永遠の別れ―悲しみを癒す智恵の書

制作 : エリザベス・キューブラー・ロス 
  • 日本教文社
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  • Amazon.co.jp ・本 (392ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784531081592

作品紹介・あらすじ

"死とその過程"に関する著作、ここに完結-。『死ぬ瞬間』の著者キューブラー・ロス最後の著作!本書は、大切な人を失った時、その深い悲しみを癒す方法が具体的に書かれています。

感想・レビュー・書評

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  • N980

  • ・妻を亡くして半年間は、否認・怒り・際限の無い取引が続いた。やがてそれは、抑うつに変わって行ったが、それでもまだ「もし・・・だったら」という取引の段階は残存していた。それから二年、三年をかけて、受容の段階が片鱗を見せ始めた。
    ・喪失は、筆舌につくしがたい悲しみの体験であり、頭かた追い出そうとしても離れない故人の面影は、喪失体験によるトラウマの現れである事が多いが、実は大概の人がなんらかの面影を背負って生きているものなのだ。亡き人の苦痛にゆがむ顔、みききしたくなかった映像や音が執拗に浮かんできて苦しいという人もいる。故人が初めて病名を告げられた時の顔、息を引き取ったあとの顔が、振り払おうとしても振り払えないのだ。愛する人は逝ってしまったが、その人のビジョンは残っている。面影となって執拗につきまとう。しかし、その面影はけっして無益なものではない。それはこころの内部にひそむビジョンを外面化して、現実にもどっていくための動機づけの役割を果たしている。そのビジョンを誰かに話して、絵に描いてほしい。アートセラピーは内的なビジョンをキャンバスに外面化し、具体化することによって効果をあらわすのだ。どんなビジョンにつきまとわれていようと、それを表現し、外面化する方法をみつけることだ。ことばにして語り、文字にして書くことだ。
    つきまとうビジョンは感情の産物である。多くの人が「・・・さえあれば」と「もし・・・していれば」と言うふたつの悔いの言葉に、たえずつきまとわれている。「もし医師がもっと早く手を打っていれば」「時間さえあれば」などと、埒もなく考えつづけている。しかし、そうした後悔は感情から生じたものであり、喪失を受容するためには経過させていかなければならないもののひとつである。
    愛する人を亡くしたあと、その人のビジョンに執拗につきまとわれる現象はきわめて正常な、ごくふつうの現象だということを知っておく必要がある。そのビジョンはふつう、悲観と言う内的な世界からの重要なメッセージで有ることが多い。恐ろしいビジョンにつきまとわれることもあるが、それもたいがいは危険なものではない、悲観と結びついている無数の感情の感情の中でも、執拗につきまとうビジョンには問題の本質につながる価値のあるヒントがふくまれている。あるときはそれが未解決の問題の所在を知らせ、またあるときは大いなる慰めをもたらすのである。
    喪失体験を誰かに話すことは、こころの傷を癒やすことに役立つ。大災害に遭遇した人のことを考えれば、それは良くわかる。喪失体験はあなた自身の世界において、大地震や大津波以上の最悪の大災害だったのだ。
    あなたは喪失の痛みに耐えながら、理解しがたいことを理解しようとつとめるが、理解は遅々として進まず、なかなか新しい事態に適応することができない。事態の推移があまりにも速すぎて、ついて行けないのだ。こころを傷つけた残酷な事態の場面を繰り返し回想して、頭では物語の事実を追おうとするが、こころの痛みは消えてくれない。そして結局は頭もこころも、ひとつの状態で停滞する。それは記憶から生じつ苦痛である。
    喪失体験を語ることは苦痛を緩和に役立つ。くり返し、細部にいたるまで語ることは、悲嘆を癒やすプロセスにとってもっとも重要なプロセスである。治癒が生じるためには、悩みを打ち明け、だれかと悲しみを共有する必要がある。悲嘆はうちあけたぶんだけ軽くなる。
    喪失体験者を支援するサポートグループが重要なのは、そこで先輩の喪失体験者と出会うことができるからだけではなく、新しい参加者がそこであらためて、体験した破滅的な出来事を堂々と語ることができるからなのだ。物語はかたられるべきである。なぜなら、語ることによって、あなたの喪失の重大さが強調されるかえである。
    あなたは、難問解決のための材料を探す探偵のようなものだ。だれかに物語を語りながら、あなたは解けない謎の領域をおおう分厚い霧を払っている。それはあなたのこころの内部をおおっている霧であり、声高に語ることで内なる霧を払って、秩序を回復することに役立つのだ。そのことが動揺する内的世界の構造に、一時的であれ、しっかりとした足場をつくってくれる。語ることは、その構造の再構築にやくだつのである。
