読んでいない本について堂々と語る方法

  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (248ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480837165

作品紹介・あらすじ

欧米で話題沸騰"未読書コメント術"。本は読んでいなくてもコメントできる。いや、むしろ読んでいないほうがいいくらいだ…大胆不敵なテーゼをひっさげて、フランス論壇の鬼才が放つ世界的ベストセラー。これ一冊あれば、とっさのコメントも、レポートや小論文、「読書感想文」も、もう怖くない。

感想・レビュー・書評

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  • 本著は、読んでない本を堂々と語る、ハウツー本ではない。また、本を読まない事を推奨する物でもない。では何かというと、読んでない本について語るというより、読んでない自らを語る。つまり、著者によるエクスキューズ、懺悔本だ。

    世に溢れる書物の数は膨大で、到底全てには目を通し得ない。更には、読んだことすら忘れてしまったような読書を、そもそも読書と呼べるだろうか。更に言えば、読書は自らの経験や理解を通して咀嚼されるものだから、他者と全く違う印象や解釈を得る事も多々ある。そこでは、自らの思考を反転させるには足らず、単に補強材料を集めるだけで、つまりは都合の良い単語の拾い集めになる事もしばしば。だからこそ、読書が必ずしも必要だとか、読書に意味があるとは言えない。向き合う姿勢によるのだろう。一々著者の主張に振り回されるのではなく、軸を持つ事で多面的な視点を獲得できるはずだ。

    大衆が注意を払って耳を傾けているときに、読んだことがない本について語らされるのは悪夢であり、フロイトが「試験の夢」と呼んでいるものに似ていると著者は言う。ここで言う読書とは、他者へのアウトプットが前提になっている。そうではない。主張を身に付ける事で、書物自体を語るのではなく、自らに吸収した上で、思考材料にするのが読書の一つの本義では無かろうか。

    故に他者へのアウトプットを前提にした読書論では軟弱、というのが、本著をきちんと読んだ後の感想だ。本そのものを堂々と語るなら、やはりきちんと読むようにしたい。

  • いかにも人を喰った、そこいらに掃いて捨てるほどあるハウツー本のようなタイトルに惹かれて手にとる人がいたら、中身を読んで閉口するにちがいない。たしかに本を読まないで語ることを推賞しているにちがいない中身なのだが、最初に引用されているのがムージルの『特性のない男』。その次はヴァレリーである。

    本を読まないで、人前で堂々と語ることができたら、というような虫のいいことを考える人間が、ヴァレリーやムージルが「本を読むこと」について語ることを読まされるのだから、これはよくできたジョークではないか。作者の悪い冗談に引っかかった気で読んでいくと、どうやらこれは冗談めかしてはいるが、案外本気で本を読まないことを推賞しているのではないかと思えてくるからタチが悪い。

    だってそうではないか。作者は自分は大学教授だがジョイスなんか読んだことないし、これからも読むつもりはないといいながら、平気で生徒の前でジョイスについて語ることができるということを、これでもか、これでもかという調子で実例を挙げて論証しようとする。

    しかもだ。三部構成で各部四章仕立ての各章ごとに一人もしくは一作品を引用しているのだが、最初の二人の後に来るのが『薔薇の名前』のウンベルト・エーコときている。グレアム・グリーンの『第三の男』やハロルド・ライミスの『恋はデジャヴ』のように映画で見ている作品も入っている。引用される作品が面白くてしかもその解説がまた読ませるものだから、読者はついつい先へ先へと導かれる仕掛け。本など読まない方がいい、と言いながら最後まで本を読ませる実にパラドキシカル(逆説的)な読書をめぐる考察になっている。

    第一部は「読んでいない」というのはどういうことをいうのかが考察される。一度でも読んだ本は、たとえその大半を忘れていても読んだことになるのか。あるいは、途中まで読んだり、流し読みをした本は、読んだ本の中に入れてもいいのか。考えてみれば、ふつう、本を読んだというのは一応通読したことを意味するわけだが、モンテーニュも書いているように読んだはしから忘れていくこともたしかである。

