コリーニ事件

  • 東京創元社
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  • Amazon.co.jp ・本 (203ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784488010003

作品紹介・あらすじ

殺人事件と法廷で繰り広げられる緊迫の攻防戦を通して、事件をめぐる人々を見事に活写する。著名な刑事事件弁護士が研ぎ澄まされた筆で描く、ヨーロッパ読書界を席巻した傑作。

感想・レビュー・書評

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  • 短編集よりは、長編になっている分、いくらか濃縮感は薄くなっていて、短編より読みやすく、一気に読んでしまった。ドイツの歴史の闇が深く差しこんでくる。翻って日本はどうなのか、こういう小説があったろうか。

    2001年、ベルリン。弁護士になりたての私ライネン。大金持ちの実業家老人を殺した男の国選弁護人を引き受ける。冒頭に犯人コリーニ67才がその実業家を殺す場面が描かれる。銃で殺したあと死者の顔をかかとで踏みつけ、じっと見つめると、そのうちやめられなくなり、何度も踏みつけた・・ この場面は、最後にコリーニの故郷イタリアでの少年時代の出来ごとが弁護士ライネンによって明かされると、意味をもってくる。

    また後半、ライネンの弁述の場面、ドイツの法律の事がでてくるが、この法律も作成者も実存するものだ、というのが、おおーという感じだ。うーん、歴史の闇といってもいいのでは。被害者老人とは実はライネンの友人の祖父で、ライネンも少年時代かわいがってもらった、という設定。こうなると、被害者の歴史ともかかわってしまうのか、と思うが、その友人の姉が、つまり被害者の孫が「わたし、すべてを背負っていかないといけないのかしら?」とライネンに尋ねるが、ライネンは「きみはきみにふさわしく生きればいいのさ」と言う。若い世代としては、過去をふまえつつ、こう生きるしかないだろう。


    著者のシーラッハは1964年生まれ。祖父はナチス政権でナチ党全国青少年指導者。ニュルンベルグ裁判で刑を言い渡され1966年に刑期満了し出所した、とあった。ミッション系エリート校の出身だが、同級生には祖父がナチの高官だった者が何人もいたとあった。短編集「罪悪」の中の「イルミナティ」の舞台の学校のようだ。

    ☆早川海外ミステリハンドブック2015:英米圏以外のミステリ

    2011発表
    2013.4.15初版 図書館

  • "「人間に白も黒もない……灰色なものさ」"(p.65)

  • 2001年のベルリンが舞台。
    イタリア人、コリーニが殺人容疑で逮捕される、被害者は大金持ちの実業家。
    主人公のライアンは国選弁護士として名乗りを上げた、本案件が初仕事、気軽に引き受けた弁護だったが、何も語らない容疑者と、さらに被害者は少年時代の友人の祖父であったことから、ライアンの苦悩は始まる。
    容疑者は容疑を認め、裁判は早々に決着するかに見えたのだが、ライアンの調査で明らかになる驚くべき事実。
    コリーニを凶行に駆り立てた本当の動機とドイツで昔本当にあった法律の落とし穴。
    刑事事件専門の弁護士である著者ならではの臨場感あふれる法廷劇に圧倒される。
    また著者の出自や少年時代の学友たちの先祖たちにも触れられている通り、ドイツ独特の因縁めいたものを感じる。

  • 動機がわからない殺人事件、その裁判は国を揺るがしていく。。淡々とした法廷劇に圧倒されました。
    原作を読んでから映画を観ましたが原作の方が好みです。映画も落ち着いていて良かった。
    コリーニさんの有罪は確実だけれど、問われないといけない、コリーニさんの動機に繋がった法律にゾッとします。気付けなかったとはいえよく施行されたな。。

    フィクションだけれどハンス・マイヤーにはモデルがいて、原作の小説が出版されたのをきっかけに、「ナチの過去再検討委員会が立ち上げられました。

    原作者フェルディナント・フォン・シーラッハは現役の刑事事件弁護士で作家、祖父はナチ党全国青少年最高指導者バルドゥール・フォン・シーラッハ。クラスメイトに、シュタウフェンベルクの孫やリッベントロップの孫、ヴィッツレーベンの孫がいたらしい。
    こんなドイツでは歴史修正主義なんてそう簡単に生じないよなぁ、というのが羨ましいです。
    シーラッハ作品、他のも読みたいです。