    自分の語る物語の内容が時間とともに変化して行くことに、いずれ気づくときが来る。起こった事実の描写が変化するばかりか、語りての手のもののみかたも変化していく。人に語ることは貴重な情報を得る機会であり、話の聞き手かた、ジグソーパズルの失われた破片や自分では気づかなかったヒントをもらうことが出来るからだ。
    亡き人が自分の死期を悟るべきだったなどと考える人もいるかも知れない。そう考える事で「自分のせいだ」と言う思いを軽減したいのだ。しかし、いくら努力しようがしまいが、われわれはみな、いつかは最後の日を迎えることになる。それもたいがいは思ったよりも早い時期に・毎年、健康診断を欠かさず、すべての項目を検査している人はいくらでもいる。それでも不幸な事態は起こっている。自分は健康だとおもっている人も、ベジタリアンだって死んでいる。われわれは健康や長寿を願い、そのために役立つと思われることをあれこれ実行するが、それを実行すれば死をまぬがれるという幻想を抱いているわけではない。
    の感情に圧倒されたとき、本能的にそれに抵抗しようとする傾向には注意が必要だ。悲嘆苦痛に抵抗しても増加させる結果しか生まれないからだ。苦痛のなかに身を沈め、その苦痛がゆったりしたものに変わるのを感じてほしい。自分を洗い流す苦痛に身をゆだね、心身に力がよみがえってくるのを感じるのだ。
    悲嘆に自分を明け渡したとき、自分が思ってもみなかったほどつよくなっていると気づくことがある。自分を苦しめているの苦痛の中心部には平安があり、意識の対象を外の世界から転じて苦痛の中心部にある平安にむけさえすれば、思ったよりもずっと早く苦痛からぬけ出すことができる。
    仕事も、以前とは違って感じられる。作業のペースが遅くなり、能率があがらないかもしれない。残業もする気がしなくなる。以前とおなじようなペースで仕事をしようとうsる必要はない。なぜなら、あなたは以前のあなたとは違うからだ。自分の手に負えそうもないことに手をだしてはならない。仕事が重荷だと感じたら、ペースを落とし、ゆっくりと時間をかけてすればいい。もし仕事が忙しすぎて心身の休養が必要だと感じたら、むりをせずに休んでいただきたい。
    喪失が現実である以上、悲嘆もまた現実である。それぞれの悲嘆には独自の刻印がありそこには失った人の独自性やかけがえのなさが刻みこまれている。喪失の苦しみはこのうえなく強烈であり、こころがまっぷたつに引き裂かれる。なぜなら、われわれは愛において他者と深く結ばれている存在であり、悲嘆はその結び目が断ち切れることだからだ。われわれは悲嘆を避けようとしたがる。しかし、本当に避けたいのは、じつは喪失によって生じる苦痛である。悲嘆は治癒のプロセスであり、最終的には、そのプロセスが苦しみに慰めをもたらしてくれるのだ。
    「現在の苦しみは過去に味わった幸福の一部である。人生とはそういうものだ」喪失を否定することは愛を否定することだ。ところがわれわれは、愛する人を亡くして深い喪失感に対処しようとするあまり、大急ぎで「否認」の段階に突入していく。例の「まさか」「よりによって、このわたしに?」といった反応は、起こってしまった喪失に対処するための有効な手段なのだ。それは愛する人の死をなんとか理解しようとして、もがき苦しんでいる姿の裏返しである。悲嘆は、死の世界から生の世界に移行するために必要なステップなのだ。われわれは人生の多くのことに対して計画を立てる。誕生日なら数週間前、休暇なら数ヶ月前、結婚式なら一年前、計画を立てて準備をする。何十年もまえから退職後の計画を立てている人もいる。しかし、人生の最大の旅立つときだけは、こころの準備がなにもできていないのがふつうである。
    死は一本の線、つまりわれわれが生きている世界と亡き人がいる世界とを分断する非常な線である。ひとつの連続体のうえにひかれたその死の線が、「生前」と「死後」を分けるしるしとなる。それは亡き人とともにすごした時間と、その人がいない時間とを分ける線である。その線はわれわれのいないところで、われわれの同意なしに、くっきりとひかれる。われわれを置き去りにして逝ってしまった人にとっては継続しているその線が、われわれと、われわれが愛し、失った人とを切り離しているのである。
    悲観を癒やすことは困難かる孤独な経験である。愛する人を失った苦しみからたちなおることに役立つ万能の方法は存在しない。深い悲しみを克服する手段があるとも思えない。友人たちもなんといっていいのか、どう手助けしていいのかがわからない。その結果、喪失を体験した人は、自分がこの先、生きていけるかどうかさえ不安になる。時間の経過とともに、その不安は怒りに変わり、やがて悲しみ、孤独といった感情がつぎつぎと襲ってくる。あきらかに援助を必要としている状態である。
