ストーリーとしての競争戦略 ―優れた戦略の条件 (Hitotsubashi Business Review Books)

著者 :
  • 東洋経済新報社
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  • Amazon.co.jp ・本 (544ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784492532706

感想・レビュー・書評

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  • 凄いボリューム。
    物事を伝える際もストーリーが大事、飲み会のネタもストーリーが大事。企業経営も、やはりストーリーが大事。

  • マブチモーター、デル、サウスウエスト航空、アマゾン、アスクル、スタバを例として話が展開される。何度も読みたい戦略本。


    骨法10ヶ条
    1. エンディングから考える
    2. 「普通の人々」の本性を直視する
    3. 悲観主義で論理を詰める
    4. 物事が起こる順序にこだわる
    5. 過去から未来を想像する
    6. 失敗を避けようとしない
    7. 「賢者の盲点」をつく
    8. 競合他社に対してオープンに構える
    9. 抽象化で本質をつかむ
    10. 思わず人に話したくなる話をする

  • 事業戦略や競争優位性の継続として、ストーリーになっている戦略を立てることの重要性を事例を多く交えて解説してくれる本。部分の不合理やOCなどの考え方は参考になるが、大きな企業の戦略立案に関わる人以外には活用方法は少ないか。投資で企業を分析するときにこのストーリーに沿っているかチェックするのはいいかも。

  • 面白かった。最終章の骨法10か条にポイントはまとまっている。ただ、ベストプラクティスや流行ってるメソッド的な事を知ること、学ぶことは重要だが、その先に自分が置かれてる業界、顧客、社内を考えないと上手くいかない。また、そのストーリーの筋がいい、面白いと1番感じて貰うのは同じ会社のスタッフなんだと思う。お客様さんはそのストーリーラインを人間の本能的な部分でなぞってしまうだけ、その仕組みを具現化するための同僚や協力者におもしろいと思われなければ実現しないんだとつくづく思いました。

  • 「ストーリー」(narative story)という視点から、競争戦略と競争優位、その背後にある論理と思考様式、そうしたことごとの本質をじっくりお話ししてみようというのが、この本に込めた私の意図です。この本のメッセージを一言でいえば、優れた戦略とは思わず人に話したくなるような面白いストーリーだ、ということです。
     ここで問題にしているのは、戦略の「当たり外れ」ではなく、あくまでも「優劣」です。「優れた戦略」が現実に成功するかどうかはわかりません。戦略として優れていても、失敗することは少なからずあります。顧客と競争相手という、直接的にはコントロールの効かない相手がいる話ですし、未来のことはどっちにしても不確実です。しかし、それでも「優れた戦略」を持つことには意味があります。
     戦略の「当たり外れ」と「優劣」を掛け合わせると、以下の四通りの組合せが考えられます。
     A 戦略が優れていて、結果においても成功した
     B 戦略は優れていたけれども、結果的には失敗した
     C 戦略は優れていなかったけれども、結果的には成功した
     D 戦略が優れておらず、結果においても失敗した
    「当たり外れ」で見れば、AとCが成功で、BとDが失敗です。大前提として確認しておきたいのですが、現実のビジネスでは、成功よりも失敗の方が間違いなく多い。野球でいえば名打者でも打率三割です。どんなに優れた打者でも、打率四割は奇跡の部類に属します。ビジネスでも同じようなものではないでしょうか。つまり、優れた戦略であったとしても、結果から見れば七割方はBで、Aに該当するのはせいぜい三割といったところです。いくら戦略が優れていても、いきなり八割とか九割の打率は実現できません。ビジネスが直面している競争と不確実性を考えれば、それはどだい無理な話です。
     その一方で、二軍のベンチを温めているようなバッターでも、一軍の試合にずっと出ていれば一割五部くらいの打率を残せるのではないでしょうか。運とタイミングが良ければ、フォームは崩れていても、思い切りバットを振っただけでクリーンヒットになることもたまにはあります。この「一割五分」や「出会い頭の一発」が右の部類のCに相当します。放っておいたら二割以下にとどまる打率を、少なくとも三割、できたら三割五分に持っていく。これが戦略に与えられた仕事です。
     ですから、「当たり外れ」という結果でいえば、戦略の優劣は、一割五分とか二割のごく小さな違いを問題にしているのです。本編で詳しくお話ししますが、そもそも利益ポテンシャルが大きい魅力的な業界に身を置いていれば、ユルユルの戦略であっても、三割以上の打率を残せるかもしれません。戦略が優れていても打率四割は期待できないのですから、こうした外的状況に恵まれている企業にとっては、戦略の優劣など大きなお世話ということになります。
     しかし、そのような恵まれた業界にいる企業は例外的です。多くの業界では、戦略がなければ、三割の打率は期待できません。打率三割五分の大打者と一割五分の二軍選手では、チームにとっては天と地ほどの差があります。「当たり外れ」は別にしても、優れた戦略を持つ意味があるのです。意味があるどころか、会社の生命線といっても過言で張りません。

     意志表明としてのストーリーが組織の人々に共有されていることは、戦略の実行にとって決定的に重要な意味を持っています。なぜならば、ビジネスは総力戦だからです。武術研究家の甲野義紀さんは、優れた武術家の強さの正体は何かと問われて、「一対一で向き合っていても、実際は一対一の勝負ではなく、身体の荒湯つ部分を動員することによって一対一〇〇の勝負に持ち込むこと」と答えています。
     これは「多勢に無勢は敵わない」という、ある面、すごく単純な原理なんです。身体が大きくて力があるように見える人が部分を使って出す力を仮に七〇として、私の身体中の部分部分を全員協力態勢にして出す力が一〇〇なら、その相手には負けないということです。…(中略)…ウエイトトレーニングでは、重いものを持って「うー、重い、重い」と負荷をかけることで部分部分の筋肉を太らせるわけです。しかし、部分を強調すると、それぞれの部分はそれで強くなったとしても、「俺が、俺が」と言い始める。そして、その「俺が、俺が」という部分がたくさんできると、それらは協力しにくいんです。それぞれが勝手に自己主張をするから全体としての相互互助システムにならない。
     これは、要素の強みではなく、要素が繋がって生まれる流れで勝負するという、まさにストーリーの発想です。ストーリーの共有は勝負を総力戦に持ち込むための条件として大切です。ストーリーを全員で共有していれば、自分の一挙手一投足が戦略の成否にどのように関わっているか、一人ひとりが理解したうえで日々の仕事に取り組めます。戦略がどこか上のほうで漂っている「お題目」でなく、「自分の問題」になります。自分が確かにストーリーの登場人物の一人であることがわかれば、その気になります。こうしてビジネスは総力戦になるのです。複数の会社で企業再建に成功した三枝匡さんはご自身の経験に基づいて次のように発言しています。

