経済学者 日本の最貧困地域に挑む

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  • 東洋経済新報社
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  • Amazon.co.jp ・本 (470ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784492444344

作品紹介・あらすじ

著者の鈴木亘教授は、年金や生活保護など社会保障問題を専門とする経済学者。橋下大阪市長(当時)に年金問題のレクチャーをしたことをきっかけに、2011年3月「西成特区構想担当」大阪市特別顧問に就任した。誰も手を付けられなかった、日本最大のドヤ街「あいりん地区」の地域再生を構想・立案する仕事だ。
 以来4年間、多いときには週2~3回大阪に足を運び、「特区構想有識者座談会」座長や、住民参加型の大集会「あいりん地域のまちづくり検討会議」の司会をつとめてきた。
 特別顧問就任1年目は、解決すべき問題を列挙し、優先順位を付け、工程表を作成することから始まった。抵抗勢力に「抵抗する隙を与えない」ために驚くべき速さで工程表をまとめていく。2年目は、問題解決にあたるべき主体を「兎に角同じテーブルに着いてもらう」ことを目指し、地域住民、ホームレス支援団体などとの交渉に出かけていった。 彼らが話し合いのテーブルに着いて「あいりん地域のまちづくり検討会議」がスタートしたのが3年目。2014年9月から12月にかけて小学校の体育館を使って、6回の会議が行われた。傍聴席からの怒声が飛び交うなかで鈴木教授が会議をすすめていくさまは、すべてネット上の動画で見ることができる(The Voice of Nishinariホームページ参照)。
 2015年1月にはようやく、一連の改革の「象徴」ともいえる、老朽化した「あいりん総合センター」(1970年竣工)の建て替えに道筋がついた。この一連の経緯を「当事者中の当事者」である鈴木亘教授が詳細に描く。あいりん地区には「人口減少、高齢化、貧困」という日本の大問題が凝縮されており、本書を通じて読者は、これらの問題について深く考え、地域が主体となってこれらの問題に取り組むヒントを得ることができる。

感想・レビュー・書評

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  • 「改革の中身より、どう実行するかがはるかに重要である」、冒頭に挙げられたこのテーマが見事に実践されていく様を、本書を読むと体験する事が出来る。

    多少自画自賛が鼻につくこともあるが、地域の人、お役人、いわゆる活動家そして政治家やマスコミの間を縦横無尽に駆け回り、事案を動かしていく様は圧巻である。こうすれば、世の中動いていくのかという良いお手本である。もっとも、鈴木先生が当時の橋下市長と昵懇の間柄であったという、大きなアドバンテージは有ったが。

    「社会保障亡国論」にも感心したが、鈴木先生はまだ若いし、学者で終わるのはもったいない気もする。もう少し、大きいところで、世の中の問題解決に大ナタをふるってもらいたい。

  • 鈴木亘という経済学者についてはあまりいい印象を持っていなかったが、本書を読んでみると意外に常識的な人だと思った。特に印象的だったのが、ボトムアップによる政策決定:地域住人、支援団体、労働団体と膝をつき合わせて議論をまとめっていったのはたいしたものだと思う。
    結局のところトップダウンによる利益剥奪(既得権益の打破)は、意志決定とその大胆さからしばしば改革として賞賛されるが、つまるところ既得権益側からすれば恨みを残し、その制度の安定性に揺らぎが生じるのだろう。

  • やればできる、けれども禿げ上がるほど大変である。
    という感想です。
    題名で感じるより遥かに読みやすい、テンポの良い文章です。

    行政の縦割りと、ごった煮状態の区民の中に入って動き回った経済学者の鈴木亘さんのお話です。
    綺麗事と正統法だけでは絶対に解決しない問題を、経済学者の物の見方とフットワーク、広い人材からなるチームワークで、焦げを削いでいくように進んでいく改革が凄かった。

    素晴らしいと思ったのは、自分達の話を正直に明かした上で、面倒な相手であってもしっかりと話を聞いて受け入れるという覚悟です。
    会議が騒動屋にひっかき回されても、様々な立場の方達と揉めることになっても、ゴールに向けて包摂していくという姿勢が強く優しく堅実で確実でした。
    排除し押し殺して進んでいったら、またどこかで揉めることになる。
    そりゃそうだろうと思うけれど、楽で早い解決法として押し通されている事も少なくない。
    自分が解決する側に回った時に、鈴木亘さんのようなやり方ができるだろうか。
    胆力という言葉が浮かびます。
    「理不尽な怒声を浴びせられながら進めなければならない会議」というだけで胃が痛くなる。

