- Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
- / ISBN・EAN: 9784560046678
感想・レビュー・書評
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ミステリー仕立てのタブッキとしては異色作。あの「ペレイラ」ほど圧倒的な感動をもたらすものでは無いにせよ、新聞記者や弁護士、さらには証言をする市井の人々まで、巨悪に立ち向かう人々の志には心打たれる。クライマックスの録音テープがよく聞き取れない場面は、「レクイエム」のクライマックスで死んだ彼女と何を話したか一切書かれていないシーンを思い出させる。この作家は読者の想像に委ねるところがツボに入っていて、実にニクイものがある。
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タブッキのミステリー。死を感じた。
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アントニオ・タブッキの作品を読むというとは、とても不思議な体験をするというとだ。
この作品は、数年前、集中的にタブッキの作品を読んだ時期に読んだ作品だが、冒頭のスリリングな展開が印象的だったが、結末がどうしても思い出せなかった。
そこで今回は追悼もかねて再読してみた。やはり冒頭の部分はとてもスリリングだ。タブッキの他の作品と比較しても、まず本の字の大きさが小さく、行間もつまっていて、とても濃密さを感じる。しかし、物語の後半にかかると、スリリングな展開がだんだんペースダウンして、すこしモヤモヤした感じになっていく。ラストシーンの前、約10ページは普段では考えられないような展開で、とてもケムにまかれた感じがする。
結論としてはタブッキを読むということは、不思議な体験をするとだと思う。
ちなみにポルトガルにもモツ(臓物)料理があるというとを、この作品を通じて知りました。ポルトというとサッカーが盛んなのかなぁ、というイメージしかありませんでしたので~ -
実を言うと、自分がこんな妙な癖を始めた切欠となったのはタブッキの「供述によるとペレイラは・・・」を読んだことだった。それはそれまでに感じたことの無いような衝撃を引き起こし、何かを書きつけておかなければならない、という恐らく倫理的な衝動に駆られた義務感が芽生えたのだった。だからといって全ての感想文が倫理を出所としている筈は決してないけれど。
以来、タブッキの小説は幾つか読んではいるけれども、どちらかと言えば幻想的な小説を得意とするタブッキよりも、社会派的な小説をものにするタブッキの方により惹かれることは確かである。社会派といっても、ディープスロートを取材するワシントンポストのスマートな記者のような主人公ではなく、どちらかと言えばドロドロの珈琲と煙草の煙の染み付いたような人物がタッブキの小説には登場するのではあるけれども、そのことも含めて好みに合っているような気がする。
この「ダマセーノ・モンティロの失われた首」は後者のタイプのタブッキの作品で、短い章立ての文章のテンポもよく、読み始めると直ぐにぐいと引き込まれるのを感じる。「ペレイラは・・・」の印象を未だに引き摺っている者とって「失われた首」の世界は馴染み深いもので、あの蒸し暑いじっとりとした空間が濃厚に立ち上ってくるのを、既視感に似た感覚で捉えてしまうのは仕方の無いことだと思う。
風はほとんど動かない。窓の無い部屋の中。自らの意に反してじっと動かずに居ることを強要され続ける男。天井にはおざなりの回転扇。それは涼を生み出すことは決してなく、むしろ苛立ちを募らせることの手助けにしかなっていない。そんな絵が一瞬にして立ち上がる。
どうしてタブッキの主人公たちは、こうも自ら望まないことに見切りをつけるでもなく立ち向かっていくのか。いみじくも「失われた首」の中でタブッキはドン・キホーテの犯した愚について言及さえしている。しかしそれはむしろ反語的にすら響き、タブッキの主人公たちがドン・キホーテであることを示し、かつひょっとするとタブッキ自らもそのような愚直さを嫌っていないことを示してさえいる。
ただし、タブッキを知る者にとってそんな実直な一直線の展開を追うために気持ちを加速することは不可能で、この本を読み進めるにつれ、どこかにより大きな不正が、裏切りが待ち構えているのではないか、という疑心暗鬼が頭をもたげ始めるのも時間の問題である。
例えば、主人公を助けようとする人物こそが実は裏切り者なのではないか、もしそうであったらどうするのか、というようなギリギリとした思いを味あわせてくれるような読みを可能にするのがタブッキなのである。勿論、そのことに対する答えなど初めからある筈もなく、最後の頁を繰るまでああでもないこうでもないと思いは乱れるのだ。
実を言えばエピローグには少しだけ肩透かしを喰らったような思いも残るのだけれど(だって余りにもホームズとワトソンを連想してしまうので)、タブッキを読んでいると、やっぱり、正しいということは一体どういうことなんだろう、という思いが頭の中をぐるぐると駆け巡り、その文章にのめり込んでしまう。
また一方で何かを強要されることにたいする激しい反発のようなものもじわじわと伝わって来て、それに対してまた強く共感する自分を再発見したりもする。グルントノルム=根本規範に関するやり取りが展開する中で、神を根本とする一元論の危うさに踏み込むところ、ちょっと頭の片隅でハンナ・アーレントを彷彿とさせるが、タブッキらしい立ち位置が感じられてぐっとしびれる。まさに、この孤高な立ち姿を感じさせるところが、タブッキを好きな最大の理由だ。
最後に、これを須賀さんの訳で読んだらどんなだったろうかなあ、という思いが一瞬だけ心をよぎった。