     鮮明な戦略ストーリーを描いてそれに現場の社員を巻き込むと、画期的な組織化性効果が生まれることがあるという手法に、私が経営現場で開眼したのは三〇代前半の経験です。…(中略)…私の場合、どこの会社に行ってもとにかく大切な第一ステップは、皆にわかってもらえる戦略ストーリーを組み立てることなんです。…(中略)…うまくいくときは、戦略を打ち出すと、見ていてみんなの表情がスッとまとまった感じがするわけです。部屋の空気が変わるんです。その感覚ですね。夜中まで仕事しようが徹夜しようが全然構わないみたいな状態になる。そういう変化の感覚は、リーダーの醍醐味みたいなものですね。

     戦略の実行にとって大切なのは、数字よりも筋の良いストーリーです。過去を問題にしている場合であれば、数字には厳然たる事実としての迫力があります。しかし、未来のこととなると、数字はある前提を置いたうえでの予測にすぎません。戦略は常に未来にかかわっています。だから、戦略には数字よりも筋が求められるのです。
     これまであまり強調されることはありませんでしたが、ストーリーという戦略の本質を考えると、筋の良いストーリーをつくり、それを組織に浸透させ、戦略の実行にかかわる人々を鼓舞させる力は、リーダーシップの最重要な条件としてもっと注目されてしかるべきだというのが私の意見です。インセンティブ・システムなどさまざまな制度や施策も必要でしょうが、そんな細部に入り込む前に、人々を興奮させるようなストーリーを語り、見せてあげることが、戦略の実効性にとって何よりも大切だというのが私の見解です。

     しょせんビジネスなのです。戦争でもあるまいし、戦略は「嫌々考える」ものではありません。まずは自分で心底面白いと思える。思わず周囲の人々に話したくなる。戦略とは本来そういうものであるべきです。自分で面白いと思っていないのであれば、自分以外のさまざまな人々がかかわる組織で実現できるわけがありません。ましてや会社の外にいる顧客が喜ぶわけがありません。
     面白いことでなければ、人はなかなか努力を投入できません。ついつい先送りになります。無理やり取り組もうとしても、面白くなければ長続きしませんし、結局のところ、大した成果も期待できません。逆にいえば、面白いと思えることであれば、自然体で向き合えますし、取組みも長続きします。
     戦略思考を習得するにはどうすればよいのか、ということをしばしば質問されるのですが、そういう人に限って、日常の思考の自然な延長には出てこない、しかつめらしい思考様式が戦略だと思い込んでいるものです。戦略ストーリーは文字どおり「お話」です。お話を聞いたり、読んだり、話したり、つくったりすることの面白さは、人間にとって本源的なものです。お話の面白さ、楽しさであれば子どもでもわかります。放っておいてもお話を聞きたがりますし、話したくなるものです。
     優れた戦略思考を身につけるために最も大切なこと、それは戦略を作るという仕事を面白いと思えるかどうかです。戦略づくりを面白いと思えれば、その時点で問題の半分は解決したも同然です。まずは面白さを知る。結局のところ、それが戦略思考を習得するための、最も効果的で効率的なアプローチだと思います。ストーリーという視点は、戦略を作るという仕事が本来的に持っている面白さを取り戻そうとするものなのです。

     企業が目指すべきゴールとは、「本当のところ」何なのでしょうか。勝ち負けを判定する基準として大切そうなものをとりあえず七つばかり並べてみました。
    ①利益
    ②シェア
    ③成長
    ④顧客満足
    ⑤従業員満足
    ⑥社会貢献
    ⑦株価(企業価値)
     皆さんはこのうちのどれが最も大切だと思いますか。人によっては「すべて大切だ」と答えるかもしれません。ここで挙げた7つはいずれも何らかの意味での「成功」の基準ですから、すべて大切だといってしまえばその通りなのですが、あえて優先順位をつけるとすれば、一番大切なのはどれか、という質問です。
     競争戦略の考え方では、答えは①の「利益」です。もう少し詳しくいうと「長期にわたって持続可能な利益」です。競争戦略ではSSP(Sustainable Superior Profit;持続可能な利益)といったりします。長期とは具体的に何年くらいかと聞かれると困ってしまうのですが、少なくとも四半期の単位の瞬間風速的な利益ではなく、五年、一〇年と持続可能な利益を追求するというのが真っ当なゴールの置きどころです。
     当たり前といえば当たり前なのですが、大切なのはその論理です。それはいたってシンプルな話です。利益が持続的に生み出されていれば、他の大切なことはだいたいなんとかなる、もしくは利益を追求する過程ですでになんとかなっている。だから企業は利益の最大化をゴールとして狙うべきだ。こういう論理です。
     ですから、「利益の最大化が企業の究極のゴールだ」というのは、何も「ゼニ儲けがすべてだ!」という話ではありません。企業の利益としてのゼニ儲け以外にも、従業員や顧客、株主、社会全てのステークホルダーに対して企業は貢献しなくてはなりません。逆説的に聞こえるかもしれませんが、だからこそ持続的な利益が何よりも大切なのです。

     競争戦略は個々の企業の間にある差異にこだわります。経済学が想定する完全競争になってしまえば利益は出ない。だとすれば、利益を出すためには、経済学でいう完全競争の前提を壊せばいいわけです。それは「みんな同じ」という前提です。完全競争の世界では、個々のプレイヤーには「顔」がありません。しかし、プレイヤーの間に違いがあれば、完全競争にならないので、利益を生み出すチャンスが拓けます。これが競争戦略のいちばん根本にある考え方です。
    「競争が激しくて儲からない」という嘆きは、古今東西いつでも世の中に渦巻いているわけですが、それがむしろ自然な成り行きです。本書をお読みの方々の中には赤字に苦しんでいる方もいるでしょう。理屈からいえば、恥じる必要はありません。ぜひ堂々と「儲からないよ!」と主張してください。(完全な)競争状態というものは、そもそも儲からないようにできているのです。競争がある中で、どうやって儲けるのか。これは、はなからやっかいな問題なのです。競争があるにもかかわらず儲かるという「不自然な状態」をなんとかつくりあげて維持しましょうというのが競争戦略に突きつけられた課題です。
     どんなにきちんと目標を定め、隊列を整え、環境を分析し、気合を入れたところで、競合他社との違いがなければ、すぐに競争の荒波に飲み込まれてしまいます。言い換えれば、競争とは企業間の「違い」をなくす方向に働く圧力だといえます。競争がある状況では、放っておけば「違い」はどんどんなくなっていきます。「違い」がなくなってしまえば、あとに残るのは(コスト優位の裏付けのない)単純な価格競争です。こうなってしまえば、利益は出ないのが理屈です。
     幸いなことにファイブスター業界に住んでいて、自然体で経営していれば利益は出ます。しかし、美味しい業界はそうそうありません。あらゆる業界は少なくとも潜在的には必ず何らかの圧力に直面しています。「天国に行くための最良の方法は、地獄に行く道を熟知することである」というのは天才的な政治学者マキャベッリの言葉です。もし自社の業界があまり星のつかない業界であったら、「その業界の中で」競合他社に対して「違い」を構築する必要があります。
    (中略)
     すでにお話ししたように「違いをつくる」ということが競争戦略の本質なのですが、そこから先は「違いの中身」や「違いのつくり方」について、二つの異なるパラダイム(基本的なものの見方)があります。茶道の世界に表千家と裏千家があるように、競争戦略にも二つの違った「流派」があるのです。「表千家」と「裏千家」とでは、ここで見た二種類の違いのどちらを重視するかが違ってきます。
     結論を先取りすれば、この二種類のうち、「種類の違い」を重視するのが表千家で、こうした考え方を「ポジショニング」といいます。一方の裏千家は、どちらかというと「程度の違い」に競争優位の源泉を求める考え方で、ここでカギとなるのが「組織能力」という概念です。詳しくはこれからお話ししていきますが、ここで押さえておきたいポイントは、この二つの基本的な戦略観では意図する違いのタイプが異なる、ということです。

