逆説のユーラシア史: モンゴルからのまなざし

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  • 日経BPマーケティング(日本経済新聞出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784532164249

作品紹介・あらすじ

モンゴルは「戦わない軍隊」だったし、マルコ・ポーロはその実在自体が疑わしい-。膨大な多言語史料のなかから、知られざる歴史の真実を照らし出す。

感想・レビュー・書評

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  • 昨年の地政学に続き、今年(2017)から新しく興味を持った分野として、中世時代の歴史が加わりました。この本では、主にモンゴルの歴史について解説されています。

    このGWで読み終えた本ですが、この本が書かれたのは、21世紀になって間もない、911という忘れることができない大事件が起きた頃の2002年に出版されたころです。

    私の中で、モンゴルについて歴史上で習ったのは、2回の元寇しかありませんが、その時の主役のモンゴル帝国はどのようなものであったのが、当時の正解にどのような影響をもたらしたのか、今後、今回読んだ本の類書を読むことによって更に理解を深めていきたいと思いました。

    以下は気になったポイントです。


    ・ローマ帝国もモンゴル帝国も、陸と海(地中海)の帝国であった。地中海は最高深度4000メートルを超える大海、波も高く嵐も凄まじい、震度100メートルもないほとんど平底の大きな河のような瀬戸内海とは違っている(p12)

    ・巨大でまとまりのない国民国家が、世界帝国であるという二重性は、国内的な不安定さに最大の弱点がある。それが911によって、国内結束のまたとない象徴を得た。帝国は、ほとんど内側から崩れる(p14)

    ・欧州は、みずからが主役となる海洋の時代と近代以降については声高に語れたが、それ以前、自分たちの先祖がユーラシアの一隅にすぎなかった実に長い時代については、真剣に考えようとしなかった(p24)

    ・官立大学として、東京大学(1877)、京都大学(1897)、東北大学(1907)、九州大学(1910)、北海道(1918)が設置、私立・公立の大学は大正7年(1918)の大学令の公布のち、第6:京城、第7:台北(p31)

    ・人類が真にグローバルな地球世界史の時代を迎えるまでは、久しく人類史のおもな舞台となってきたのは、ユーラシアと北アフリカであった、そのためにも遊牧民とその歴史を捉えなおすことは大事(p39)


    ・アフガニスタンが、地上最後の遊牧国家であったことはあまり知られていない(p42)

    ・フン族がゲルマン諸族を圧迫して西進して、ハンガリー(フンガリア:フンの地)に本拠地を定めて、ローマ帝国を崩壊に追い込んだ(p54)

    ・現在のユーラシアを仕切っている国境線を取り外すと、中国の新疆から、ウズベキスタン、カザフスタン、トルクメニスタン、タタルスタン、パシュコルトスタン、アフガニスタン、パキスタン、インド、イラン、アゼルバイジャン、トルコ、クリミア、にはトルコ系の人が多く分布している(p55)

    ・モンゴル時代も後半、陸と海の巨大帝国に変身したモンゴルを中心に、ユーラシアと北アフリカの全域は、世界史上かつてない壮大な東西交流と経済・文化の活況につつまれた(p63)

    ・湾岸戦争においてアメリカを中心とする連合国軍は、イラクを力攻めした。しかし首都バクダッドの直接侵攻はできなかった。この点700年以上前にフレグ率いるモンゴル軍のほうがはるかに賢明であった。モンゴル軍は一兵の損じることなく、バクダッドを開城させた(p67)

    ・アメリカのイスラムへの接し方は、あまりにも単純すぎて、まともな知性と感覚を持った国家・政権とは思えない(p88)

    ・マルコポーロは1295年にベネツィアへ帰還し、1298年に旅行記が完成したはずだが、写本の中には1298年時点で絶対に知りえない情報が平然と述べられている(p114)

    ・クビライはそれまで160年のあいだ南宋王朝が抑えていた江南を1276年に接収した、中華地域の南北の再統合は、いちおうの統一中華とみなされる唐の消滅(905)から数えれば、およそ3世紀ぶり、真の意味での統一が失われた安史の乱(755-763)以前にさかのぼれば、500年ぶり。(p135)