    終わってから1冊の本になっているので読む方は
    「なるほど〜、大変だったけど良かったね!」
    だけれども、渦中で闘っていた方々のご心労たるや想像を絶します。

    人と人、集団と集団の間を繋ぐ「ハブ人材」の重要性についての本でもあると思いました。
    良いものが個別に存在しても、繋がらないと力にならない。
    これから社会が良くなるためのキーの1つなんじゃないかな。

  • 大阪府大阪市西成区の再開発をどのように行ってきたのかが書かれている。まさに住民主体で作り上げるまちづくりの苦労が記されている。

  • 実話に基づく裏話。とても興味深くおもしろい。

  • 公共事業に関わったことがある身としては、非常に興味深く読めた。著者の方も経済学者という肩書きではあるものの、ひたすらあらゆる関係者との調整役となり物事を推し進めている。そういう意味では、経済学者がやる仕事ではなかったかもしれないが、それらの調整も経済学の観点からといったコメントがところどころに差し込まれていて興味深い。シンプルな重要供給線とか、人はみな金銭的な利益の最大化するといったようなリアリティのない物差しではなく、各人、各団体(反対派も含む)の歴史まで紐を解きながら、彼らを動かすためのボタンはどこにあるのか、インセンティブはどこにあるのかといった探索を、経済学で使われる用語を取り前ぜながら説明している。こういう現実に即した出来事の説明をしていけば、経済学ももっと面白くなるのではないかと思ったりもした。

    あまりあいりん地区そのものに詳しくはなかったのだが、このころの改革がどの程度効果があったのかも調べてみたい。

    vi
    我が国では、どの地方の改革、どの分野の改革であっても大抵の場合、改革として何をしなければならないのか、明確にわかっていいうことが多い。とくに、私が専門としている社会保障・社会福祉の分野では、改革としてなにをなすべきなのか、専門家の間ではおおむねコンセンサスが得られている場合が多い。
    しかし、実際には改革は遅々としてすすまず、問題は悪化の一途をたどってしまう。改革としてなにをなすべきかわかっていることと、それを実行に移すことは、まったく次元の異なることなのである。

    P.33
    日雇い労働者は基本的に一匹狼の単独行動をとるために、労働者同士の横の連携は弱い。このため、高度成長期の終わりくらいまでは、しばしば手配師たちに賃金の法外な中抜き行為をされても、一人で泣き寝入りせざるをえない状況があった。また、募集の際に約束された賃金や宿代、食事代、労働条件がまったく守られないこともしばしばだった。(中略)
    労働者にはそのような飯場から逃げ出す自由があるが、途中で捕まれば半殺しの目にあうことになるし、茅ヶ崎に戻ってから暴力手配師にリンチされることもある。(中略)
    弱い立場の労働者が搾取される荒々しい原始資本主義ーいい換えれば何のセーフティーネットもない弱肉強食の時代がたしかに存在していたのだ。

    P.136
    経済学では、差別が起きる合理的説明として、「統計的差別理論」が用いられることが多い。まず、等k亭的差別の前提には、個人の能力や資質は、本人がいちばんよくわかっており、他人にはなかなかわからないというものがある。これを経済学では「情報の非対称性」(本人と他人で情報量が同じではない)が存在するという。
    たとえば、いま、X区の学生とY区の学生がいて、能力や資質がまったく同じだとしよう。2人の学生はいまからある会社の採用面接を受けるが採用は1名だけである。いくら熟練の面接官でも、短時間で学生の能力を見極めることはむずかしい。そこで、過去、X区の学生が10人中l7人が有能であり、Y区の学生が10人中3人しか有能でなかったことを思い出す。能力の見極めがつかなかった面接官は、実績からいって無難だからと、X区の学生を採用する。

    P.149
    改革を行うということは、必ず誰かの既得権に触れることになるから、反対者が出る。その反対意見をもつ人々こそ積極的に会いにいく。賛成はしてくれなくても、こんこんとていねいに説明して「そうか。そら、しゃないな」と言ってもらえれば、なんとか物ごとを前に進められる。(中略)
    後のち、私が地域のキーパーソンたちとさらに人間関係を深めて、彼らの間をつなぐ結節点(ハブ)となったことで、役人たちも、まちの人々も、特別顧問という存在の有用性を認めざるを得なくなった。(中略)
    このルートの独占がのちに、私に独特の立場、政治力を与えることになり、改革を実行するうえでの貴重な「政治的資本」となった。