  • 時間は待ってくれない
    フェルディナント・フォン・シーラッハの初の長編『コリーニ事件』の邦訳が刊行された。酒寄進一訳東京創元社。シーラッハは本職は刑事弁護士というドイツの作家だ。これまで訳出されている短編連作集『犯罪』『罪悪』も評判になったが、この新刊本はさらに話題を呼んでいる。
    この小説の冒頭はいきなりの殺人シーン。被疑者はドイツに長く滞在し働いてきたイタリア人元機械工コリーニ。殺害後の執拗な死体損壊の様子からして深い怨恨がありそうだ。
    そして2章では、新米弁護士が休日に国選事件担当の電話が入るのを待機している。私たちにとってはお馴染みといえる場面だ。では、この作品はこの新米弁護士ライネンの刑事弁護奮闘記なのか?否。
    ほどなく、被害者はライネンの友人の祖父だったことが分かる。彼は一度は弁護人を辞任しようとするのだが・・・。
    なるべくネタバレしないようにしながらも結論を書くと、この小説のテーマは171ページ以下十数ページの証人尋問手続きでのライネンと学者とのやりとりに尽きる。
    刑事弁護は初めてのライネンがその事実にどうやって行き着いたのかは明かされないし、親しくしていた友人の祖父の過去を知ったことをどんな風に受け止めたのかは、特に気になるところだけれど、作者のシーラッハはエモーショナルな表現を極力排しているので、行間を読むしかない。結末も、ある意味予想どおりだが、そうならざるを得ないのも理解できる。ドイツのみならず、日本でも、この事務所で扱った事件(民事だけど)でも、幾度となく立ちはだかってきたあの問題があるのだから・・・。
    公訴参加代理人(被害者家族側の弁護士)を務める大物弁護士は言う。「わたしは法を信じている。きみは社会を信じている。最後にどちらに軍配があがるか、見てみようじゃないか(略)この裁判はもううんざりだ」倫理と法律の規定が鋭く対立するかに思えるとき、人は、とりわけ法律家は、どうするべきだろうか?
    この小説はドイツ連邦共和国の刑法典の盲点をあぶりだした。この作品の中では動かしがたい法律上の壁であったそれは、この小説が世に出てから数ヵ月後の2012年1月に、法務省内の『再検討委員会』が設置されたことによって見直しの機運が出てきたとのことだ。
     繰り返すが、「これはドイツの話だ」で終わらせるわけにはいかない。日本では裁判上ではその法理論は崩せなかったし、再検討をうながすような法改正の動きも表立っては未だないのではないだろうか。

    「私は知っています。多くの方たちにとっては、金銭はまったく補償にならないことを。その方たちは、苦難が苦難として承認され、自らが被った不法を不法と名付けられることを望んでいます。(略)あなた方の苦難を私たちは決して忘れません。」(2000年にドイツ連邦共和国議会においてヨハネス・ラウ大統領(当時)が行った演説より)※小説とは直接関係はありません。

  • 短編集「犯罪」によって一躍名を馳せたシーラッハ初の長編で2011年発表作。戦後ドイツが抱える国家的/人道的諸問題を鋭く抉り出した本作は、現代ミステリとしてよりも戦争文学/社会小説としての読解を求める。シーラッハ自身の祖父が紛れもない戦争犯罪者であったという重い事実が、本作構想の基軸となっているようだ。その忌まわしい血縁/トラウマの克服、さらに弁護士/小説家として「どう使命を果たすか」という実存的な動因も、同時に感じ取れる。

    物語の中心となるのは、ドイツ人の元実業家を惨殺したイタリア人コリーニの動機を巡る法廷劇だが、主眼は戦争と人間、その罪と罰の根源的な問い直しにある。主人公の若い弁護士は著者の投影であり、随所で挿入する回想シーンもシーラッハの追懐をもとにしたものなのだろう。敢えて激情を押し殺し、簡潔に情景を描いていく筆致は、悔恨を背負いつつ生き続ける人々の心象を逆に生々しく浮かび上がらせ、より一層悲劇性を高める効果を生んでいる。

    登場する人物らは、須く過去の戦争に呪縛されている。時とともに血の記憶が薄れていく中、大半は口を閉ざし忘却を試みる。だが、愛する人を無惨にも奪われた者にとって、戦争は過去のものではない。人を殺めることは、戦争という異常な状況下であれば許されることなのか。さらに、その復讐を為した者の罪を咎めることはできるのか。
    戦争犯罪/責任の問題は「終わった」こととして処理されていいのか。
    物語は、幾つもの劇的な展開を経て、ひとつひとつ「盲点」を洗い出し、積み上げていく。衝撃的な告発とともに訪れる唐突な幕引きは、決して問題の解決を投げ出しているのではなく、「今ここから」再び歩み始めなければならない、というシーラッハの意志の表れなのだと感じた。


