里地里山文化論 (上)

著者 :
  • 農山漁村文化協会
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  • Amazon.co.jp ・本 (223ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784540091643

作品紹介・あらすじ

日本文化の基層は、照葉樹林文化ではなく、ヒトが生かされヒトが育んできた里地里山文化である。その3000年の歴史をたどり、東アジアにその源流を訪ねる。

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  • 縄文中期の温暖期には焼畑耕作が始まり、これによって生じた二次植生の落葉広葉樹が森林面積の12%に達していた。カタクリなどの春植物は、落葉広葉樹の若葉が日光を遮るまでの1か月の間に繁茂するもので、人間によって利用、維持されてきた雑木林で生き延びてきた。

    ヒガンバナは縄文晩期に稲作とともに渡来した。鱗茎にはアルカロイドが含まれるためにモグラ除けになり、水で晒せば救荒植物になった。

    2200年前から、低湿地に自生するハンノキの花粉が減少し、イネ科やヨモギ属の花粉が増加した。近畿地方では、500年頃からマツ属とイネ科の花粉が増加しており、森林の伐採と二次林の拡大、稲作が広がった。関東地方でも、500年頃からアカガシなどの照葉樹林の花粉が減少し、アカマツが増加した。

    江戸時代後期には、刈敷や牛馬の餌を採取する草地が国土全体の12%、薪炭や建材を得る雑木林が38%を占めていた。吉野林業は、木曽、秋田の木材枯渇と保護政策を背景に、近世後期に実生苗によって作られた育成林。

    明治30(1901)年以降、増え続ける木材需要に応えるため、全国各地でクヌギなどの広葉樹が植林された。日露戦争後、ロシアから安価な大豆が輸入されて、その粕が有機肥料として販売され、第一次大戦後は、化学工業の発展で安価な硫安、過リン酸石灰などが出回り始めた。明治40(1911)年に第二次森林法によって林野への火入れが規制されたため、草山が減少していった。里山の草地の割合は、大正11年を境に減少し始めた。刈敷や落葉落枝、牛糞や馬糞堆肥、人糞尿を発酵させた下肥の利用は、昭和20〜30年代まで続いた。

  •  里地里山の保全が叫ばれるなか、循環型社会の暮らしとそれを支えた生態系に着目し、「なぜ今それが大切なのか」を解き明かす。
     上巻では、里地里山文化の歴史を辿り、東アジアの源流を訪ねた詳しいレポートが綴られる。 
    下巻ではさらに、全国各地の古老から聞き書きした調査をもとに、昭和20年から30年代の里地里山文化の実態と、その復元の可能性が検証される。

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著者プロフィール

養父 志乃夫(やぶ しのぶ)

1957年大阪市生まれ。和歌山大学大学院システム工学研究科教授。専門は、造園学、自然生態環境工学、環境民族学。1986年大阪府立大学大学院博士課程修了。農学博士。東京農業大学助手、鹿児島大学農学部助教授を経て、現職。著書に、『里山里海―生きるための知恵と作法、循環型の暮らし―』(勁草書房)、『アジアの里山 食生活図鑑』、『里山・里海暮らし図鑑―いまに活かす昭和の知恵―』(以上、 柏書房)、『ビオトープづくり実践帳』(誠文堂新光社)、中版『生物生境再生技朮』(北京建筑工業出版社)、『里地里山文化論』(上・下2巻)、『ビオトープ再生技術入門―ビオトープ管理士へのいざない―』、『田んぼビオトープ入門』、『生きものをわが家に招く―ホームビオトープ入門―』、『荒廃した里山を蘇らせる―自然生態修復工学入門』(以上、農文協)、『生きもののすむ環境づくり』(環境緑化新聞社)、『野生草花による景観の創造』(東京農業大学出版会)など多数。

「2017年 『里山に生きる家族と集落』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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