    P.219
    私は『制度を憎んで人を憎まず」という姿勢が、経済学のもっとも重要な基本原理の一つだと考える。「黒い猫でも白い猫でも鼠を捕る猫はいい猫だ」と言うが、たとえ、囲い屋であっても、きちんとケアや支援行う方が特になる「制度」をつくれば、正しい行いをする可能性が高い。逆に貧困ビジネスがはびこる原因をつくったのは、性善説に基づいて甘い制度設計を行なった(あるいは、抜け穴が明らかになっても放置した)担当官庁の責任である。

    P.247
    経済学の基本は、人間を「損得に反応する合理的な存在」と単純化して捉え、「事故の利益を最大化するように行動する」と考えるところにある。この場合の忖度や利益とは、金銭面だけではなく、時間的なものや、心理的なものも含めたもっと広い意味である。この打算的な人間の捉え方(ホモ・エコノミクスという)は、他の社会科学者から蛇蝎のように嫌われる考え方であるが、人々の平均的な行動を予測するには、じつにパワフルな方法である。
    たとえば「教師たるもの、子供の模範となる行動をすべき」だとか「犯罪者になるような人間は、もともと悪い奴だ」などと、価値観や先入観で人間を判断することはしない。教師だろうが犯罪者だろうが、みな、われわれと同じ人間であり、そんすることは嫌だし、得することは好きだと考えるのである。損得勘定次第で、教師だろうと悪いことをするかもしれないし、犯罪者だろうとよいことをするかもしれないと考える。

    P.255
    あいりん地域の活動家、運動家のなかには「よい政策を訴えてさえいれば、あとは自動的に役所が事業化してくれるはずだ(するべきだ)」「こんなに素晴らしい取り組みなのだから、予算を確保するのは当然のことだ」などと言っている人がじつに多い。心情的に理解できるが、これはあまりにリアリティーのない、甘すぎる物の見方である。
    よい政策は、悪い政策よりも大義名分が立ちやすいから、たしかに有利ではある。マスコミも取り上げやすい(ますこみは、政策現場に一定の影響力がある)。しかし、本当にその政策を実現したいのであれば、シンポジウムや講演会を開いて、政治家や役人を読んで話を効かせる程度では駄目である。選挙前などの政局がらみのときを覗き、ツイッターやフェイスブックなどのSNSで盛り上がってもあまり効果はない。ましてやデモなんか、私の知るかぎりほとんど政策現場に影響しない。
    橋下市長のように特殊な首長を除けば、結局、地方自治体で力をもっているのは役所の役人たちである(国政だって結局は霞が関の官僚たちである)。まずは、担当部局の役人たちの立場に立って物ごとを考えることである。そして、その役人たちの損得感情を変えるような手を打つ。政策の現場は、政治力や損得感情で決まる部分が大きい。きれいごとばかりの世界ではないので、(経済学的には、非効率であるが)ロビイングが効果を発する。

    P.291
    一般に、公募区長、公募局長のような形で、純粋な民間人が役所組織のなかに入って成果を上げることは、世間が想像する以上に困難なことである。役所という終身雇用、年功序列の閉鎖的組織からみると、外部から入ってきた民間人はまさに秩序を乱す「異物」そのものであり、一般に激しいアレルギー反応が引き起こされる。
    役所内には、民間にはない独特の制度、独特のルール、独特の慣習、独特の言葉、長くいないと絶対にわからない裏技の数々が満ちあふれており、行政経験のない民間人にとっては、右も左もわからないパラレルワールドである。ルールもうろ覚えの初心者が、有段者たちと将棋を指すようなものである。それゆえ、まず混入した異物の方に勝ち目はない。
    それでも、我を通して異物であり続ければ、役人たちは面従腹背で何も従わず、仕事がまったく回らなくなる。そのうちに、この未知の世界に仕込まれたさまざまな「地雷」を踏んだり、役人たちの「自爆テロ」に遭って一巻の終わりである。生き残りたければ、異物であることをやめて同化し、役人たちの上に乗っかるだけの人畜無害な存在になるしかない。

    P.294
    役所の速い人事ローテーションには、よい面と悪い面がある。悪い面はもちろん、また1からの説明、引き継ぎ、啓蒙をやり直さなければならないことである。(中略)しかし、説明をやり直すということは、私の方が「情報優位」に立てるということでもある。今度は私が「先生」として仕事を教える立場であるから、格段に事務局への指示が通りやすくなる。