    以下は余談である。

    「過去に目を閉ざす者は、現在に対してもやはり盲目となる」
    降伏から40周年となる1985年5月8日、ドイツ連邦共和国の第6代連邦大統領ヴァイツゼッカーによる有名な演説の一節だ。この日を「ナチスの暴力支配による非人間的システムからの解放の日」と定め、これからの国家と人々のあるべき姿を格調高い言葉で述べている。
    例え戦後生まれであっても、過去の罪過との関係性を否定することはできない。むしろ、より真摯に向き合い、事実を知り、過ちを共有し、姿勢を正さなければならない。その上でこそ、世界の人々との平和/共存について共に考え、未来へと歩む「資格」を持てる。この崇高な志/構えは万国共通であり、戦争の惨禍を後世へと伝える義務さえ有しているといえる。

    ナチス・ドイツは、近現代史に於いて最も邪悪な個人崇拝/独裁国家のシステムを構築したが、虚栄は崩れ、無辜の屍の雪崩に呑み込まれて自壊した。暴力による支配そのものである「非人間的システム」の破綻は、同時に人類の叡智と呼ばれるものが如何に脆弱で無力であったかをも白日の下に曝した。
    排他的ナショナリズムを歓迎/熱狂し陶酔したのは、嘘偽りなく大多数の国民であり、己らの為したことに慄然としたのは、銃弾飛び交う街の中でハーケンクロイツが灰と化すのを眼前にした時である。目を閉ざしても、地獄が消えることはない。ならば、しっかりと目を開いて現実を直視し、記憶に刻みつけ、その罪を問い続けること。それ以外に未来は無いと悟るのである。

    戦後のドイツが歩んだ道には、一部の狂信的右翼は別として、国家も国民も戦争責任/戦争犯罪の問題と向き合い、再びの過ちを繰り返さないという信念/決意が深く刻み込まれている。
    これは、己らの戦争遂行の巨悪/罪を隠蔽し、国民に「一億総懺悔」という曲解の極みとなる卑しい虚妄を押し付けてきた日本とは大きく異なる。
    敗戦から70年、ドイツと日本を比較した場合、政治/司法/教育/思想などに於ける「過去の清算」の隔たりが近年益々拡がっていることは言うまでもない。

  •  何と言ってもこの小説が出版された後に、ドイツの政治が動いたって事が凄い……。
     そして小説でこの問題が指摘されるまで司法や政治が誰もその事に気付いてなかったのか、気付いていて放置していたのかが気になる。

     日本でこのような小説が書かれ、出版され、そして読者に支持される事なんてあるのかなぁ、と思う。

     話の結末は、最初からもうこうするしかなかったんだろうなぁという感想。
     ナチの過去再検討委員会が立ち上がった今、この話を書き直すとしたら、また違った結末になるんだろうか。それともそれにはまだ早過ぎるんだろうか。

     この後の著作『テロ』は戯曲で、有罪か無罪かはその公演の観客次第で決まるそうなのだけど、『コリーニ事件』も結末が2通りあっても面白いと思う(今回のを含めて3通りか)。
     もしかして『コリーニ事件』がこういう終わり方だったから、『テロ』はあの形になったのかなぁ、という気もする。

  •  新米弁護士のライネンが弁護することになったのは、殺人容疑で逮捕された67歳のイタリア人。ところが事件の被害者マイヤーは、幼い頃のライネンがよく遊んでもらった人物であったことがわかる。憎むべき犯人を弁護できるのか、悩むライネン。しかし、裁判がすすむにつれて、意外な真相があきらかになる。
     後半の裁判部分は、『犯罪』のなかの一編がそのまま射し込まれているような印象。事実のみをたんたんと記しているのにものすごいグリップがある文体は変わらない。物語の鍵となっているある法律が、実在のものであるというのもスゴイ。

  • 現代に起きた殺人事件から歴史の闇が浮かび上がる異色の法廷劇。登場人物の様々な視点から描くことで重厚な作品にすることもできただろうが、著者は潔くストレートに事件の持つ問題点に切り込んでいく。

  • 著者初の長編だが、長さからみると中編と言える。訳ありの被疑者の弁護についた新人弁護士が、その真実の迫ると意外な事実に突き当たる。書かれている言葉だけを捉えても、そこには冷静かつ落ち着き払った空気感しか伺えないが、背景に見え隠れする人間の感情は激動している。それをサラッと描き出す。読んでいて、読んだページより多く読んだ気がする。

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