セイゴウはさまざまな角度から語る。
     読書好きなら「あー、わかるなあ、その感じ」とうなずきたくなる一節が随所にある、含蓄深い読書論。

  • 読書。決まり決まったものがあるのではない。ひたすら読む。そして、考える。良い本、悪い本、とか言われるけど、何年後化には評価は変わる。自分の気持も変わる。受け取り方も。そういうことを、文書で学べた。

  • 770

    松岡/正剛
    1944年1月25日、京都生まれ 早稲田大学文学部中退編集工学者、編集工学研究所所長、イシス編集学校校長1971年、工作舎を設立、オブジェマガジン「遊」を創刊。対極するテーマを出会わせる知識編集と先鋭的なグラフィズムによって、メディア界、知識人、アーティストたちに多大な影響を与える。1982年、フリーランスとなり松岡正剛事務所を設立。超ジャンル的なソロ活動を始めるとともに、NTT民営化にともなう「情報と文化」研究会の座長をつとめるなど、諸分野の研究成果を総合化するプロジェクトの数々を推進。1987年、編集工学研究所を設立。情報文化と情報技術をつなぐ方法論を体系化し、その成果をメディアづくりやシステム開発、さまざまな企画・編集・クリエイティブに展開。一方、日本文化を独自の視点で読み解く著作やテレビ番組の監修も数多く手掛ける。2000年、ネットワーク上に壮大なブックナビゲーション「千夜千冊」の連載を開始。また同年、eラーニングの先駆けともなる「イシス編集学校」を創立し、編集工学にもとづくメソッドを幅広い層の人びとに伝授しはじめる。近年は、知識情報の相互編集を可能とする「図書街」「目次録」、編集的世界観にもとづく書店空間「松丸本舗」など、本を媒介にした数々の実験的プロジェクトを展開。また、「日本という方法」を提唱し、文化創発の場として精力的に私塾やサロンを主宰。写真、アート、デザイン、書の目利きとしても定評があり、みずから書画、戯画、作詞、短歌・俳句などを手掛ける。俳号は玄月、血液型B型、座右の銘は「少数なれど熟したり」(フリードリヒ・ガウス)、モットーは「生涯一編集者」。



    本というのは、長い時間をかけて世界のす べてを呑み尽くしてきたメディアです。ギルガメッシュの神話から 湾岸戦争まで、カエサルから三島由紀夫まで、ラーメンから建築ま で、金融危機からサッカーまで、みんなみんな、本の中に入ってい る。むろん日記も手紙も小説も見聞記も、譜も写真も映画のシー ンも名産品も、本になる。 これって不思議ですよね。本の中に入らなかったものって、ほと んどないんじゃないでしょうか。しかも本は知識や主題ばかりでで きているわけじゃない。たとえば「しまった」とか「ふわっとした こと」とか「無常感」とか「もったいなさ」とか「ちょっとおかし い」も本になっているし、「くすくす笑い」も「失望感」も、「研 究の苦難」も「人々の絶叫」も、「近所の風景」も「古代の廃墟」 も、みんな、みんな本の中に入ります。こんなメディア・パッケー ジはほかにない。ウェブなどまだまだ勝負になりません。

    「読書はたいへんな行為だ」とか「崇高な営みだ」などと思いすぎ ないことです。それよりも、まずは日々の生活でやっていることの ように、カジュアルなものだと捉えたほうがいい。たとえていえ ば、読書は何かを着ることに似ています。読書はファッションだと 言ってもいいくらいだけれど、もっとわかりやすくいえば、日々の 着るものに近い。

    そこで、あえて縛りをかけることにした。一人の著者につき一冊だけというルールに したのも、同じジャンルのもの、たとえば生物学関係の本を続けないとか、時代小説を 続けないとかも、そのためだった。あとは、わざわざその本を「千夜千冊」に選んだの だから、批判をしたり文句をつけないということですね。本にケチをつけるのは、実は かんたんです。でも、それはしないことにした。

    読書能力やリテラシーに自分で区別や差別をもうけないとい うことが大事です。たとえば嫌弁と謝発に人格の差異をつけるより、それぞれにふさわ しい会話能力があると見たほうがいいように、読書にもさまざまな「好み」や「癖」が あったっていいんですね。立派な読書はこういうものだなんて、決められないと思った ほうがいい。

    実は父も母も俳句を作っていたので、俳句全集のたぐいも揃っていて、父は好きな句 に鉛筆で乱暴な印をつけていましたね。母は嫌がっていましたけど(笑)。そんなこと で、当時の家にあった本は、全部で二千冊あるかないかくらいだと思う。けっして蔵書 が多い家ではなかったです。それに母は蔵書家ではなく、自分の好きな本をきちっと読 むタイプで、だいたい小説が多かった。幸田文、有吉佐和子、杉培処が好きでした ね

    母は文芸少女で、府立第一女学校、通称「府一」という京都のなかでも有名な女学校 の出身でしたが、いったんよその家に嫁いでゆけば、その家で自分の趣味を通したり、 喋ったりということはしません。父が箸をとらないかぎりは、家族も箸をとらないと いう家でしたからね。そういうしきたりの家だったので、母はあまり自分の才能を見せ でも、微妙な感覚、微細なもの、京都という文化、そういうものにとても通じて いたと思う。季節感も、習慣も、花の色も、季語や歌語に関しても、たいへん詳しかっ た。