     液晶モニターの視野角度が広い、プレインストールしてあるソフトの種類が多い、バッテリーの持続時間が長い、耐久性が高い、といった一連の違いは、ポジショニングという考え方からすれば、戦略ではありません。なぜならば、そうした違いは、身長や年齢や体重と同じように、いずれも程度の違いに過ぎないからです。SPの戦略論は、程度問題としての違いをOE(Operational Effectiveness)と呼び、SPとは明確に区別して考えています。戦略はSPの選択にかかっており、OEの追求は戦略ではない、というのがポジショニングの考え方です。つまり、戦略とはdoing different thingsであり、doing things betterではないという発想です。
     なぜポジショニングの戦略論はSPの違いを重視するのでしょうか。少なくとも三つの理由があります。第一に、OEは賞味期限が短いということです。薄くて軽いバッテリーが長持ちするPCは確かにベターであります。競合他社もより薄く軽く長持ちするように自然と頑張るでしょう。この意味で程度問題としての違いをめぐる競争は、PC業界の業界最小最軽量競争のように「いたちごっこ」になりやすく、はっきりとした違いをつくれずに消耗するだけで終わってしまう危険性があります。
     第二に、SPがはっきりしていないと、企業はすべての要素をベターにしようと努力の方向性を拡散してしまい、その結果、報われないことにお金を使ってしまうという問題です。「視野角度が他社よりも広い」ということそれ自体は、決して悪いことではありません。しかし視野角度を一度広げるには、それなりの開発コストがかかっているはずです。バッテリーの持続時間を一分増やす、インストールしてあるソフトを一本増やす、一ミリ薄くする、こうしたことはいずれもコストを伴っています。そのコストが果たして報われるかどうか、それはSPに立ち戻ってみないとわからないのです。
     うちのPCは視野角度が広い! とおっしゃっていた
    A社の方に私は質問しました。「なるほど、確かに横からでもはっきりと見えますね。でも、ちょっとおうかがいしますが、実際に画面を横から見て、『きれいに見えてイイね”』と喜んで仕事をしているユーザーはいるのでしょうか」。その方は嫌な顔をしていましたが、SPの戦略論が問題にしているのはまさにそのことなのです。
     仮にその会社が「わが社のPC事業は、何らかの都合でモニター画面を横から見てキーボードをたたかなくてはいけない状況にいるユーザーだけを相手にする。それ以外のユーザーは相手にしない」と考えていたらどうでしょうか。これは競合他社とはっきりと違うSPです。現実問題としては、こんなポジショニングでは超ニッチになってしまい(そもそもそんなセグメントは存在しないでしょう)、商売にはならないのですが、仮にそうしたSPを意図的に追求していたとしたら、視野角度が水平方向に一五度広いというOEは、それこそ「勝負あった!」というほど効き目のある武器になるでしょう。しかし、はっきりとしたSPなしに漫然と視野角度を広げたところで、本当に顧客の購買行動を左右するような違いになるとは限りません。企業としては差別化しているつもりでも、ほとんどの顧客は気にも留めないというのが実態でしょう。これでは視野角度を広げるために投入した開発能力は報われません。
     このことと関連して第三に、あるOEの物差しの上で右に行くのがベターなのか、それとも左に行く方がベターなのか、SPがはっきりしていなければそもそもこのこと自体がわからないという問題があります。PCの例で考えても「サービス対応がきめ細かい」とか「製品のライナップが充実している」といったOEが本当にベターかどうかは、ポジショニングとの兼ね合いでしか決まりません。第二の理由として指摘した「ベターにするためのコスト」を考えあわせると、「充実している」製品ラインは、もしかしたらより悪いことなのかもしれないのです。
     SPの視点に立てば、先のエピソードに出てきたさまざまな「違い」のアピールは、OEを列挙しているだけであって、実際は効果的な戦略になっていないということがわかると思います。明確なSPの違いが「なかった」ことが、多くの日本の総合エレクトロニクスメーカーのPC事業の業績悪化の背景にあったといえるでしょう。そもそも「総合」という言葉自体がSPの欠如を露呈しているということになります。

     SPの戦略の中身は、何をやって何をやらないかという意思決定です。すでにお話ししたように、この考え方に立てば、OE(他社よりもベター)は戦略にはなりえません。「何をやるか」よりも、「何をやらないか」のほうに戦略的な意思決定の本質があります。なぜかというと、「ないをやらないか」の選択がトレードオフをつくるからです。トレードオフをつくれば、「あちらを立てればこちらが立たぬ」になるので、他社に対する違いを持続することができます。
     これに対して、OCはむしろSPの持続性に懐疑的な立場を取ります。いくらトレードオフをつくっても、そのSPが成功したら、他社もなんとかして同じ活動を選択してくるのではないか、という懸念です。OCは違いとして、前に使った言葉で言えば、OEを重視しているといえます。SPかOEかという分類ではOEであっても、そのOEが他社に真似できないものであればそれはOCであり、利益の源泉となりうる、という考え方です。時間をかけてでも、容易には真似できないルーティーンを構築していくことが戦略の焦点となります。
     このようにSPとOCを対比していくと、それぞれの考え方の根底にある基本思想の違いが浮かび上がってきます。SPの戦略の本質を一言でいえば、「いかに競争圧力を回避するか」という思想です。放っておくと構想圧力をもろにかぶってしまいます。だからこそ独自の位置どりが必要になります。うまい位置取りをすれば、正面からの殴り合いをせずに済みます。この意味で、SPの戦略論は「競争の戦略」というよりは「無競争の戦略」なのです。
     OCは競争を回避するのではなく、むしろ「男には戦わなければいけないときがある」(女もそうですが)という構えで、競争圧力を受け入れ、それに対抗しようとする戦略です。殴り合いはしょせん避けられない、だから受けてたとう、その分他社が真似できないような強力なパンチに磨きをかけていこう、という話です。より「競争的」な競争戦略といってもよいでしょう。

