六の宮の姫君 (創元推理文庫) (創元推理文庫 M き 3-4)
- 東京創元社 (1999年6月20日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (283ページ)
- / ISBN・EAN: 9784488413040
感想・レビュー・書評
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現況;
「六の宮の姫君」については、以前に山岸涼子さんの漫画で読んだことがありまして。最近平安朝の漢文をよく読んでいることもあり、こちらも読ませていただきました。
気づき;
☆慶滋保胤
については、漢文の世界ではとても冷静な賢い人のような印象だった。しかし、今回改めて今昔物語 巻第十九 第三話 「内記慶滋の保胤、出家せること」を読んでみますと、結構感情的でほろほろしていて、ああこんな面もあったのかと思いました。説話文学のことゆえ、どこまで本当かはわからないですが。
☆芥川龍之介と菊池寛
私は菊池寛についてほとんど読んだことがないですが、自分の考えは、どちらかというと菊池寛氏に近いなと思いました。襖もよく左右が反対になってますし(笑)。
そうだからといって、「往生絵巻」の主人公の口に白蓮華が咲くのはけしからんとも思いません。そういう考え方の人もいるのかなという目で見ると思います。
芥川龍之介は、佐藤春夫に自分の葬式に弔辞を述べてほしいと言ったそうですが。本当に弔辞をのべてほしかったのは菊池寛ではないのかと思いました。
彼の「六の宮の姫君」で、唐突に慶滋保胤がでてくるのは、自分が死ぬ前に、菊池寛(=慶滋保胤)に、理解はしてもらえなくても、ちょっとだけでも憐れんでもらいたい、という願望ではなかっただろうか、と私は考えます。
芥川氏の辛くしんどい人生を、何十年も後からではありますが、心から悼みたいです。
また、彼が羨ましく憧れていた菊池寛氏にも、心の中には壮絶な孤独があったことにも胸を打たれます。
北村薫作の小説部分は、それなりに仕込みがあったりするんでしょうけど、まあこの両巨頭のリアルな人生の前では、かすみのようにしか見えません。
本編主人公も我々も、六の宮の姫君のようにうかうかと人生を過ごさないように、気をひきしめてがんばっていこうということかと思います。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
主人公「私」に身を借りた著者、北村薫さんの芥川龍之介、菊池寛に関する研究といったところなのでしょうか。
非常に理解が難しく面倒だった。読み流して楽しむ種類の小説ではなかった。
途中棄権しようかとも思ったけれど、何かしら得られる予感がして頑張った。
芥川龍之介と菊池寛、その周囲の作家が何を思いどう生きたのか、その作品を読んだだけでは分からない事が深く調査されている。
特に芥川と菊池寛の関係においては作家としての2人、人間としての2人が興味深かった。
と同時に作品を読むという作業がコレほどまでにして作家自身を知らなければ、そしてその作品が書かれた経緯と意味をしらなければ完成しないのかと思うと弱音が出る。 -
円紫さんシリーズ。これまでのミステリらしいミステリというより文学史、芥川と菊池寛の交友関係というか…。読後感は文学を読んだような読みたくなるような不思議な感覚。
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今読んでいる最中ですが、作家、作品、批評の事が山盛りで「玉突き」の謎解きはなかなか動き出しそうにない様で疲れました。
チョット離れて他の物を...今読んでいる最中ですが、作家、作品、批評の事が山盛りで「玉突き」の謎解きはなかなか動き出しそうにない様で疲れました。
チョット離れて他の物を読みます。2022/08/25
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「太宰~」から遡る旅を続けている。前回紐解いた時に印象に残ったまさしく旅にでる(正ちゃんとドライブ)のみならず、芥川、菊池らを巡る過去への推理の旅も初読より十年以上もの年を経た今、理解を深めることができる。とはいえ、拙い私(コレは登場人物ではなく、コノ自分のこと)にとってはややこしく、レベルの違い過ぎる頭脳の自分の限界をまざまざと見せられるということに他ならないのだ。トホホである。