    だいたいぼくはいろんなことが晩生で、コミュニケーション力もずっと足りない少年 でした。それから、多少の吃贄だったんです。サシスセソ系の発音がしにくかったりし て、そのせいで自分が思ったことをパッと喋れない。アタマの中の「吹き出し」にはい ためらい ろいろ浮かぶけれど、それを言葉として外に出すまでにひどい躊躇がある。 これって困ったことで、それでコンプレックスにもなるんだけれど、一方で、オレは 実はわかっているんだというふうに、変に片寄った自信にもなりかねない。しかし、ど うみても何もわかってはいない。こういうふうに言葉にならないときの大半は、実はわ かっていないと言っていいでしょう(笑)。 他方、世の中には言葉にしにくいものもいろいろあるわけで、塩飽諸島の美しさもそ ういうものだったわけですし、禅にもそういうところがある。しかしあまりに自分で表 現を怠っていると、自分が使う言葉の問題と世の中で使う言葉の限界がごっちゃになっ て、そのうち身勝手な言語人間になってしまう。世の中でうまくいかないことの多く は、実は当人の言葉の使い方によっているんですね。

    あとは図書館通いと書店通いです。ぼくはお金に困っていて、授 業料も生活費も自分でまかなっていたので、ほとんど本代にまわせない。一番てっとり ばやいのは万引ですが(笑)、これはリスクが多すぎる。でも、これがうまい連中はま わりにけっこういましたよ。ぼくはヘタだった。それで図書館に行く。 ここはいいですね。サイコーです。実はのちのことになりますが、ぼくは社会人にな って何度か引っ越しをするんですが、たいてい図書館の近くを選んだ。新宿のころは 谷図書館の近くで、最大は有樹照公園の都立中央図書館でした。そこから十分くらい ところに越した。図書館のいいところは、そこには本しかないということです。図書館 に通えば、読書習慣は必ずつく。ジムに行ってトレーニング以外のことをしないのと同 じで、図書館に行けば必ず本になじみます。おススメです。

    そこで、最初に名著といわれるものを手に入れるか、図書館で日星をつける。量子力 ともながしんいちろう 学でいえばディラックのものか、朝永振一郎です。電磁気学ならファインマンです。 対性理論ならアインシュタインその人でしょう。けれどもこれは歯が立たない。しか し、その歯が立たないところに一度は直面しないといけない。そのうえで別の参考書や 類書で補っていく。そういう読み方をしていくんですね。

    新聞、雑誌、単行本、マンガ、楽譜集、どんなものでも全部が「読書する」なんです が、そこには優劣も貴も区別がないと思うべきなんですが、やっぱり読書の頂点は 「全集読書」なんですよ。これは別格です。個人全集もあるし、シリーズ全集もありま すね。

    一言でいえば、未知のパンドラの箱が開くということでしょうね。本はやっぱりパン ドラの箱。読書によって、そのパンドラの箱が開く。そこに伏せられていたものが、 分の前に躍り出てくるということです。ポール・ヴァレリーふうにいえば、それによっ て「雷鳴の一撃を食らう」という楽しみですね。ということは、こちらが無知だからこ そ読書はおもしろいわけで、それに尽きます。無知から未知へ、それが読書の醍醐味で す

    ここまでの前提で言えるのは、読書をしたからといって、それで理解したつもりにな らなくてもいいということです。だって絵を見たって、どのように理解したかどうか、 なかなかわかりませんよね。でも「なんとか展」に、また行くでしょう。セザンヌやカ ンディンスキーや現代美術を見るって、そういうことです。言葉だって、文章だって、 そうなんです。けれども絵をいろいろ見ているうちには、ピカソの何かが怨然と見えて きたりする。本も、そういうものです。

  • 個人的に一番影響を受けた読書術です。

  • すごい読書家さんがいるものだ。著者は「千夜千冊」(Webサイトと書籍)の執筆者。必要な情報だけを手際よくピックアップする読書術とは一線を画すような、膨大な知を体得している。読前、読中、読後の具体的な行動例から、そもそも読書とはどういう行為なのか読書の真髄に関する言及など、内容も多岐にわたっていて、徹頭徹尾飽きさせない。濃くて深い内容がインタビュー形式で書かれていて、とても読みやすい。

  • 「第二に、そもそも思考や表現の本質は『アナロジー』であり、『連想』であると思っているということです。科学も小説も、人文も芸術も、思考や表現の本質の大半はアナロジーであり、類推であり、連想であると確信しているんです。」

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著者プロフィール

一九四四年、京都府生まれ。編集工学研究所所長、イシス編集学校校長。一九七〇年代、工作舎を設立し『遊』を創刊。一九八〇年代、人間の思想や創造性に関わる総合的な方法論として″編集工学〟を提唱し、現在まで、日本・経済・物語文化、自然・生命科学、宇宙物理、デザイン、意匠図像、文字世界等の研究を深め、その成果をプロジェクトの監修や総合演出、企画構成、メディアプロデュース等で展開。二〇〇〇年、ブックアーカイブ「千夜千冊」の執筆をスタート、古今東西の知を紹介する。同時に、編集工学をカリキュラム化した「イシス編集学校」を創設。二〇〇九~一二年、丸善店内にショップ・イン・ショップ「松丸本舗」をプロデュース、読者体験の可能性を広げる″ブックウエア構想〟を実践する。近著に『松丸本舗主義』『連塾方法日本1~3』『意身伝心』。

「2016年 『アートエリアB1 5周年記念記録集 上方遊歩46景』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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