    『特性のない男』の登場人物である図書館司書は館内の本の表紙と目次だけを読み、中身は読まないと断言する。本の渦に巻き込まれないためだ。ヴァレリーは、プルーストを読まずに人の話でプルーストについて語り正鵠を射ている。つまり、本というのは、その中身を全部知らなくても、分かる。それを教養と言いかえてもいい。教養とは、個別の物にくわしくなくとも全体の見晴らしを持つことが肝要なのだ。『薔薇の名前』の中で、バスカヴィルのウィリアムは未読のアリストテレスの『詩学』第二部の中身をホルへ神父に語っているではないか。全体の布置がつかめれば、内容はおよそ知れるものである。

    バイヤールは「共有図書館」という概念を提示する。ヴァレリーは、「読んでいない本」をそこに置いているから、読まずともそれについて語ることができたのだ。また、われわれが話題にしている本は現実の本ではない。それは「遮蔽幕としての書物」、捏造された記憶としての書物である。読んだ本が増えれば増えるほど忘れた本やその中身も増えるわけだ。つまり「読書は、なにかを得ることであるよりむしろ失うことである。」そう考えれば、読んだ読まないをさまで気にすることはない。

    第一部の「読んでいない」という状況の考察に続いて第二部では、どんな状況下で読んでいない本についてコメントをするか、第三部では、そうした場合の対処法を伝授している。読んでいない本についてコメントを述べるのが『第三の男』でハリー・ライムを探しにウィーンに来て有名な作家とまちがえられて講演をする羽目になる西部劇作家の例である。本を読んでいなくとも、これについてなら語れる人は多かろう。上手いものである。

    引用のうまさ以外にも楽しめる仕掛けは十分に用意されている。その一つが「捏造された記憶」である。作者の調子のよい語りに乗って、うかうかと読んでいくとまちがった結末を読まされてしまうことになる(後でちゃんと種明かしをしている)。また、本書に登場する本のそれぞれについて、作者がどう読んだのか、「流し読み」だとか「人から聞いた」だけだとかを示す<流><聞>のような記号や、作者の評価、◎、○、×、××などの略号がある。

    幾分かねじれた感もあるユーモアのある語り口ながら、本格的な読書論であり、読書にまつわる既成概念批判の書でもある。各章に採りあげられた作品や作家についての作者の解読は一読の価値あり。近頃、外国で読まれているのかどうか、いろいろと噂に高い夏目漱石の『吾輩は猫である』も縦横無尽に論じられている。どうやら、まだフランスでは日本文学は亡んではいないことを知って一安心した。

  • 本のタイトル的に、何と書こうが、ホントに読んだのか?と疑われそうな本。実際、斜め読み。

    世の中の本のうち、実際に読める本は、国会図書館蔵書数4560万点(毎年70万点くらい増えていく)のうち、一生かけても数千冊。
    1万分の1すら覚束ない。

    基本的には、殆どの本は読めてない訳で、本を読んでないこと恥じる必要はないんだろう。(原題には、堂々と、というフレーズは無いよう。)

    でも、わずか1万分の1であれば、折角ならば、あたりの本に巡り合いたい、と思うので、ブクログのようなサービスはとてもありがたい。

  • ブクログに登録している人であるかぎり、本好きでしょうし、「読んでいない本についてエラそうに語るなんて言語道断だ!」と思う方もいらっしゃるかも。しかし、同時にいつ果てることもない読書に疲れ果て、一体何のために読書をしているのだろうと自問したこともあるのではないでしょうか?かくいう僕も、読んだ端から本の内容を忘れてしまい、備忘録もかねてブクログを書きはじめた経緯があります。

    日本では読書は良き習慣として励行されることが多いですが、海外でもやはり事情は変わらないよう。そんな神聖視されがちな読書規範に対し、一石を投じる挑発的な一冊。

    内容はというと、奇を衒ったアンチ読書論かと思えばさにあらず、むしろまっとうな教養論です。
    この本によると、教養というのは本と本との関係を知りつつ、自己を方向づけることができることで、本を読む必要はありません。そのためには精読していなくても、目録を読んだり、人からその本についての意見を聞いたり、あるいは流し読みすることが役立ちます。そこには、本への無関心ではなく、むしろ「全体の見晴らし」への能動的な関心が不可欠であることを著者は指摘します。一方、一冊の本を精読することに拘泥していれば、いつまでたっても全体性の把握にいたることはできません。
    今までの教育で叩き込まれてきたせいか、つい僕も原理主義的に、『書物に何と書かれているか』が重要だと考えがちになってしまいます。しかし、著者は、個人の創造性にこそもっとも重きを置いています。そして、「現実の書物」ではなく、自分の「内なる書物」にこそ耳を傾けるべきで、読んでいない本について語ることはみずからを創造的プロセスのただなかに置くことだという主張がなされます。