     これは大雑把な傾向としての話ではありますが、欧米企業がSPの戦略を志向するのに対して、マツダがそうであったように、日本企業はOCの戦略に偏る傾向があるといえそうです。自動車業界のフォード対マツダ、ファッション業界のギャップたいワールド、小売業界のカルフール対イトーヨーカ堂、IT業界のHP対日立、コンシューマー・エレクトロニクス業界のフィリップス対ソニー、こうしたペアで考えると、多くの業界で日本企業にはOCバイアスがかかっているようです。
     オランダのエレクトロニクスの名門企業であるフィリップスには、ITバブル崩壊のあおりを受けて、二〇〇二年には存亡の危機に直面していました。しかし、四年足らずで一〇%近い利益率へ業績を回復しました。このV字回復はCEOのジェラルド・クライスターリーさんの明確なSPの戦略によるものでした。規模でいえば、フィリップスの本業はAV事業でした。ソニーと共同で規格を開発したCDやDVDはもちろん、テレビでも世界トップクラスのシェアを持っています。ところが、クライスターリーさんのフィリップスは二〇〇二年にAV事業の世界九ヶ所の工場をアメリカのEMS(電子機器の受託製造サービス)企業のジェイビルサーキットに売却し、AVの生産を自社の活動から外すことにしました。
     AV製品で使われる半導体のデバイスについても、「持たない経営」へと急速にシフトしました。半導体部門を独立させてフィリップス自身は少数株主になりました。テレビに使うパネルでも、小型液晶パネルからは撤退しました。韓国のLG電子との大型液晶パネルのジョイントベンチャー、LGフィリップスの株式持分も四〇%から三〇パーセントに減らしています。半導体事業の業績は決して悪くなかったのですが、収益の変動が激しく、設備や研究開発への投資がかさむことから、自分で事業を所有するのではなく、良い半導体があれば外部から買えばいい、という戦略へ転換しました。
    「消費者は薄型テレビを欲しがるのであって、技術が自前であるかどうかは気にしない。商品のデザイン、ブランド、販売力が優れていれば勝負できる」というのが、クライスターリーさんのレシピの根底にある考え方です。営業やマーケティングでは、ウォルマートやベストバイ、カルフールといったメインストリームの小売業者に集中しました。また、他社に先駆けて、成長率が高い発展途上国の市場に重点を置いたマーケティングを展開しました。
     フィリップスの業績回復はSPの論理を徹底的に追求することによって実現したといえるでしょう。これに対して、ソニーや日立、シャープといった日本の大手AV企業のSPはあまり明確とはいえません。ただし、これは優劣の問題では必ずしもなく、「違いのつくり方の違い」であrことに注意が必要です。デバイスの技術開発や生産を「やらないこと」に決め、対象を絞ったマーケティングと大手の営業に集中するというフィリップスのレシピは、確かにSPのメリハリは利いているのですが、変化していく競争環境の中で、持続的に利益をもたらすかどうかはわかりません。ある意味では「小手先」のマーケティングだけで、長期的にブランド力を維持できるかどうか、「持たない経営」はリスクも抱えています。ここで言いたいことは、フィリップスと日本企業との対比に典型的に表れているように、欧米企業がSPを志向しているのに対して、日本企業はOCへと傾斜しがちであるということです。

     マブチとサウスウエストにはいくつかの共通点があります。第一に、先にお話ししたように、いずれも秀逸でユニークな戦略ストーリーで成功した企業です。第二に、しかし、ここで見たようにいずれも初期の段階から完成されたストーリーを持っていたわけではありませんでした。第三に、戦略ストーリーを作る大きなきっかけとなった打ち手に、フリーハンドでの合理的な選択の結果というよりも、当時の状況からして「仕方がなかった」「そうせざるをえなかった」という面がありました。「災い転じて福となす」とか「怪我の功名」といってもよいでしょう。最初から完璧なストーリーの全体像を準備万端整えて、それを忠実に実行した結果成功したのではないということは明らかです。私の話を聞いた多くの経営者が、「最初からストーリーがあったわけではない……」と疑念を呈するゆえんです。
     この種の疑念位対する私の答えは、「半分は正しいけれども、半分は間違っている」というものです。最初からストーリーの全体が細部まで出来上がっていたかというと、確かにそんなものはない。しかし、そうだとしても優れた経営者はごく初期の段階からストーリーの原型を作っている。私して、個別の打ち手がストーリーにフィットするのか、ストーリーの文脈でどのような意味を持つのかを突き詰めて、新しい打ち手を繰り出したり、これまでの打ち手を修正している。つまり、初めから完成されたストーリーがあったわけではないけれども、個別の構成要素をバラバラに扱わずに、ストーリーとして仕立てていこうという意識と意図が戦略構築のプロセスに一貫して流れています。ストーリーそのものはなくても、戦略の「ストーリー化」という思考様式は初めからあった、というわけです。

     コンセプトとは、その製品(サービス)の「本質的な顧客価値の定義」を意味しています。本質的な顧客価値を定義するとは、「『本当のところ』誰に何を売っているのか」という問いに答えることです。今日そうゆいはこちらが儲けるための内側の理屈です。顧客価値という外側の理屈が成り立たなければ、シュートは打てません。競争優位とコンセプトのツートップはあくまでセットで考える必要があります。
     ストーリーの起承転結の「起」に当たるのがコンセプトです。紙芝居でいえば、「はじまり、はじまり……」のところで出てくるタイトルに相当します。「結」が最終的に構築される競争優位ということになります。筋の良い戦略ストーリーを構築するためには、その基点として本質的な顧客価値を独自の視点で抉り出すようなコンセプトが不可欠です。コンセプトが本質的な価値を捉えていなければ、話は始まりません。「起」がきちんとしていなければ、「承転結」にどんな工夫を凝らしても、筋の良い話にはなりません。