    現代の大部分の人はたったひとりで悲嘆にくれている。そして、苦しみと孤独から逃れる道を探している。彼らは無意識のうちにモデルとなる事例を探しているが、そうした事例はきわめてまれである。いきおい、友人や家族に頼りにすることになるが、その友人や家族が喪失や悲嘆には不慣れであり、自分自身の悲嘆体験で不快な思いをしている事が多いのが事情である。悲嘆の苦しみにどう対処していいかを知らないわれわれは、自分が回避しようとしているものが喪失による苦痛であることに気づかず、悲嘆そのものを回避してしまう。苦しみは、いくら回避しようとしても回避しきれない。しかし、悲嘆を回避する事にひょって、悲嘆にひめられた癒す力に背をむけてしまい、その結果、苦しみの期間を長引かせてしまうのだ。
    人はなぜ悲嘆するのか?その理由はふたつある。よく悲嘆する者はよく生きることができるから、というのが最初の理由だ。二つ目の理由は、悲嘆はこころの治癒に必要なプロセスだからだ。われわれは悲嘆という道をとおって、全体性・完全性に回帰していく。「もし」悲嘆を経験したらという仮定の話ではない。悲嘆は必要なものであり、「いつ」それを経験するかが問題なのだ。悲嘆を経験しないかぎり、われわれは感情のわだかまりから生じる苦しみを味わうことになる。
    「感情のわだかまり」には未完了のことがら、つまり、まだなし終われず、語り終えないままに抑制し、ひきずっている事の一切がふくまれている。それは自分自身が封印し、感じることのできない感情、無視しつづけ、配慮する事のなかった感情である。そして、新しく悲嘆を感じるたびに、過去のこころの傷にまつわる感情のわだかまりや過去の喪失体験が意識の表面に浮上している。悲嘆はだれもが経験する人生の通過点のひとつである。それは人生に備わった平衡装置のひとつであり、生きているかぎり、だれもが共有している経験である。しかし、共有する経験ではあるが、われわれのほとんどは、孤独のうちにそれを経験している。われわれの周囲にいるほとんどの人が、悲嘆のさなかにある人を助ける方法を知らない。助けたいとは思っても、どうすれないいのかがわからないのだ。目のまえにいる人が深刻な喪失のさなかにあることはわかっている。亡くなった人は生き返らない。苦しみはとり除けない。それもわかっている。にも関わらず、目のまえにいる人の苦しみが、われわれをとても不安にさせ、気まずい思いにさせている。その人の苦しみがわれわれに、われわれ自身の苦しみを思い出させ、人生もまたはかないものであることを思い出させるのだ。われわれはその苦しみや不安から、つい「もう悲しむのはやめなさい」「もう半年もたったのよ。一生泣いて暮らす気?」などと言う言葉を吐いてしまうのである。
    人は永久に悲しみつづける。それが現実である。愛する人の喪失に「打ち勝つ」のではない。喪失とともに生きることを学ぶのだ。こころの傷は癒え、苦しんできた喪失の記憶のまわりに、新しい自己を再建するのだ。そしてふたたび無傷の状態にもどる。しかし、以前と同じ自分にもどるのではない。同じ自分にもどることはありえないし、もどりたいとも思わないだろう。
    喪失を体験したあとの時間は、悲嘆においても治癒においても重要な時間である。悲嘆というこの贈り物は、けっして忘れることのない絆の完成を意味している。それは内省・苦痛・絶望・悲劇・希望・再調整・再関与・そして治癒の時間である。
    大きな喪失のあとの時間は、それまで必死になって自覚しないように努力してきた感情で充満している。かつて感じたこともないような深さで、悲しみ、怒り、こころの痛みが戸口にすわりこんでいる。その強烈さは、人間が通常感じる感情の幅の限界をこえている。喪失という力のまえでは、人間の防衛力など、ものの数ではない。悲嘆の恐るべき力とともにやってくるものこそが、人間の悲嘆および悲嘆の過程から生まれる豊かな果実である。われわれはまだ悲嘆のはじまりの段階にいるのかもしれない。しかしそれでも、喪失の予感から亡き人との新しい関係を築くことのはじまりまで、悲嘆の道は曲がりくねりながらつづいている。悲嘆は感情の大変動という激しいサイクルを完成させる。それは喪失を忘れるということではない。二度と喪失の苦しみに襲われないようになることでもない。それが意味するのは、人生を最大限に経験したこと、誕生から死までのサイクルを完成させたということである。われわれは喪失を生き抜いた。われわれは悲嘆とその過程にひそむ力を認める。その力は、われわれが癒え、失った人とともに生きるための助けとなる力である。
    それは悲嘆(ひたん)という恩寵(おんちょう)
    それは悲嘆という奇蹟。
    それが悲嘆という贈り物である。