    もちろん、この本の内容をすべて鵜呑みにしてしまえば、読書の喜びは得られなくなってしまうでしょう。しかし、読書はかならずしも有益なプロセスではなく、リスクをともなうと再認識もさせられました。なぜ自分は本を読もうとしているのかを問うキッカケを与えてくれる、目からウロコの刺激的な本でした。

    それぞれのトピックに簡単な要約が書かれており、実はこの本そのものが通読しなくても堂々と語りやすい構成になってくれています。ある意味、読まずに語る方法を会得するための、第一歩の練習問題として最適かも。実際僕だって、パラパラめくってロクに通読せずレビューを書いているのかもしれませんよ(笑)
    真相は…、内緒です。

  •  「その人の人となりを知りたければ、その人の本棚を見るのが一番早い」とは誰の見解であったか。たしかに、本棚にはその人の興味関心が表現される。マンガが揃えてある本棚、写真集が揃えてある本棚、学習参考書が揃えてある本棚、建築に関する本が詰まった本棚……。どんな本棚を見ても、なんとなくその人の性格が滲みでているようでもある。以前、私が藤木TDLさんの『アダルトビデオ革命史』をレビューした際には、「これをレビューしようかどうしようか葛藤するくらいの恥じらいは僕も持ってますよ? タイトルがストレートなんだもの。『へー、こういう本読んでるんだー』とか怖いじゃない?」と書いた。これも、前述のような現象を恐れての逃げ口上である。つまり、『アダルトビデオ革命史』が本棚にあることを知られては、「この人はアダルトビデオに興味関心があるのだ」という誤解?がなされるのではないかと恐れたわけである。
     そうであれば、私は『アダルトビデオ革命史』を「本棚」から排除することを選択する可能性がある。そうすることで、人から「アダルトビデオに興味がある」と思われることを回避できるのだから。何が言いたいのかといえば、たしかに本棚には人となりが現れるだろうが、その本棚は虚偽によって書物が並べられている可能性もあるということだ。そして、その事実は、読んだはずの本を並べないというだけでなく、読んでいない本を並べることも可能だということを示している。実際に本棚を見られることなどほとんどないのだから、いくらでも虚偽し放題である。
     おそらく冒頭に掲げた考えには、本棚のなかに虚偽があるという事実が排除されている。言うなれば建前的な考えである。しかし、本棚に虚偽はあってしかるべきである――その虚偽が表に出ることはほとんどないが(堂々と「エロ本」を本棚に並べる人がどれほどいるだろうか、また綺麗に並べられた図録類には全て目を通しているのだろうか)。

     ピエール・バイヤールさんによれば、我々は「書物というものを、学校時代以来、触れてはならない〔神聖な〕ものとして思い描いて」いる。それが本棚の虚偽を隠す理由だ。書物にまつわること――ことに、自分が何を読んで、何を読んでいないかという情報――はいわばアンタッチャブルであり、他人のそれを突っ込むことはほとんどないし、自分がそれを突っ込まれることもほとんどない。しかし、現実には(人から当然読んでいると思われている本であっても)読んでいない本は数多くあるのである。
     そこから考えると、実は書名にもある「読んでいない本について堂々と語る」場面は往々にして起こりうる状況である。ちょっとした居酒屋での会話の中で、学校での先生との対話の中で、はたまた自分のスピーチの中で……。自分は読んでいない「話題作」に話が及び、適当に相づちを打っていたら、更には意見を求められて……容易に想像できる場面だ。まさか「実はそれ、読んでいないんです、てへへ」とも言えず、恐る恐る断片的な情報だけで自分の意見を組み上げる。このとき、自分は読んでいない本を「本棚」に並べてしまうのだ。
     さて、だからこそ、ピエール・バイヤールさんは、そもそも「読んでいない本について堂々と語る」ことが普通であると言うのである。むしろ、それこそが「創造的」な営みなのだとも。たしかに、少ない情報で、頭脳をフル回転させ、もっともらしい意見を組み上げることは「創造的」だ。しかし、それはともすれば、詭弁である。だが、その詭弁から一つの教育論が導かれることで、本書は「生きる力」を身につけるための一方策として、価値ある一冊になるのだ。「結び」まで読んだとき、初めてピエール・バイヤールさんの「世界観」が明らかとなる。詭弁が正当なる主張に変わる瞬間がそこにある。