     競争優位のシュートの決定に比べて、コンセプトの定義ははるかにむず痒い問題です。なぜならば、それは「見たまま」ではないからです。誰に何を売っているのか、見たままであれば、答えは自明です。しかし、「『本当のところ』、何を売っているのか」というのがポイントです。PCの会社は見たままでいえばPCを売っているわけですが、本当のところ、売っているものはPCではありません。お客さんにしても、本当のところをいえば、PCそのものを欲しいという人はほとんどいないのです。まぁ、マニアは別です。「この手触りがたまらないんだよね……」と言いながら、PCを抱いて寝る人はいるかもしれません。
     そういう特殊な人は別にして、本当のところ顧客が何に金を払っているかというと、PCを使うことによって得られる何かなのです。「本当に売っているもの」を考えれば、同じPCメーカーであっても、デルとHPではコンセプトは異なります。アップルはもっと違うでしょう。「何を売っているかって? 見ればわかるでしょ、PCだよ……」という見たままの答えであれば、その時点で面白いストーリーはつくりようがありません。ひたすら「PC」のコストパフォーマンスの改善に向けた消耗戦を続けることになります。
     コンセプトは顧客に対する提供の本質を一言で凝縮的に表現した言葉です。それを耳にすると、われわれは『本当のところ』誰に何を売っているのか、どのような顧客がなぜどういうふうに喜ぶのか、要するにわれわれは何のために事業をしようとしているのか、こうしたイメージが鮮明に浮かび上がってくる言葉でなくてはなりません。リコーの「IPS]や「画像処理のデジタル化」は、まさにそのような言葉でした。「コピー機」を売ろうとしていたわけではありませんでした。「見たまま」の商品やサービスという切り口ではコンセプトの定義にはなりません。
     このことは、前章でお話ししたベネッセの通信教育事業にも当てはまります。「コミュニティを大切にした継続型ビジネス」というベネッセの発想は、人を軸に戦略ストーリーを組み立てるということを意味しています。継続性を突き詰めると、「モノ」や「機能」を軸にしたビジネスの組み立てから、「人」を軸にしたストーリーへと転換することは必然でした。一九九〇年代のベネッセの事業は、書籍出版などの単品の切り売りから、継続性を基盤とした事業へと傾斜を深めました。
     そのきっかけとなったのが通信教育事業の方向転換です。ベネッセの通信教育事業は、前身の福武書店の時代の収益源だった「進研模試」の延長に生まれたものです。当初の進研ゼミの顧客価値は「教材」といったモノや「添削指導」という機能で定義されていました。ところが進研ゼミの立ち上がりは失敗続きで、計画通りに会員数は伸びませんでした。
     それが大きく飛躍することになるのは、会員とその家族を含めた顧客との双方向コミュニケーションの重要性を認識したときでした。赤ペン先生の添削指導も会員とのコミュニケーションを志向したものに徐々に変わり、会員向けの教材だけではなく、『中学生のお母さん』といった雑誌も届けられるようになりました。つまりモノや答え合わせの機能を売るのではなく、添削を会員や家族とのコミュニケーションを促進するツールとして定義したわけです。
    <中略>
     一九九〇年に一号店をオープンしたブックオフコーポレーションは、当初は「中古本のコンビニエンスストア」をコンセプトとして、チュコ書店チェーンを全国展開し、急速に成長しました。ブックオフは初期の段階から、中古ビジネスにおける成功のカギは、商品を買ってもらうことよりも売りに来てもらうことだと認識していました。そこでブックオフはテレビなどのマスメディアを利用し、覚えやすいメロディーとともに「本を売るならブックオフ」のメッセージを繰り返し流しました。
     買取を強化するために、ブックオフは三つの手を打ちました。第一に、顧客が最寄りのブックオフに本を持ち込みやすくするために、平均的な店舗では少なくとも二〇台分の駐車スペースを用意しました。第二に、顧客は自宅まで中古本を撮りにくるように依頼することもできました。第三に、送料無料でブックオフに本を贈ることができる「宅配本」サービスも提供しました。
     その後、ブックオフはこのような買取を重視する考え方をさらに推し進め、コンセプトの軸足をはっきりと販売よりも買取に移し、「捨てない人のブックオフ」という言葉をミッションとして掲げています。事業コンセプトも「中古本のコンビニエンスストア」から「捨てない人のためのインフラ」へと再定義されました。つまり、中古書店ではなく、買取を含めたリユースのインフラを手供する会社になるという考え方です。
     ブックオフは「誰に」価値を提供しようとしているのでしょうか。中古品を安く便利に買おうとする人ではありません。いらないモノを捨てたくない人、「買って使って捨てる」というライフスタイルを格好悪いと思っている人、生活を切り詰めたり我慢するのではなく「欲しいとき」「いらなくなったときに」賢い選択をすれば生活や心が豊かになるということを知っている人、こうした人々こそが価値提供の対象であると定義されました。事実、ブックオフに本を売りにくる顧客を調査してみると、換金そのものが目的の人よりも、自分が使ったものを捨てたくないという動機の人の方が圧倒的に多いということがわかりました。

     ここでお話ししたいくつかのコンセプトの例は、いずれも「本当のところ誰に何を売るのか」という問いに対する答えを突き詰めて生まれたものです。ベネッセの進研ゼミは「子供を含めた家族のコミュニティ」に「学習を促進するコミュニケーション」を提供しています。ブックオフは「捨てない人」に「リユース生活のインフラ」を提供しようとします。ホットペッパーは「生活圏内の事業者と消費者」に限定して、「生活情報の提供によるマッチング」を提供するものです。このように、優れたコンセプトを構想するためには、常に「誰に」と「何を」の組み合わせを考えることが大切です。「誰に」「何を」を表裏一体で考えることによって「なぜ」が初めて姿を表すからです。
    「なぜ」は、戦略ストーリーにとって一番大切な問いかけです。ストーリーを動かす原動力は因果論理にあります。「誰に」だけ、「何を」だけでは静止画になってしまい、肝心の「なぜ」についての思考が甘くなりがちです。「なぜ」についての因果論理は「動き」の中にしかありません。動画でなければ因果論理を考えることができないのです。「誰に」と「何を」をペアで考えれば、コンセプトが動画になります。顧客がその消費なりサービスを認知し、反応し、職人を決断し、使用し、価値を認め、継続的に使用し、利用経験を蓄積し、さらに満足を大きくしていく、こうした一連の動きが見えてきます。そうした動きのあるイメージを思い浮かべ、実際にそのような動きが生まれるかを突き詰めることによって、なぜその顧客がその商品なりサービスに食いつくのか、なぜお金を払うのか、なぜ喜ぶのか、なぜ喜びが持続するのか、幾つもの「なぜ」が見えてきます。
     コンセプトを動画で構想するというと、多くの人が「どのように」という方法論に傾きがちです。しかし、コンセプトから「誰に」と「何を」が抜け落ちて、「どのように」ばかりが前面に出てくると、コンセプト不全に陥るのが常です。これは戦略ストーリーが失敗作となる典型的な成り行きです。

     本質的な顧客価値を突き詰めるとは、「誰が、なぜ喜ぶのか」をリアルにイメージするということです。それは書き直したメモを片手に買い物に出かけるときの久美子さんの憂鬱や、帰ってきて袋を提げて階段を上る苦労、買い物を久美子さんに頼む周囲の人々の心情、こうしたレベルで顧客の問題をリアルにイメージできるかどうかにかかっています。

     アマゾンはその後「アマゾン・マーケットプレイス」として、中古書籍販売業者などの外部の企業がAmazonのウェブサイトでアマゾンにきた顧客に対して商品を販売するというサービスを始めました。これによって手数料という新しい収入源を手に入れたわけですが、一方でアマゾンは新品の書籍や商品の小売業ですから、本業に対する負の影響が懸念されました。新品の書籍を相対的に安価な中古本と並べて売ってしまえば、価格競争力のない新品の売上が落ち込むだろう。これが社内外の人々に共通した考え方でした。外部の業者による中古書籍の販売を受け入れるにしても、たとえば新刊書と同じページに並べるのではなく、別のページに表示するといた工夫が必要だという意見が根強くありました。
     ところがアマゾンは大型の予想に反して、新品途中k序を完全に並べる形で「アマゾン・マーケットプレイス」の開始に踏み切りました。これにしても意思決定の基盤となったのは、「モノを売るのではなく、人々の購買の意思決定を助けるサービスを提供する」というアマゾンのコンセプトでした。