    P.308
    抜本的な問題解決のためには、部局横断的、包括的に物ごとに当たらなければならないが、部局の保身のためには、たとえ無意味とわかっていても、なんらかの手を打たざるをえないのだ。それはむしろ、全体でまとめようとしている動き、あるいは西成特区構想全体の動きを台無しにしかねない選択なのだが、それはこの部局の管轄ではないから、知ったことではないというわけだ。ここでも縦割り組織における多部局間調整のむずかしさが露呈してしまった。
    このような縦割り行動の結果を、経済学では「部分最適」と呼び、「全体最適」と区別する。要するに、その部局にとってだけ都合のよい行動をとり、全体としてベストな行動からはずれてしまうことが、役所の縦割り組織の現実であり問題点なのである。そして、とくに大阪市役所のように図体がでかく、歴史の長い強固な縦割り組織ほど、その病理は深刻である。

    P.348
    支援団体や労働団体のなかには、まちが変化して行くことに対して消極的か、むしろ反対しているところがあった。この地域の生活困窮者は、貧しいながらもさまざまな行政施策、各団体の支援によってなんとか食いつないでいる。労働団体や支援団体も、依然として存在意義、果たすべき役割が大きい。
    お互いに寄り添い、助け合って生きている現状を維持することで十分ではないか。今のままでわれわれは十分満足だというわけである。むしろ西成特区構想の進展で、現在の「低位安定」の仕組みが壊れてしまうのではないかということを彼らは懸念していた。
    とくに橋下謀略説を唱えている活動家たちが主張しているのは、西成特区構想によってい「ジェントリフィケーション」が起きるという批判である。ジェントリフィケーションとは、欧米の諸都市で実際に起きた現象で、開発による地価上昇によって、元からいた貧困層がその地域に住めなくなることを意味する。

    P.362
    各団体に各担当の行政部局が対応している現行の縦割り制度では、行政間の調整回数、行政と各団体間の調整回数が膨大な数となり、それにかかる手間暇からいって、期限内に物ごとを決め切ることは不可能だ。まったく新たな仕組みが必要である。
    こういうときの経済学の教えは、「中央集権的な情報処理ではなく、市場を使って自律分散的な情報処理を行いなさい」ということだ。経済学では、1930年代から40年代にかけて行われた「社会主義経済計算論争」を経て、中央集権よりも市場を使った自律分散を行うほうが、資源配分がはるかに効率的にできることが証明されてきた。これは、20世紀末のソビエト連邦や東欧諸国の経済崩壊によて、現実にも証明されたところである。
    ステークホルダー間の利害調整の場を一種の「市場」と考えれば、縦割り行政を通さず、直接ステークホルダー同士で交渉ができる自律分散的な仕組みのほうがうまくいくに違いない。つまりはアゴラである。
    しかし市場のようにすでに整った制度・仕組みがあるわけではないので、いきなりアゴラを行ってもカオス状態に陥り、まとまるものもまとまらないだろう。ここは、何段階かに分けて、グループ別準備体操をしておかなければならない。「困難は分割せよ(Divide each difficulty into as many parts as is feasible and neccessary to resolve it.)」である。

    P.369
    多部局間の議論が急に進み出したことは、官僚組織の構造、力学を考えるうえで誠に興味深いものがある。強固な縦割り組織を、多部局間で束ねて動かすためには、中立的な立場の「せり人」、もっと一般的な言葉で言えば、ミドルマン(仲介者)の存在が、どうやら不可欠のようである。ミドルマンのところに各部局の意見や情報を集め、それをミドルマンがまとめて「相場」の形で発表すれば、各部局とも他の部局に知られたくない本音を隠すことができる。また、ミドルマンが各部局の意見を調整したうえで、最終的に「調停案」を支持すると、各部局はその案に対する責任からも逃れられる(ミドルマンがつくった案なのでミドルマンの責任)。
    さらに、各部局から信頼を得たミドルマンが各部局の間に立ってバランスを保つことにより、どこかの部局だけに過度な責任や仕事が押し付けられる心配もなくなる。これらの保証があるから、多部局間の調整が進むのである。
    ただ、ミドルマンとしては、単なる外部有識者では駄目であり、守秘義務もあり、最後は市長や知事に直訴して決断を迫れる特別顧問という立場が不可欠のようであった。

    P.431
    正直は最善の戦略。すべてを話して決定を委ねる

    P.449
    日本国内の各地方やもっと小さな地域の改革にとって、最初に認識しなければならない冷徹な現実は、「スーパーマンのようなリーダーは現れない」ということである。われわれはとかく小泉純一郎氏や橋下徹氏のような万能型の強いリーダーが現れることを期待し、いずれ、そのスーパーマンがすべての問題を解決してくれると夢想しがちである。しかし、彼らのような異能のリーダーは、国政においてすら本当に稀有なる存在であり、そんじょそこらに転がっている才能ではない。
    ましてや無数にある地方、地域ごとに、そんなスーパーマンの登場を期待しても、多くの場合、時間の無駄である。それよりも、その辺に転がっている程度の「等身大のリーダー」「量産型リーダー」をみなで担いで、うまく働かせるほうが、よほど見込みがある。