    【目次】

    Ⅰ 未読の諸段階(「読んでいない」にも色々あって……)
    Ⅱ どんな状況でコメントするのか
    Ⅲ 心がまえ
    結び
    訳者あとがき

  • 全くもって引き込まれるタイトルである。そして、ここまで堂々と言い切られてしまうと、本書の中身をきっちりと読みたくなってしまうのが、人の性であろう。ただし、この本はマニュアル本の類ではない。読書に関する常識を問い直し、新しい向き合い方を論じた一冊なのである。

    著者は、フランスの大学教授であり、パラドックスの名手であるそうだ。そんな著者は、多くの人が読書に関して3つの誤った規範を持っていると主張する。すなわち、「読書は神聖なものと見なしている」、「読書には通読義務がある」、「本を語るには読んでいる必要がある」ということである。しかし著者は冒頭からをこれらの規範を批判し、「むしろ読んでいることが害になる」とすら言う。

    ◆本書の目次
    Ⅰ 未読の諸段階
    1 ぜんぜん読んだことのない本
    2 ざっと読んだことがある本
    3 人から聞いたことがある本
    4 読んだことはあるが忘れてしまった本

    Ⅱ どんな状況でコメントするのか?
    1 大勢の人の前で
    2 教師の面前で
    3 作家を前にして
    4 愛する人の前で

    Ⅲ 心がまえ
    1 気後れしない
    2 自分の考え方を押しつける
    3 本をでっちあげる
    4 自分自身について語る

    著者が論点としてあげているのは、本を読むということの”あいまいさ”についてである。読者の育った文化的背景、その著者や領域に関する既有知識などによって受け取り方は様々であり、それに比べたら本をどこまで精読するかということは小さな問題であり、恐れることはないと主張する。この受け取り方のことを著者は<内なる書物>と呼んでいるが、これはコンテンツとコンテキストの違いと捉えると理解しやすい。どのように読もうとも、読者によって語られる瞬間からコンテキストになるという指摘は、腑におちる。これから普及してくるであろうソーシャル・リーディングなるものは、コンテキストを共有するという行為なのかもしれない。

    また、本書は昨今注目されている「キュレーション」という概念について述べた一冊と読み替えても、非常に面白い。奇しくも冒頭に図書館の司書が登場し、「何百万という蔵書について一冊も読んだことがないが、全部の本を識っている」と主張する。その司書にとっては、全体の見晴らしや、書物を横断することこそ重要であり、個々の書物のディテールを追うことが重要ではないのである。さらに、最終章で「批評」と「創造」について述べているところも、キュレーションとクリエーションの線引きを整理するのに有用な論考である。

    本書で主張しているメッセージは、非常にシンプルである。ただし、そのメッセージが発せられるまでの、前段の組み立てが抜群にうまく、メッセージが効果的に響くように設計されている。そして、その前段の組み立ての多くは、さまざまな書物からの引用で構成されている。著者自身が、本を読むなと言っているにも関わらずだ。なぜ本からの引用で構成されているかは、後半、そのトリックが明らかになる。どうりで上手いわけだ。

  • 印象に残る書名である
    読んだとはどういうことなのか、本当に知っていることなのか
    読書には 自分の考えが反映されるし、環境から影響されることもある
    人から聞いたこと、本の内容についてのコメントを読んでも、元となる本を読んだことに等しい
    読んだら影響を受ける