     それが本当にネットでなければできないことでなければ、やらない」というのがベゾスさんの起業時点での基本方針だったそうです。考えてみれば、本やCDを売ること自体はこれまでの小売がやってきたことですし、品揃えの拡張にしても、「メガストア」がやっていたようにある程度までは従来の店舗でもできることです。しかし、顧客の購買やブラウズのパターンを見て、個別化されたレコメンデーションで購買決断を助けるということは「ネットでなければできないこと」です。顧客ごとにウェブページを丸ごとカスタマイズする、つまり店そのものを顧客の好みに合わせて変えてしまうというアマゾンのやり方は、膨大な投資と長い時間をかけて開発した独自技術の集大成です。現実の店舗ではこうはいきません。お客さんが変わるたびに店中を走り回って棚や商品の位置を変えるわけにはいかないからです。ここにアマゾンが見出したEコマースの可能性がありました。アマゾンの戦略ストーリーの起点には、ユニークな顧客価値を捉えたコンセプトがあったのです。

     八方美人に陥らず、誰かにきちんと嫌われるためには、あからさまに肯定的な形容詞をなるべく使わずにコンセプトを表現することが大切です。顧客価値を定義するというと、どうしても「最高の品質」とか「顧客満足の追求」とか、それy自体で肯定的な意味合いを持つ形容詞を使いたくなります。しかし、そういってしまうと、誰に嫌われるかがはっきりしなくなります。「最高の品質」はそれ自体であからさまに「良いこと」なので、よっぽどのひねくれ者でない限り、誰にとっても好ましいことでしょう。ということは、本当のところ誰が喜ぶかがぼやけてしまうということです。
     しかも、肯定的な形容詞でコンセプトを片づけてしまうと、その途端に思考停止に陥りがちです。結果的に品質が最高になったり、サービスがきめ細かくなったりするのは、もちろん良いことです。しかし、ストーリーを語り起こす起点にいきなり肯定的な形容詞が出てきてしまうと、それに続くストーリーが「よし頑張ろう……」という短い話で終わってしまいます。サウスウエストの「空飛ぶバス」にしてもスターバックスの「第三の場所」にしても、肯定的な形容詞はそこにも見当たりません。だからこそ、面白いストーリーの発火点となったのです。コンセプトはできるだけ価値中立的な言葉で表現するべきです。

     筋の良いコンセプトを構想するために大切なことの三つ目、多分これが最も大切なことだと思うのですが、それは「コンセプトは人間の本性を捉えるものでなくてはならない」ということです。なんとなくよく耳障りの良い「良いこと」を羅列するだけでは、ユニークなコンセプトにはなりません。人間の本性とは、要するに、人はなぜ喜び、楽しみ、面白がり、嫌がり、悲しみ、怒るのか、何を欲し、何を避け、何を必要とし、何を必要としないのか、ということです。

     人間の本性を見つめる。それは「マーケティング調査をして顧客のニーズを知りましょう」という話とはまるで異なります。顧客のことを知悉しなければコンセプトは生まれませんが、だからと言って顧客の声をいくら聞いても、人間の本性を捉えたコンセプトにはなりません。顧客はそもそも「消費すること」「買うこと」にしか責任がないからです。責任のない人に過剰な期待を寄せるのは禁物です。
    「空飛ぶバス」や「第三の場所」といったコンセプトは、顧客の声を聞いた結果として出てきたものではありません。シュルツさんがどんなに体型的に顧客の声を聞いたとしても、「第三の場所をつくってくれ!」というような気の利いたことを言うお客さんはいなかったはずです。「閉店時間をもう少し遅くしてほしい」とか、「こういう新しいメニューを入れてほしい」とか、「カプチーノは好きだけど、ストレートのエスプレッソはちょっときつ過ぎて……」というような「ニーズ」が出てくるのが関の山でしょう。そうした「声」をいくら寄せ集めても、それはコンセプトにはなりえません。
    「スーパーマリオブラザーズ」など、任天堂の数々のゲームソフトのヒット作の開発をリードした宮本茂さんは、ゲームのコンセプトをつくるときにユーザーやユーザーに近いところにいる営業部門からのフィードバックを聞いてはいけないと言っています。
     面白いとはどういうことが、そのゲームはなぜ面白いのか、ここをきちんと詰めたコンセプトがなければゲーム開発は始まらない。その答えは結局われわれの頭の中にしかない。納得のいくコンセプトなり「お題」が決まれば、あとはそれを粛々と形にするだけ。…(中略)…コンセプトを考えるときには、営業部隊やユーザーの答えは聞かない営業はライバルとの競争の前線にいるので、他社のゲームソフトに負けたくないという気持ちが強い。どこかでヒット作が出てきて、それがたまたま長く凝ったムービー(ロールプレイングゲームのオープニングやエンディングなどで使われる映画のような画面)を使っているとなると、「うちももっと長くてすごいムービーをつけるべきだ」という話ばかり出てくる。…(中略)…ユーザーの声も真に受けてはいけない。ユーザーは「もっと高品質で動きにストレスのない画面にしてほしい」というようなことしか求めてこない。あれも必要だ、これも大切だ、ということになって、収取がつかなくなり、結局コンセプトがぼやけてしまう。…(中略)…開発の途中でさまざまなユーザー層から選んだモニターに試作品で遊んでもらうことはあるが、そのときも「このゲームのコンセプトはこういうもので、こういうところが面白くて…」というようにこちらからの説明は絶対にしない。いきなり遊ばせて、その姿を映像にとって、それを何度も見る。どの辺で楽しんでいるのか、つまらなそうにしていないか、途中でゲームを中断してコントローラーを置いてしまうとしたらどの辺か、自分たちが作品に込めた面白さの意図が伝わっているか、ひたすら「姿を見る」ことでコンセプトの効きをチェックする。こうした作業の積み重ねがその次のコンセプトづくりの肥やしになる。
     要するにコンセプトは、自分の頭で深くじっくり考えるしかないのです。どんなに投資をしても、自分の頭を使わなければコンセプトは構想できません。流行の画期的な技術やそのときに華々しく成長してる市場のセグメント、今そこにいる顧客の声、こうした「外侮の事情」に惑わされてはなりません。人間の変わらない本性を見つめるためには、そのような表面的な誘惑や情報の洪水を意識的に遮断することがむしろ大切です。宮本さんは、本社が京都にあることの意味について、「東京のように情報があふれていると、それに振り回されてしまって、かえって面白いゲームのコンセプトが出なくなるような気がする。京都ぐらい中心から離れているところでちょうどよいのではないか」と語っています。
     人間の本性を捉えた骨太のコンセプトをつくるためには、その製品やサービスと本当に必要とするのは誰か、どのように利用し、なぜ喜び、なぜ満足を感じるのか、こうした顧客価値の細部についてのリアリティを突き詰めることが何よりも大切です。繰り返しお話ししてきたように、特に大切なのは「なぜ」についてのリアリティです。Googleで後半の情報を検索し、引っかかった情報をいくら深掘りしたところで、顧客価値についてのリアリティのある「なぜ」を手に入れることはできません。
     およそあらゆる人にとって、一番リアリティのある「なぜ」は自分自身の生活や仕事の中にあるはずです。自分維新ほどリアリティを持って理解できる「顧客」は他にありません。皆さんもご自身でモノやサービスを消費する状況を思い浮かべてください。なぜそれにお金を払うのか、なぜ自分がそれに価値を感じるのか、無理して肩肘張らなくても、改めて振り返ってみればきわめてリアリティに満ちた「なぜ」が自然と思い当たるはずです。消費財でなくても話は同じです。ちょっとした便利さや価値、不便や不満は仕事の中で毎日のように感じたり、発見しているはずです。
     ごく日常の生活や仕事の中で、嬉しかったこと、面白いと思ったこと、不便を感じたこと、頭にきたこと、疑問に思ったこと、そうしたちょっとした引っかかりをやり過ごさず、その背後にある「なぜ」を考えることを習慣にする、回り道のように見えて、これがコンセプトを構想するための最上にして最短の道だというのが私の意見です。どんなに画期的なコンセプトも、発送のはじめの一歩はそうした日々の習慣の積み重ねの中から生まれるものだと私は思っています。

