- Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
- / ISBN・EAN: 9784492371022
作品紹介・あらすじ
1930年の金解禁をきっかけに、日本は恐慌に陥った。そのとき経済学者たちは、いかなる論戦を繰り広げたのか?何が恐慌からの脱出を可能にしたのか?70年前、日本を襲った未曽有の経済危機、われわれは今、何を学ぶべきか。
感想・レビュー・書評
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・P269:終章 昭和恐慌の教訓 - 「世間知」と「専門知」の対立
しかし、『東洋経済新報』以外の雑誌メディアは、どれが経済学的知見に基づいた論説であり、どれがそうでない論説化を見分けるだけの力量は持っていなかった。野口[2003]によれば、メディアはこの力量不足ゆえに、「世間知」を作り出し、その普及に努めることによって、「世間知」と「専門知」との対立をもたらす。
野口の言う経済における「世間知」は経済学の知見のことであり、「世間知」とは世間一般の人々の「常識」を指す。もちろん、「世間知」が常に謝っているというわけではないが、問題は「専門知」と「世間知」が乖離する場合に、メディアがもっぱら「世間知」の普及に努めることにより、現実の経済学的理解が歪められ、政府が誤った経済政策を採り、多くの人々がそれを支持するという現象が起きることである。第3章と第4章は昭和恐慌期にもそうしたことが起こったことを示している。
第2章の冒頭で示されているように、1925年にイギリスの大蔵大臣ウィストン・チャーチルは、ケインズとマッケンナの強い渓谷にもかかわらず、旧平価によって金本位体制に復帰することを決定した。その結果は、ケインズが予想した通り、デフレと失業の増大であった。それでは、「チャーチルはなぜ、そのような選択をせざるを得なかったのか。それは、旧平価による金本位体制への復帰こそが、当時の圧倒的な世論=世間知だったからである」(野口[2003] P181)。
第3章と第4章が描くように、この時のイギリスと全く同じ悲劇を、日本もまた経験した。すなわち1930年に井上蔵相は「世間知」に押されるようにして、旧平価に金輸出解禁に踏み切った。当時の日本にも、カッセル、ケインズ、フィッシャーなどの外国の先端理論によく通じた石橋湛山や高橋亀吉のような、旧平価解禁に強く反対し続けた少数の優れた専門家たちがいた。しかし旧平価による金解禁は、結局は当時のマスメディアや世論の圧倒的支持を背景として断行された。その帰結は、未曾有のデフレの下での失業と倒産の増大、特に、農村の生活の破壊であった。
ひるがえって、平成大停滞期の日本のメディアはどうであろうか。小泉純一郎内閣が誕生した当時(2001年4月)の新聞を読むと、多くの新聞が、小泉内閣の誕生を諸手を挙げて歓迎し、「構造改革無くして成長なし」という小泉首相のスローガンに酔いしれた。日本では、小泉内閣誕生当時、「デフレの悪化を説き、デフレを止めて、緩やかなインフレ経済に移行することこそが、最優先されなければならない経済政策であり、デフレ脱却のための基本的な政策は金融政策である」という経済学者・エコノミストは少数派であった。
しかし海外では、ジェームス・トービン、ロバート・ソロー、ミルトン・フリードマン、ジョセフ・スティグリッツ、ロバート・ルーカスといったノーベル経済学賞受賞者はもとより、〜中略〜など、そうそうたる経済学者が、日本経済の低迷の最大の原因は日銀の金融政策の失敗にあり、日本経済がデフレから脱却して失敗するためには、何らかの金融拡張政策が必要であるという点では完全に一致しているのである。
〜中略〜
「外国人は日本のことを全く知らずに勝手なことを言っている」と、まるで尊王攘夷や寛政異学の禁(松平定信の寛政の改革で、朱子学を正学、他を異学賭して、幕府の学問所の昌平政学問所では朱子学以外の講義を禁じた)のように、学問の先端で日々研鑽を積んでいる海外の経済学者の分析を排除するような態度は慎むべきであろう。内外を問わず、経済に関する理論と実証及び歴史の解釈に関する相互の批判的な分析を通じてこそ、正しい経済的な理解に一歩でも近づくことができるのである。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/35030 -
歴史
経済 -
恐慌研究の最重要文献の1つ。
必読! -
リフレ政策=インフレ目標+無制限の長期国債買いオペ
=物価水準を貸し手と借り手にとっての不公 正を修復する水準まで戻す政策
=物価を企業が失業者を吸収できるような水 準まで戻し、その水準で安定させる -
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