  • 「方法」と書名にあるけれども、これはハウツー本として期待してはいけない(速読とか流し読みについての具体的な指南本の類ではない。よって、これを読めば労せず本の要約が上手くなるとか、そういうことでは決してない)。
     著者は、ある書物を「完全に読んだ」という状態も、「全く読んでいない」という状態も原則的にあり得ず、我々は常に「読んだ」と「読んでいない」の中間領域に属すると主張する。そして、書物は客観的で不変的な物体ではなく、一人ひとりの個人史や価値観によって、その本の位置付けや解釈が多様に可変する主観的な「意味の集合体」であると説く。
     だからこそ、AとBが同じ書物について話している時でさえ、それは厳密に言えば各々の「幻想によって改変された書物の断片」についての会話でしかない。つまり、人の書物に対するコメントなんてものは千差万別で「完全に」正確なものなどなく、本を読んでいなくとも(「読んでいない」つもりでも)、人はその本について何らかの手がかりを得ながら真っ当なコメントをすることが可能である、と著者は考える。
     「読書」という行為との向き合い方について、改めて考えさせてくれるテクスト論。本を積極的に読まなければならない、本は最初から最後まで通読しなければならない、本についてコメントするなら少なくともその本について読んでおかなければならない…。といった、読書にまつわる脅迫観念を解消してくれる、「本の虫」な人ほどオススメな一冊。

  • ○本を読まずに済ませる手抜きのためのハウツー本、と見せかけてりっぱな読書論の本。著者は問いかけます。本を読むことってそんなに大切でしょうか。一見してただの目立ちたがり屋に見えるタイトルですが、じつはこの本の重要な問いかけになっているのです。

    ○そもそも、「読んでいない本」「読んだ本」とはなんでしょう。たとえば、本とは、読めば読むほど頭のなかから消えてゆく恐怖に晒されるものです(今まで読んだ本を全て覚えているという人がいないとはいいませんが)。内容を覚えていない、それどころか”読んだことさえ忘れている”というような状況になってまで、「その本を読んだ」ということに意味があるのでしょうか。

    ○そして、本について「語る」とはなんでしょう。人から聞いて本の全体をつかんだり、(その本の内容ではなく)その本についての情報を手に入れれば語ることはできます。それに、同じ本について語っていても、その感想が他人と一致するということはなかなかありません。むしろ全然違うことの方が多いです(本に対する理解、頭のなかの本の内容は人によってばらばら)。

    ○ものすごく大ざっぱに内容をつまみ出しましたが、こうして明かされるのは、わたしたちがいかに「読むこと」自体に意味を見出しているのかということではないでしょうか。それはつまり、その本について語ることができても、読んだという事実がなければだめで、読んでいないことは許されないという価値観があるということです。そして、著者はそれを真っ向から否定するようなタイトルをつけたわけです。とくに学問の世界、知識が求められる分野ではそうなのだろうと思います。しかし実は、読書とは自分にとっての創造的な行いの通過点であり、「読んでいない」ことに呵責を感じる必要もなければ「読まずに堂々と語る」ことさえできる・・・・・・そうです。

    ○自分にとっての創造という視点から、著者はとんでもないことをしていることが、訳者によって最後に明かされるわけですが、これは著者の考えをはっきりと示す、お手本的な実践例ですね。

    ○目次をぱっとみただけでも、愛する人に自分の知らない本を紹介するとか、いかがなものだろうかとちょっとツッコミを入れたくなるところがあって面白いです。力強い読書論(非読書論?)に触れて、本をみつめ直す良い機会になりました。

  • 他の本は読まなくていいかもしれないけど、この本は読むべし!と思いました。

    「読んでいない本について堂々と語る方法」と、ちょっとハウツー本っぽいタイトルですが、最終的な内容としては「我々にとって読書とはどういう意味を持つのか」ということを愚直に考えた重厚な(小難しい)本です。もちろん「読んでいない本について堂々と語る方法」についても書かれています。

    筆者の結論だけ言うと「本を利用して自分のこと(内なる書物)をより深く考えよう・知ろう」という、ともすればありふれたものなのですが、それに至る過程を踏まえた上で結論に触れると、とても重みのある言葉に聞こえてきます。


    そもそも「読んでいない本について堂々と語る方法」が本として世に出ていたり、「読んでいない本について堂々と語る方法」というタイトルながら各章で必ず文学作品を引用しているというのがシニカルで笑いました。

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著者プロフィール

1954年生まれ。パリ第八大学教授(フランス文学)、精神分析家。『アクロイドを殺したのはだれか』、『読んでいない本について堂々と語る方法』等、多くの著作がある。

「2023年 『シャーロック・ホームズの誤謬』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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