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文学の研究者なら日々行なっているであろう、文献の収集や比較検討といった営みを、リアルな空気感で追体験できる素晴らしい一冊だった。活字に残された断片から過去の文人の心の動きをありありと浮かび上がらせる根気と洞察の描写に痺れた。
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発売された時に読んで以来の再読。
芥川龍之介の謎に胸がじんと熱くなり、今の歳だからわかるところも増えました。
良い本だなぁ… -
文学研究の熱に触れられる小説であり仕掛けがすごい推理ものでもある。文章内と言外に張り巡らされた情報が体系的に繋がって膨大な情報が頭に流れ込む。作品内で触れられている本もちゃんと読みたいなって思った。
芥川作品は理知的な頭脳と知識によって構成され教科書に載るほどの鉄板さですが、その緻密な構築物に託すように乗せられた作者の感情らしきものにどうしようもなく惹き付けられてしまう人が後をたたない。闇がある。それはどうしても作者の精神病や自殺と結びつけられる。
そして本作におけるもう一人の考察対象が菊池寛。その作風や生き様からだろうか、芥川よりもむしろ具体的に語られる。大衆小説を書きまくり実業家としても大成した彼だったが、こちらも家族関係で深い闇を抱えている。
二人の作品を読むと双方イエ制度に苦しめられていると感じる。
方向性は正反対だけど親友で互いの理解者だった二人。菊池の反逆、芥川の嘆き。彼らの作品は、古典から題材を採ったり仏教をテーマにするなど共通する面もあるが(この辺りも互いに影響し合っているという考察がされていてエモい)、結末はまるで違っている。仏に一心にすがることができない芥川作品の人物。一方、例えば菊池が『蜘蛛の糸』を書き換えたら罪人達も全員救われてハッピーエンドになるかもしれない…と思った。菊池は現実がどうであれ理想や信条を貫いてやるという強い意志を感じるが、芥川はどうか。
芥川作品にしばしば超然とした悪人が現れるのは、我を通して生きたかった(生きられなかった)願望が反映されているという。彼の俳号は自我という意味の「我鬼」。しかし芥川はエゴを抑え、作品に理智的なオチをつけることに徹する。『羅生門』の最後の一文は書き換えられ、下人の情動は有耶無耶になる。その理智が芥川自身をも追い詰めていく。
『頸縊り上人』と『往生絵巻』どちらも死後の救いの光景を描いたけれどその裏にある思惑は全く違っていた。『頸縊り上人』の結末を受けて『六の宮の姫君』を書いた芥川は菊池からのリプライを待っていたのでは、というかそうであって欲しい(極楽も地獄も知らぬこの人間を、可憐な姫君にしたのは芥川のナルシシズムの表れだろうー237頁)しかし菊池は小説を書かなくなり二人の距離も離れていく。『六の宮の姫君』は友への別れの歌となってしまったようだ…。キャッチボールと言いながら回りくどいんじゃ。
菊池睡眠薬事件の二人のやり取りが凄くBLで寛×龍ええやん…となった。逆?どっちでも良いが龍→寛の感情がデカそう。
「(菊池寛は)私の英雄ヒーロー」
《あなたは力が強そうだから、私が死ぬ時はギュッと押さえていてね》
「で、それは何も最期の時とは限らない。生きていく上で、中空にいるみたいな、人間の孤独を感じたら、理屈じゃなくって文字通り、揺れてる自分を押さえつけてほしくなると思う。そんなの甘えだといわれたら一言もないけれど」ー136ページ引用
これが全てじゃないか。 -
ケメルマン『9マイルは遠すぎる』のキーワードに相当するのが、「あれは玉突きだね。……いや、というよりはキャッチボールだ」
しかし、芥川発言をヒロインに伝える田崎信は架空の小説家なのだ。このキーワードに確固たる典拠があるのだろうか。寡聞にして知らない。
驚いたのが、
ヒロイン「『真珠夫人』は読みました」
その上司「今時、千人に聞いても読んでないわよ。あなたって面白い子ね」
(中略)「テレビの原作にぴったりの本だと思いました」
このやり取り。
フジテレビによるドラマ化が2002年。「六の宮〜」の初出は1992年。本好きのテレビマンがここを読んだのか? -
ちょっと時間はかかりましたが、読み終わりました。
今回は主人公の「私」が卒論に挑みながらたどる芥川龍之介と菊池寛の話。
色々な逸話、興味のある短編などが随所に出てくる。
気になって青空文庫で探しながら読みました。
これだけのめり込めたら楽しいだろうなと、うらやましくなります。