- Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
- / ISBN・EAN: 9784487803552
作品紹介・あらすじ
「抜き身の刀」と呼ばれた学者。我々の言葉はどこからきたのか。学問に生きるとはどういうことか。日本語に命を捧げた波乱の人生を描く傑作評伝。
感想・レビュー・書評
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「日本語練習帳」や「広辞苑」の基本語項目の執筆、「岩波古語辞典」の編集など、日本人が日本語について、ひとつまじめに訓練せむと思うときの入り口にいる国語学者、という趣きのある大野晋(1919-2008)の、没後すぐに書かれた伝記である。
同年代の、つまり戦中期に高等教育を受けた国語学者というと、つい金田一春彦や山田忠雄のような学者一家を想像してしまうが、大野晋の育った環境はまるで違う。生家は下町の砂糖問屋であり、趣味人だった父親の商才のなさが祟って、大野の自立を待つことなく店を手放すことになる。大野は単身住み込みの家庭教師として稼いでなんとか中学を修了する……といった境遇である。
勉強ができたからこそ、そういう境遇から抜け出る目もあるわけだが、進学によって富裕な知識階級の生活を垣間見るにつれ、大野は劣等感に苛まれるようになる。一高に(末席で)合格してからは、自信の源だった勉学でも、自分よりずっと秀でた者たちに囲まれることになる(学習機会の格差!)。いよいよ青年期の絶望が深まった頃、あるきっかけで万葉集(とくに柿本人麻呂)にのめり込み、文字通り命拾いした大野は、同輩たちと学問芸術についての議論を重ねる中で、日本とは何か、ヨーロッパとどうしてこうも違うのか、という問題にぶつかることになる。その答えには万葉集からアプローチするしかなさそうだ……。というところに、学者大野晋の出発点が置かれている。
これは明らかに、大野が晩年に取り組んだ日本語の起源説、「日本語クレオールタミル語説」をクライマックスに持ってくる工夫である。実際終盤ではドラマチックなまでに熱のこもったフィールドワークの様子が描かれていて、この本の読み応えを一段高くしている。一方で、この説に集まった多くの批判は、ほとんどが週刊誌の記事を取り上げるばかりで、そのいずれもを嫉妬に基づく粗雑な批判として描いている。ちょっとあんまりな気もするが、まあこの本の趣旨から言って自然なことではある。
比較言語学を知らない私は大野説の可否については判断材料をもたないのであるが、全く否定されているか、少なくとも通説にはなりえないというのが大勢のようである(池澤夏樹の「日本語のために」でも同情的に言及されていた)。一方、分子人類学の知見(Y染色体ハプロタイプ解析)からは、インド東部から東南アジアにかけて住むオーストロアジア語族を話す人々と日本人とがごく近いことは確かで、タミル語(オーストロアジア語族ムンダ語派)と日本語との共通祖語があったと考えるのは自然なことのように思える。分子遺伝学的な共通祖先は中国南部にいて、そこから南西に行った集団(オーストロアジア語族と重なる)と北東に行った集団(日本、朝鮮、満州に多い)に分かれたと考えられるそうだが、これは時間的にも空間的にも稲の栽培化・稲作の伝播と比較してみたいところだ……といった話は、この本に書かれていることではまったくない。分子人類学が質量ともに大きく進んだのは大野の没年以降のことである。今後大野説(やその他の日本語起源説)を検討するにあたっては避けて通れない規模にまで発展しているのは間違いないと思う。
というようなわけで、この本を読んで日本語クレオールタミル語説の詳細、ないし論争について改めてさらってみたいと思った。「サンガム」と呼ばれる57577の韻律を持つというタミル語の古典文学にも興味が湧くが、作中で触れられている情報が断片的なので探しあぐねている。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
孤高 と言うタイトルで買った本ですが紹介されている大野晋さんは忘れられない人になりました。これから何冊か読んでみようと思っています。
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読みたい本。
これほどの大物の名前が忘れかけられている?
