哲学を専門とする大学(准)教授の著書。一般的な ”How to” もののビジネス書とは異なり、哲学的、倫理学的、歴史学的な内容が含まれている。
昨今の「新自由主義」あるいは経済至上主義のもとでの政策立案の傾向は、「上から目線で対話を拒む態度」(p.20)であり、目前の利益や数値目標達成に繋がることなに飛びつく。政策を早急・安易に実現するために、随所で上意下達の制度作りが行われる。ここには対話がなければ、文化も育まれないし、歴史も積み重ねることがない。一例が、2014年度の『学校教育法』の改正。大学における教授会の権限が事実上剥奪され、異論(対話)を封じる体制づくりがなされた。由々しき問題だが、現実である。
著者が主張する『民主主義の本質』とは、「すべての人が階級を排した対等な立場で、自分の意見を根拠づけて主張し、対話(双方向・対等)し、お互いに納得できる合意点を探るところにある」(p.51, 116)。
→多数決は民主主義の本質ではなく、合意を形成するための手段(p.40)。多くの人が良く知らないことや関心を持たないことについて、多数決を採っても意味がない(p.43)。
→民主的な共同体は、多数派の意志によって運営されるのではなく、メンバー全員が一致して認めるはずの法によって支配される。そういった法が「一般意思」であるのは、メンバーの共存共栄を目指すものだからである。
→教育が権利として全ての人に保障され、一般市民の常識の水準が十分高くなくては、民主主義は十分機能しない(p.46)
→民主主義的な国家は、それに属する構成員の共存共栄のために作られた共同体である(p.33)
→対話の際の「論理的思考」の重要性。近代の論理学は、数学をモデルとして、定式化、記号化されてきた(p.116)。
→多面的な見方をする。
現代に繋がる民主主義国家(⇔絶対王政)は、イギリスのピューリタン革命(1642)と名誉革命(1688)、アメリカ独立革命(1776)、フランス大革命(1789)などの市民革命によって成立した(p.53)。そこでは、国民と国家機関とが一体化した国民国家(ネイションスティト)という形で実現された。国民国家を結び付けているのは、単なる契約(ルソーの「社会契約論」)ではなく、「ナショナリズム」という仲間意識。常に敵を意識して作られ、権力機構によって普及させられたもの(p.98)。仲間内での多様性を許容しない「全体主義」と紙一重となる。
従って、国民国家の形成期に唱えられた「伝統や文化の尊重」というスローガンを妄信するのは「劇場のイドラ(正しい思考を妨害する偏見・先入観)」(ベーコン)(p.220)に囚われている可能性がある。
結局のところ、国民国家という形で実現された民主主義国家は、ナショナリズムと表裏一体の、戦争のための装置として形成されてきたものでもある。それでも、おそらく他の国家形態では得られないほどの豊かさと安全をもたらしてきた(p.101)。
この民主主義の本質である「対話による合意形成」は、人間や組織が成長するための必須のプロセスでもある。
しかし現実には、人は合理的には考えるよりも、感情に引きずられることが多い。緻密な議論よりも、感情に訴える宣伝活動の方が、多くの人に受け入れられてしまう可能性もある。その結果、一方の立場に感情的に共鳴する人ばかりが集まって、異論を唱えるひとが排除されるようになってしまえば、対立する立場を攻撃するための集団になってしまう(p.262)。
また、「人それぞれ」だと言って、対話を放棄するなら、力のある側が粛々と主張を通し実行してしまう。リーダーシップのある権力者に依存していれば、自分で考えることなく、人に決めてもらえるので楽かもしれない。しかし、一方的にトップダウンで強要されたら、自分で考える意欲や、改善のための主体的に取り組もうという意欲はなくなるであろう。
著者は「対話の教育が、真の道徳教育」であり「対話が人を育て、人をつなぐ」と締めくくる。