    P.455
    役人たちにできないことの1つは、リスクをとったり、責任をとったりすることである。官僚の無謬性という幻想、失敗の許されない終身雇用、年功序列社会に生きる役人たちの宿命である。とくに組織の上にいけばいくほど(幹部ほど)、失う物が多すぎて、逆にリスクがとれない。
    また、所属する組織の倫理に固く縛られているので、組織と組織の間に立って自由な立場で動き回ることもむずかしい。そこで、組織間をつなぐミドルマンとなり、リスクと責任を肩代わりすれば、それだけで意外なほど役人たちはスムーズに動くことができるのである。
    また、失敗が許されない役人たちのかわりに、地域の人々の避難を一身に浴びたり、役人たちのかわりに謝罪をしたり、まちの人々に対してわかりやすい説明をして、説得してみせることも重要である。役人たちはリスクをヘッジするために複雑怪奇な物言いになりやすいが、私のように自由な立場なら、平易な言葉で本音を話すことができる。何も特別なことをしなくても、格段にわかりやすく、まちの人々に受け入れられやすい。
    そして下からの積み上げでは調整不可能なことを、ときどき、トップに直訴して(あまり頻繁にやると役人に「対策」されてしまうので、ときどきがよい)、上からトップダウンで決断してもらうことも効果的である。

  • あいりん地区改革の日々が細かく臨場的に描かれていました。
    テンポがよく、読みやすい一冊です。
    自治体(役所)を動かすにはどうしたらよいか、地域の人を巻き込み街づくりを進めるにはどうしたらよいか、等参考になる内容が多かったです。

    また、各章の最後にミニコラムがついており、経済学のミニ知識(ゲーム理論、外部不経済etc)がわかりやすく説明されているのも良かったです。

    450ページ以上と分厚い本ですが楽しく読み進められました。

  • ☆関係者全員で会議(アゴラ)、トップダウンで役人根性をたたく。

  • 圧倒的な面白さ。
    キーワード:評判、取引費用、ボトムアップの調整、損得の交渉(インセンティブ)

    特に心に残ったのが以下の二つの文章。
    「(中略)政策を立案するときには、こうしためぐりめぐる効果をすべて考慮し、また、目の前の貧しい人だけに注目するのではなく、ほかの人々とのバランスを考え、なるべく多くの国民が納得できる施策にすべきである。」p.174 第9章 橋下市長の知られざる実像

    「地域に一種の権限移譲を行い、当事者意識と一定の自己責任をもってもらうという方針に対して、役人たちのなかには懐疑的、あるいは反対するものが少なくなかった。西成区役所のある幹部は「そんなことはできるわけないし、当事者として責任をもたせると、地域の人々がかえって気の毒である。施策が失敗した際にその人たちが地域のなかで追い詰められてしまう。だからこそ、われわれが地域にかわって当事者となり、責任者となっているのである」というのであった。たしかに、それも一面の真実であるだろう。しかし、これまで役人たちが地域の人々の意向を正しく反映する「代理人(エージェント)」として機能してこなかったからこそ、、「依頼者(プリンシパル)」本人が登場せざるをえなくなったのである。こうした行政のこれまでの失策を完全に棚上げしているところに、この「役人代理論」の大きな問題がある。また、「区民は何も知らない方が幸せ」「寝た子は起こすな」「無知な区民に代わってエリートたる役人が政策を担う」という一種の愚民思想が感じられる。これは、霞が関の官僚たちとも共通する悪弊である。これからの役人はもっと地域の人々を信じるべきだ。」p.376 (17章 府市合わせの現場 注1)

  • 問題解決、実行力、やり遂げるための教科書としてとてもよいと思います。

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著者プロフィール

1991年生まれ。現在、東京大学大学院人文社会系研究科助教。専門は美学。主な論文に、「ランシエールの政治的テクスト読解の諸相──フロベール論に基づいて」(『表象』第15号、2021年)、「ランシエール美学におけるマラルメの地位変化──『マラルメ』から『アイステーシス』まで 」(『美学』第256号、2020年)。他に、「おしゃべりな小三治──柳家の美学について 」(『ユリイカ』2022年1月号、特集:柳家小三治)など。訳書に、ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『受肉した絵画』(水声社、2021年、共訳)など。

「2024年 『声なきものの声を聴く』 で使われていた紹介文から引用しています。」

鈴木亘の作品

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