素顔を知って再認識して欲しいと描かれた評伝らしいです。 -
2008年に逝去した国語学者、大野晋の伝記。
下町生まれで曲がったことの嫌いな大野は、「抜き身の刀」と呼ばれるほどの物言いで、多くの敵を作り誤解を招いてきた。それでも、日本語の起源がタミル語にあるとする説を裏付けるためにインドにフィールドワークに行ったり、日本語に対する情熱は誰よりも強い。
日本で育って日本語が読み書きできても、日本語を使う能力が身についているとは限らない、という指摘には、昨今のブームのような日本語熱・クイズのような漢字熱でいいのか、考えさせられた。
大野が、師である橋本進吉に学び、身につけ、実践し、後進に教えていることは、参考になった。
第一に、疑いを容れるどんな隙もないほど明晰・判明でないことは何も判断に取り入れないこと。
第二に、研究する問題を、できるだけ多くの、できるだけ細かい、小部分に分類すること。
第三に、最も単純な、容易なことから始めて、最も複雑なものの認識へ、だんだんと昇ること。
第四に、全般にわたって再検査して、一つの落ちもないように取り上げること。
あと、漢字廃止論や、当用漢字を適当に決めた国語審議会には大野ならずとも呆れてしまった。 -
戦後日本語を探求し続けた日本語学者の話。
言ってしまえばそれだけなんだけど、その分野の開拓者って
人生を振り返るだけで勉強になります。
多分この人の人柄なんだと思うけど、筆者から見た愛情が
たっぷり形容されてます。読んだ後、ほっとあったかくなりましたよ。
言葉って本当に大切にしなきゃいかんなと再認識させられた一冊です。 -
(2009.09.19読了)
最初に読んだのは「日本語練習帳」でした。日本語の起源はタミル語ではないかという「日本語はどこからきたのか」も読みました。源氏物語の成り立ちについての「源氏物語」も面白く読ませてもらいました。もっと読むつもりで、いっぱい積んであるのですが、なかなかはかどりません。
それなのに、大野さんの伝記が出版されたというので、図書館から借りてきて読んでみました。著者は「週刊朝日」の元編集長です。生前に付き合いがあったのでしょう。
大野晋は、1919年8月23日に砂糖問屋に生まれた。場所は、現在の江東区永代二丁目(門前仲町交差点のあたり)ということです。
中学のころは、店番をするのが嫌で、学校の帰りに図書館で過ごすようになった。「モンテクリスト伯」、「出家とその弟子」、谷崎潤一郎「刺青」、などを読んだという。(44頁)
中学三年のころ、自宅の商売が立ち行かなくなり学費が払えなくなったので、伯母の世話になることにした。(学校を辞めたくなかった。)
中学4年修了で受験した第一高等学校入試は不合格だった。翌年受けた二度目の受験には、28人中28番目で合格した。
高校一年の一学期末に、国語教授の五味智英に相談したら「白文万葉集」を勧めてくれた。送り仮名も返り点もない、奈良時代のままの漢字ばかりの原文の万葉集である。
夏休みは、「万葉集」を勉強した。第一番の歌から読み方、解釈の仕方がいろいろあることに驚いた。(67頁)
万葉集の歌の中で大野が最も強く魅かれたのは、柿本人麻呂である。(柿本人麻呂は、大野の命の恩人だという。柿本人麻呂のおかげで、自殺せずに生き伸びた。)
「万葉集」を片手に、奈良を歩き、当面の目標を、「万葉集」の研究と定めた。
大野晋が国語を研究し続けた原動力は、「日本語とは何か?日本人とは何か?」という疑問だったようです。
大野さんは、人に勧められて橋本進吉教授の国語学演習を履修した。橋本教授によると奈良時代には日本語の母音が8個あったのだという。「神」の「ミ」と、舞台の「上手」の「ミ」とは別の発音だったという。(103頁)
橋本教授から学んだ研究手法は、以下の5段階になる。
? 単語の用例を可能な限り集める。
? 文脈から意味を細かく分けて分類する。
? 分類したものをグループにまとめる。
? グループごとに共通する意味を抽出する。
? 類似の単語との差を見定める。
1943年9月、大野さんは東大を卒業した。
大野さんは、肋膜炎の疑いがあり、徴兵検査で「丙種合格」になり徴兵されなかった。
東大の副手になり、1947年4月からは、清泉女学院高校の教壇にも立った。女学生に教えるにあたって心構えを授けられた。「公平に対しなくてはいけない」、決まった方向を向いて講義すると、○○さんをひいきにしていると取られる。
そこで、大野さんは、学生に横顔を向けたまま外の海に眼をやって講義を続けた。
1950年から学習院大学の非常勤講師になった。
多くのエピソードが述べられ、大野さんの生涯がたどれるようになっています。
●どうして学者に?(94頁)
「学者ってのはね、なるもんじゃなくて、なっちゃうもんなんですよ。わからないことが次々に出てくるじゃない。調べてわかると、嬉しいんだな、これが。それを繰り返してたら学者になっちゃった。そういうもんなんです」
☆読んだ本
「源氏物語」大野晋著、岩波書店、1984.05.21
「日本語練習帳」大野晋著、岩波新書、1999.01.20
「日本語はどこからきたのか」大野晋著、中公文庫、1999.11.18
「日本語の教室」大野晋著、岩波新書、2002.09.20
(2009年9月30日・記)