     渋谷のオリジナルな(?)コギャルのスタイルは一朝一夕に出来上がったものではありません。好き嫌いは別にして(私はいかがなものかと思いますが……)、コギャル・ファッションは渋谷のセンター街の若者文化の文脈で、ある程度の時間をかけて練り上げられたものでした。
     その後、渋谷のコギャルのファッションが素敵だ、格好良いという評価が定着すると、それまでコギャル・ファッションとは無縁だった地方都市の女の子も渋谷のコギャルになろうとします。彼女たちは出来上がった「コギャル・ファッション」を模倣します。模倣の対象であるオリジナルのコギャルは、ファッション脳構成要素(ヘアスタイルやメイクや服やアクセサリー)の交互効果(コギャル・ファッションの元カリスマの言う「メリハリ」や「さじ加減」)についての理解を、スタ入りを練り上げていく過程で自然とものにしています。しかs、出来上がったものを事後的に模倣する地方都市のコギャルにはそうした交互効果の妙がわかりません。
     地方都市のコギャルであっても、メデイアは発達していますから、テレビや雑誌やインターネットで渋谷のコギャルのファッションについてのさまざまな情報や知識をふんだんに入手することができます。雑誌を見れば、どう言う髪型でどういうふうにメイクをしたらよいか、化粧品や服やアクセサリーいついては、どのブランドのどの商品かと言うところまで情報はふんだんに持っています。しかも、そうしたファッション・アイテムは市場から調達できるものばかりです。自分たちの町に売っていなくても、ネット通販で買うことができます。かくして地方都市のコギャルは本場のコギャルのファッション・アイテムを個別に「ベスト・プラクティス」として模倣し、導入します。
     彼女たちは個別の要素を模倣することによって、地方都市でコギャル・ファッションの全体を再構築しようとするわけですが、構成ようその背後にある肝腎要の交互効果までを丸ごと手に入れるのは容易ではありません。ファッションが交互効果の点で不全をきたします。
     さまざまなコギャルの武器を手に入れたのに、いまひとつしっくりこない。そこで地方都市のコギャルは、個別の構成要素をさらに強めることによってコギャル化を完遂しようとします。その結果、それぞれの要素を見れば、渋谷のコギャルよりもさらに激しくコギャル化することになります。これが「構成要素の過剰」です。皮肉なことに、構成要素が過剰になると、ますます全体として収まりが悪くなるという悪循環が始まります。

     この章では、戦略ストーリーのキラーパスとなるクリティカル・コアの論理についてお話ししてきました。ストーリーの一貫性の基盤となり、しかも持続的な優位の源泉となるクリティカr・コアは、文字どおり戦略の中核をなすものです。持続的な競争優位を構築するためには、ストーリーにキラーパスを組み込むことが大切になると言うのがこの章のメッセージでした。
     それが「一貫した非合理」であるために、キラーパスを出すにはちょっとした創造性が必要となります。しかし、だからといって、それは天才のひらめきでも、荒唐無稽な発想の飛躍でもありません。そんなに突飛なものであれば、全体合理性に転化するのも困難でしょう。ストーリー全体の文脈に置けば、誰もが論理でその合理性を理解できる、その程度の「飛躍」でなければなりません。
    「ちょっとした創造性」は、その業界で広く共有されている通念や常識を疑うことから生まれます。その先にキラーパスの芽を発見するのはそれほど難しいことではありません。肝心なのは、部分の非合理性を全体の合理性に転化するようなストーリーの構想です。これがストーリーテラーとしての戦略家の一番の腕の見せどころです。そのためには、いつも同じ結論になりますが、論理が何より大切です。キラーパスが全体合理性に転化し、最終的にコンセプトへとつながる因果論理を突き詰めなければなりません。

     どうした「一見して非合理」なことをあえてするという決断に踏み切れるのでしょうか。キラーパスを繰り出すのに勇気が必要だとしたら、その勇気はどこから生まれるのでしょうか。それは自らの戦略ストーリーに対する「論理的な確信」にしかない、というのが私の意見です。戦略ストーリーを構想する経営者は、自らのストーリーに論理的な確信を持てるまで、「なぜ」を突き詰めるべきです。これが第三の教訓です。
     これまでもお話ししてきたように、戦略ストーリーは構成要素の因果論理でできています。因果論理とは、なぜある打ち手が他の打ち手を可能にし、なぜその連鎖の先に長期利益が見込めるのか、「ストーリーの筋」を意味しています。一つひとつの打ち手がしっかりとした因果論理でつながったときに、ストーリーは動き出します。
     こと戦略に関しては、絶対の保証はありえません。その戦略ストーリーがうまくいくかどうか、本当のところはやってみなければわかりません。しかし、論理的な確信を持つことはできます。それは「これだけ情熱を持ってやっているのだから、必ず道は開ける」という情緒的な思い込みではありません。「どうせやてみなければわからないから、一か八かの勝負だ」という冒険でもありません。ストーリーが太く強く長い論理でつながっている、だから長期利益に向かって動いていくはずだ、という論理に基づく確信です。
     自らのストーリーに対する論理的な確信を得るためには、構成要素のつながりの背後にある「なぜ」を突き詰めていくしかありません。何をやるか、いつやるか、どのようにやるか、戦略はさまざまな問いに答えなければんりませんが、何よりも大切なのは「なぜ」です。

     ストーリーの戦略論は二つのフェーズに大別できます。第一のフェーズは「論理化としての読解」です。戦略が文脈に依存した特殊解である以上、この作業は必然的に個別の事例を単位としたものとなります。この連載で取り上げた例でいえば、馬淵モーターやサウスウエスト航空やスターバックスコーヒーやガリバーインターナショナルの戦略ストーリーの読解がそれにあたります。
     個別事例の読解は、「ベストプラクティス戦略論」とは異なり、成功の要因を列挙することが目的ではありません。戦略ストーリーを構成する要素の間にはどのようなつながりがあり、どのような相互作用を起こしたのかを、その事例の文脈で読み取り、論理化することが目的です。
     読解のフェーズは、その戦略の評価を含みます。外ーりーを支えている因果論理を読み取ることによって、その戦略がなぜ成功(もしくは失敗)したのか、(事後的にではありますが)解明するという作業です。
     ここで経営者と経営学者の関係は、小説家とぶん学研厩舎のそれに類似しています。文学研究者は必ずしも小説を書くわけではありませんが、個別具体的なテクストに注目して人間の思考や感じ方を解明し、そのs買う品を評価します。経営学者にしても実際に経営するわけではないのですが、戦略ストーリーの因果論理を読み解き、なぜその戦略が優れていた(もしくは失敗した)のかを評価するわけです。
     ストーリーの戦略論の第二のフェーズは、「原理原則の抽出」です。さまざまな優れた戦略ストーリーの読解を積み重ねていけば、そこに共通の論理を見つけることができるでしょう。その裏返しで、失敗する戦略が陥りやすい落とし穴も浮かび上がってくるでしょう。戦略ストーリーをつくろうという人々にとって有用な基本論理を提示する。ここにストーリーの戦略論のめざすところがあります。