    悲嘆の5段階  否認・怒り・取引・抑うつ・受容

  • 愛する人を無くしてあまりにも大きい喪失感に打ちのめされている人に、「暗い海に希望となぐさめの光を投じる灯台のあかりになる」(読者へのおぼえがきより引用)本です。

    喪失で悲嘆の中にいるたくさんの方々に読んでいただきたいと思います。
    翻訳を担当された上野圭一さんもよかった。
    彼が選んだことばによって心が救われた部分がたくさんあったと思います。

    この本を送り出してくださった関係者の方々に感謝します。

  • 大事な人を亡くした時、キュブラー女史の言葉に励まされ、癒されました。

  • 悲しみを癒す知恵の書

  • 父をあの世に見送った後、自分の心を静めるために読んでいる。
    死は誰にでも必然であるということ、その時までにいかに生きるかと言うことが大切なんだということを改めて知らされる。
     死と言うのは一旦の区切りであり、それでおしまいということはない と信じる

  • キュブラー・ロス女史の遺作です。愛する者を失った人へ。深い励ましと癒しの本です。

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著者プロフィール

エリザベス・キューブラー・ロス

精神科医。一九二六年、スイスのチューリヒに生まれる。チューリヒ大学に学び、一九五七年学位取得。その後渡米し、ニューヨークのマンハッタン州立病院、コロラド大学病院などをへて、一九六五年シカゴ大学ビリングズ病院で「死とその過程」に関するセミナーをはじめる。一九六九年、『死ぬ瞬間』を出版して国際的に有名になる。著書多数。二〇〇四年、死去。

「2020年 『「死ぬ瞬間」と死後の生』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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