    ・明代、清代、そして現在の中国の首都である北京は、クビライが20数年かけて造営された「大都」の後身である、天津の前身の「直沽(ちょくこ)」、そして上海もこのときに浮上を開始する(p136)

    ・13世紀末には、東シナ海からインド洋をへて中東に至る海上ルート全体が、平和裏にモンゴルの手に握られた、ここに人類史上初めて、ユーラシアの陸海を循環する交通網が成立した(p137)

    ・中華には磁器はあったが、その絵付けをする青料となる、コバルトはイランなど中東イスラム世界からの輸入品であった。また、イランには磁器をつくるには、カオリンという土が必要であった。これをつなげたのがモンゴル帝国であった(p157)

    ・モンゴルは、どちらかと言えば戦わない軍隊であった、情報戦・組織戦を重視して、できれば戦う前に敵方が自壊するか投降するように誘導し、おおむねはそうなった(p183、216)

    ・3回目の元寇はクビライは最も熱心であったが、肝心の帝国内部にモンゴル王族の大反乱がおこり、日本派兵は延期となった。1294年、クビライの長逝は、事実上モンゴル拡大というひとつの時代の終幕であった(p188)

    ・当時の行政体系で「路」が一番上、つづいて「府」「州」「県」、その下に小さい町という意味の「鎮」、軍隊が駐屯する鎮台の鎮である(p222)

    ・政府行政文書は発信した段階では、日付を書かない。次の行政単位の「路」が、受け取って、さらにその命令を受けるべき団体・個人に直接に降附した時点で、受け取った最終日付を書き込む(p225)

    ・モンゴル時代の国際語は、ペルシア語であった、それが、漢字・漢文、パクパ字モンゴル語、の文章とともに、碑石に刻み込まれているので、これは東西交流の物証といえる(p242)

  • 地域史

  • マルコ?ポーロはいなかった?、元代中国は文化不毛の時代ではない、の節のみ読了

  • 同著者で『クビライの挑戦』というのもあります。それとの違いから入ると、こちらは色々な投稿をまとめたものみたいで、どちらかというとトピックごとの詳説という感じ。必ずしも時系列の物語ではないです。問題を提起しようとしているように見える。

    中国はいわゆる「元」の時代に大きくなったこと、「元」を中華(中国)王朝の一つと見るのは間違っている事、「元寇」の1回目と2回目は全然意味が違う事なんかが詳しく書かれている。後半は著者がイスタンブールの故宮で「集史」の原本を見たり「青花」の大コレクションを見た話、中国に残るモンゴル時代の碑の拓を集めて廻ったことなどの回想記。

    特に印象的だったのは、モンゴル人の考える「国」と現代の我々がイメージする「国」ましてや「帝国」とはだいぶ違うかもしれない、という話。

    軍隊同士が向き合って、相手方が降伏する。それをモンゴル語では「イルになる」と言ったそうなんですが、それは捕虜になるとか植民地になるとか言う意味ではなくて、「仲間になる」という意味なんだそうです。敵方もそれを知っていたからこそ雪崩をうってモンゴルに参加したし、そうでなければあれだけのスピードと規模で大帝国を築く事はできなかったし、ましてや維持できるはずもない、と。

    人間にできることって想像以上にあるんだろうなと思える一冊。

    なお、中国の版図が「元」で拡大した(正確に言うと中国「も」周辺諸国と併せて同じ国になった)後、「清」で中国としては最大版図に至り、それが現在の中国に受け継がれているという話は、平野聡『大清帝国と中華の混迷』(講談社,2007)に詳しいです。

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著者プロフィール

京都大学大学院文学研究科教授
1952年 静岡県生まれ。
1979年 京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学、
    京都大学人文科学研究所助手。
1992年 京都女子大学専任講師を経て同助教授。
1996年 京都大学文学部助教授・同教授を経て現職。
主な著訳書
『大モンゴルの世界――陸と海の巨大帝国』(角川書店、1992年)
『クビライの挑戦――モンゴル海上帝国への道』(朝日新聞社、1995年)
『モンゴル帝国の興亡』上・下(講談社、1996年)
『遊牧民から見た世界史――民族も国境もこえて』(日本経済新聞社、1997年、日経ビジネス人文庫、2003年)など。

「2004年 『モンゴル帝国と大元ウルス』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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