     コンセプトを構想するためには、「誰をどのように喜ばせるのか」をはっきりとイメージしなくてはなりません。そこでは「誰に嫌われるのか」という視点が必要です。「誰からも愛される」というのは「誰からも愛されない」のと同じです。誰かに本当に必要とされるためには、誰かに嫌われなくてはなりません。八方美人は禁物です。
     しかし、だからといって、独自性を追求するあまり、あからさまに「尖った」顧客をターゲットにしてしまうと、筋の良いストーリーはつくれません。どんなコンセプトでも、それが心に響く顧客は世の中のどこかに必ずいるものです。しかし、それがあまりにマニアックであれば、ごく特殊なニッチに押し込められてしまいます。ニッチに特化した無競争をはじめから意図する場合は別にして、あまりにも「独創的」なコンセプトは結局のところビジネスにはなりません。
     コンセプトを固めるときは、あくまでも「普通の人々」を念頭に置き、普通の人々の「本性」を直視することが大切です。普通の人々が誰かに必要とすること、欲しがるものを価値の中心に据えるべきです。「コンセプト・クリエーター」というと、浮世離れした天才肌をイメージしがちですが、その種の人は突飛なコンセプトに飛びつきがちなので、実はコンセプトをつくるという仕事には不向きなのです。普通の人々が、仕事や家庭やプライベートの局面で、何を考え、何を感じ、どのようなことに困り、何を欲しているのか、こうしたことが自然と肌でわかるような人の方がコンセプトづくりに向いているように思います。

  • 個人的に好きな方で、ブックオフで偶然的に発見し即購入。本書は、戦略にはストーリーが大事だという独自の切口で説明している。主には、2点ポイントがあり。1. 時間軸を意識した進め方。2. 人間の本性に受け入れられる事が大事だと言及しており、その事例の一つとして私が買ったブックオフの戦略ストーリーも本書で解説されている。気になる方は、是非ご一読をオススメします。約500ページに渡る超大作であるが、楽しく読む事が出来ました。また、時間を空けて読み返したい。

  • ずっと読んでみたかった名著をようやく読破。
    著者の楠木さんは「好きなようにしてください」でファンになった。

    優れた戦略の原理原則が具体と抽象、そして例えを用いながら解説される。
    スターバックスの成功例は一番分かりやすく面白い!

    【優れた戦略の骨法抜粋】
    コンセプト
    部分非合理と全体合理(賢者の盲点、キラーパス)
    長期持続的利益(ゴールを先に決める)
    面白く長い話であること

    【例え話Top4】
    地方都市のコギャル
    子供のサッカー
    サッカー(戦略と戦術)
    シェフのレシピと厨房の中(SPとOC)

    【面白かったストーリー競争戦略Top3】
    スターバックス(第三の場所)
    サウスウエスト航空(空飛ぶバス)
    Amazon・ガリバーインターナショナル(買取専門)

  • 良いストーリーというのは、打ち手の一つ一つが関連し合い、動きを持って企業の成長を語れるもの。他社のベストプラクティスを全て持ってきて組み合わせても部分最適であるかもしれないが全体最適とはならずに、良い戦略ストーリーとはならない。また良い戦略は一見すると一部に悪い打ち手が入っているように見えるが、これが競合他社には真似すべきでは無い悪手に見えるかもしれないが、実はストーリーを作る上でキーファクターであれば、それは他社に真似をされないので、長期的に競争優位性を保つことが出来る。

    流れる戦略とは聞いていてワクワクするものとのこと。

    実務レベルで戦略を作る際にもこの手の教科書的な論理を理解した上で進めた方がブレが無さそう。

  • サマリー

    ・戦略ストーリーは打ち手の時間的展開に注目している
    ・コンセプトに基づき、クリティカルコアを伴う構成要素が一貫性を伴う因果論理に支えられて競争優位を生むことが戦略ストーリーの5Cである
    ・一貫性というのは、構成要素同士の蓋然性の強さ、要素感のつながりの多さ、拡張性や発展性の高さがあることが非常に重要
    ・コンセプトは「時代や歴史背景に準拠し」、「誰に嫌われるか」、「人間の本性を捉える」ものでなければならない。
    ・キラーパスとは「他のさまざまな構成要素と同時に多くのつながりを持っていること」「一見して非合理に見えること」であり、これらがライバル企業に対して模倣性の獲得を阻害する。
    ・ガリバー・スターバックス・サウスウエスト航空・マブチモーターズなどの著名企業の成長には再現性の高いストーリーが存在する。

  • ロングセラーとなっているストーリーとしての経営戦略。著者自身は競争は好きではなく民間企業で働けないと言いながら競争戦略を研究対象としているところが不思議。
    内容はロングセラーになっているだけあって濃密。ストーリーとはなぜ(why)をちゃんと考えるということの言い換えで、単に二つの構成要素をwhyでつなぐだけではなく、複数の構成要素を縦横にちゃんとつなぐ必要がある。それがストーリーをちゃんとつくるということだとされる。
    本書はSP(戦略的ポジショニング)とOC(組織能力)から話を始め、ストーリーを構成する5Cに沿って事例を交えながら論理展開されている。起=コンセプト、承=コンポーネント、転=クリティカルコア、結=コンペティティブアドバンテージ、一貫性=コンシステンシーが競争戦略のストーリーの5Cということらしい。印象深いのは、優れた競争戦略には部分的には不合理なところがあるけれど、それがストーリーの中では合理的に位置付けられているということ。例えば、スタバは独特の出店戦略を持ち、社員教育・待遇にお金をかけていて、それはある面では非効率的で高コストなのだけれど、それが逆に強みに転じていて競争優位をつくっているというところ。だから他社が表面的にマネしてもスタバのような居心地を作ることができず、撤退することになってしまう。それを渋谷と地方のコギャルに例えて説明するあたり、著者のストリーテラーとしてのセンスも感じさせる。
    シンプルなストーリーなんだけど奥深く、何度も読む価値はあると思わせる名著。

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著者プロフィール

経営学者。一橋ビジネススクール特任教授。専攻は競争戦略。主な著書に『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(東洋経済新報社)、『絶対悲観主義』(講談社)などがある。

「2023年 『すらすら読める新訳 フランクリン自伝』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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