空を引き寄せる石

著者 :
  • 白水社
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本棚登録 : 71
感想 : 6
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  • Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784560027950

感想・レビュー・書評

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  • 「言葉の手を握って、引いて、普段の場所から連れ出し、新しいものの見方を示すもの」
    蜂飼耳は本書で詩についてこのように述べている。
    これは詩だけでなく、そのもの文筆家の役割のような気がしてならない。
    このような意識をしている文章や言葉を読むと、自分自身の薄汚れた魂が浄化していくのが良くわかる。
    つまり毎日死に近づいているということ。
    それも上質な浄化である。

  • どれも短いエッセイで、読みやすく、ときに鋭い
    水晶みたいな本でした。
    とにかくゆったり読みたい。
    これほど雨の日の紅茶が似合う本はめったにない。

    時間がなかっただけに、1/3読んだ時点で図書館に泣く泣く返却しました。
    買うしかないかー。

  • 他のものも、ぜひ読んでみたい。

  • 未読の本を並べた棚に残っている三冊の蜂飼耳のひとつを読む。いっきには読んでしまいたくない。こうなると、もはや、好き、を通り越して病である。大事な菓子を一口食べてはまた戸棚に戻すような、そんな気持ちで、読む。

    身体の中で心地良く響く蜂飼耳の言葉の、音を、リズムを、じっくりと聴く。それだけでも楽しい(ああ、こりゃ重症、だね)。もっとも、この本はエッセイなので、少し異なる趣もある。例えば、小説や詩は、作家と読者のちょうど中間に、どちらからも切り離されて置かれ、その独立性を意識して読むけれども(もちろん、作家へ遡る臭いの痕跡はあるけれども)、エッセイは違う。もっと作家に近くて、かつ読者に開かれている。つまり、小説や詩の中では、作家は手の内を見せないけれども、エッセイは明らかに作家の玄関を出てきたばかりの文章で、出て来たばかりのその扉がまだ閉まりかけていない。中がちらりと窺えるかのような気分になるのが面白い(ちょっと、覗き見趣味だけれども)。うすうす勘ぐっていた蜂飼耳の脳内活動の仕方が、ああやはりそうなのか、と確認できるような気がするし、自分の感じていたものが何か裏打ちされるようでいて面白い。

    例えば「おいしい犬、おいしそうな猫」という一篇の中で、蜂飼耳は自分が食される側になることを案外普通に思っていると語る。この感覚がひいては「食うものは食われる夜」につながり、そこに溢れる「食すもの」と「食されるもの」の関係の水平化、更には倒置、という感覚へと、エロティックな雰囲気も呼び起こしながら繋がっていく。そういうことを、やはり蜂飼耳は意識しているのだなあ、と思う。

    「そして、そんなふうに言うからには、自分を提供するというケースも、想像しなくてはならない。場合によっては(遭難など)自分は食べられてもかまわない」『おいしい犬、おいしそうな猫』

    そうかと思えば、蜂飼耳が何かに急に違和感を覚えたり、何かの言葉につまづいてしまったとき、彼女がひとつひとつ自分の意識下で、何が違和であるのか、あるいは、何を思い出していたのか、を探る過程を描いた文章が幾つも採られているが、そのような丁寧に小さなことがらをつなぎ合わせて結果として大きな変化を引き寄せる力は、まさに「転身」を読みながら感じたこと、きっと作家の中ではこの展開の裏側でもっと多くの語られていない繋がりが存在しているのだろうなあ、という想像に符合する。

    「野尻湖って現実にあるんだな、と急にわかる。もちろん、わかってはいたが、もっと、ぐっと押し込まれるようにわかる。」『湖』

    ちょっと言い過ぎになるけれど、そんな展開を読んでいて見えてくる蜂飼耳という人間の価値観は、とても安心できるものである。

    それにしてもいつもながらの日本語の心地良さ。自分も句読点にしびれ易いタチであるけれど、蜂飼耳もそうであると知って、少しほおが赤らむような気分になる。そして彼女の句読点の打ち方には本当に、しびれる。大分タイプは違うけれども、こんなに句読点にしびれる作家は、他には川上弘美しかいない。そういえば、川上弘美も蜂飼耳も、さらりと淫靡な響きの言葉を放り出すね。そこにまた愚かな男子としては惹きつけられるところでもあるのだけれど。

    「ギターを弾けないが、ギターのように掻き鳴らされてしまう瞬間はある。私が心から愛する文章のひとつ、深沢七郎の「夢屋往来」。読むたびに、文章そのものに抱きかかえられ、掻き鳴らされる。おしまいまで、されるがままに、味わう。」『深沢七郎のエル』

    とにかく、読み終えてしまうのが、かぎりなく惜しい。食べてしまえば無くなってしまうことが解っているのに、食べるのを止められない菓子のように。

  • 三章からなるエッセイ集。第一弾の『孔雀の羽の目がみてる』と同じように、日常、本、旅の先で、ものをみつめるゆるぎなき眼で書かれてあります。どのエッセイも2・3ページで、無駄な言葉はひとつもありません。一字一句をのがさないように、蜂飼さんに必死でついていくように読みました。詠うようなエッセイです。『詩人という語は、気障かつ滑稽なニュアンスで使われがちだ。けれども、詩を書く人間たちは、必ずしも花鳥風月を愛でて眠り込んでいるわけではなく、自分の感情を吐露するためにだけ書いているものでもない。言葉の手を握って、引いて、普段の場所から連れ出し、新しいものの見方を示すもの、それが詩だ。』『言葉が縮める距離を見たい、といつも思っているけれど、言葉は、指し示すだけで縮めはしないのかもしれない。縮めるのは、生きているひとの心拍、滞ることのない血流、気温に合わせて下がりはしないこの体温なのかもしれない。』

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著者プロフィール

詩人。1974年生まれ。早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了。詩集『いまにもうるおっていく陣地』(1999年・紫陽社)で、第五回中原中也賞を受賞。現在、詩作の他、「週刊朝日」「図書新聞」などにエッセイを連載。

「2003年 『ひとり暮らしののぞみさん』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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