知性の磨きかた (PHP新書)

著者 :
  • PHP研究所
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  • Amazon.co.jp ・本 (214ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784569553405

作品紹介・あらすじ

自分の足で歩き、自分の目で見、自分の頭を使って、主体的に外の世界と関わっていけること。そしてそのための正しい方法=ものの見方を身につけていること。そんな「本当の知性」を磨くには一体どうすればよいのか?多芸多才で知られるリンボウ先生こと林望氏が、学問の愉しみ・読書の幸福・創造的遊びの三つの側面から、その知的生活の全ノウハウを語り尽くす。楽しく読めて、役に立つ、三日間集中講義。

感想・レビュー・書評

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  • 学問・読書・遊びは、三位一体というべき事柄である。良く学び、良く遊ぶ が本書のメッセージである

    教えないことが教えることであるという禅問答的なやりとりがおもしろい。

    知性とは何だろうか、それを思うに、「主体」の有無にかかっている
    自分の足で歩き、自分の目で見、自分の脳味噌を運転して考え、自分の口を使って人と交わり、どこまでも「自分の」心と体を以て、主体的に外の世界と関わっていくのが知性といっています。

    気になったのは、以下です。

    ・「方法」というのは別に「曰く言いがたく」はないので、端的にいってしまえば、それは、ものの見方なんです。ものの見方。

    ・読者にいいたいのは、「まず絶対に一つのことに邁進しなさい。しかも十年間一つのことをじっくりと修業して、揺るぎない方法というものを身につけなさい。それによって将来、どういうふうにでも応用がきくから」ということなんです。

    ・カルチャーセンターで何かを学ぶ、でも、肝心の「筋道」を教えない。いわばその講師の人が勉強した「結果」を教えてくれるに過ぎない、それでは応用がきかない。

    ・誰かに押してもらったり、何かに引っぱってもらったりして猛然と速く走る車よりは、わずかでもいいのだけれと、自分の力でエッチラ、オッチラと漕いで少しずつでも進んでいく自転車のほうがね、学問のあり方としては正しいと思うんです。

    ・学問というものは、そのように、効率的に遂行されるべきものではないのでね。歩留りが悪いものなんです。本来。

    ・おびただしい不能率、おびただしいむだのなかに、たまさか鉱脈に行き当たる場合がある。そういう程度のものなんです。学問というものは。

    ・禅宗は、不立文字といって、文字で説明しない、言葉で説明しないという立場をとっています。

    ・大切なことは、学生が勉強していることを聞いて、ほんとうにこの学生が、正しい方法で進んでいるのかどうか、何か独善的な方法に陥っていないか、そういうことをチェックし、修正することなんです。教師の最大の任務はそれです。

    ・知識と方法は何が違うかというと、知識というのはすぐれて個別的なものであって、方法はすべからく普遍的なものだということです。

    ・方法というのは、1つはまうz、いままでの人がどうやって研究してきたかという事をトレースすること。そして、もう1つは、一つ一つの言葉にどのようなバックグラウンドがあるか、ということを細かに見ていくことです。

    ・知識なんていうのは、一夜漬けでも身につくけれども、方法を身につけるのは、どう転んでも、一夜漬けではできないんです。

    ・何も教えずに教える。悠然と大乗的な先生がいてくだすって、誤たたない方法へ導いてくだすったということは、ほんとうに人生の幸いであった。

    ・大学院にいく人というのは、研究者になる人なんだから、先生から知識を教わることなんか全然必要がない。

    ・日本の職人の世界なんかでは、弟子には一切教えないというのが原則ですね。それは非常に正しいやり方なんだと思います。

    ・福沢諭吉の「学問のすゝめ」と、本居宣長の「うひ山ぶみ」というのをテキストとして推奨しています。

    ・本居宣長がいわんとしていることは、要領よくなんて考える前に寝る暇をおしんでやれということです。強い動機があれば、晩学であろうと、暇なき人であろうと、学問的な功績をなすことは不可能ではない。

    ・よい読書というのは、ただ読むだけじゃなくて、それについて、メモをとったり、感想を書いたりというようにして、自分のためになるように読んでいく。それがよい読書ということです。

    ・本を読んだからといって、優れた人間になるなどというのは、しょせん根拠のない幻想だ。

    ・本というのは、それぞれの人が読みたいように、読みたいものを読めばよい。

    ・ダニエル・ペナックという人の、「読書の権利十カ条」というものの紹介があります。
     ①読まない権利、②飛ばし読みする権利、③最後まで読まない権利、④読み返す権利、⑤手当たり次第なんでも読む権利、⑥小説に書いてあることに染まりやすい権利、⑦どこで読んでもいい権利、⑧あちこち拾い読みする権利、⑨声を出して読む権利、⑩黙っている権利

    ・本というのは、自分で買って読むべきだ。図書館で読んでよかった本は買うべき。でないと、読みたいときに、となりにない。図書館の本には、書き込めないし、汚すこともできない。

    目次

    知性ということ

    第1日 学問の愉しみ
     第1講 知性とはそも何であるか
     第2講 学問において最も大切なこと
     第3講 財産としての時間をどう使うか
     第4講 良い先生はいかに教えるか
     第5講 良き研究者と良き教育者
     第6講 「学問のすゝめ」を読み直す
     第7講 本居宣長先生の学問論

    第2日 読書の幸福
     第8講 「良い読書」という幻想
     第9講 「奔放な読書」のすすめ
     第10講 本は買って読む、寝ころんで読む
     第11講 書店の役割を考える
     第12講 本はすすんで汚すべし
     第13講 「現代人の活字離れ」のウソ
     第14講 本を書く側からの発言

    第3日 遊びは創造
     第15講 何もしないことの楽しさ
     第16講 混然一体となるオンとオフ
     第17講 面白い仕事、つまらない仕事
     第18講 精神の遊びと個人主義
     第19講 人生の楽しみをどう見つけるか
     第20講 結びに代えて

  • 知性のある人とない人との違いは「主体性」の有無。自分の足で歩き、自分の目で見て、自分の頭で考えて、自分の心と体で外の世界と主体的に関わっていくこと。

    学問、読書、遊びについて。知性とはものの見方。方法を学ぶ。知識は個別、方法は普遍。知識より経験と筋道。名著を読むから立派な人格になる訳ではない。遊び。日本人はオフでも何かをやらなくてはならないと必死。本当の余暇とは何もしないこと。寝転がって本を読む。旅も遊びも仕事も、それを自分がやるもやらないも自由(選択の自由)があることが楽しいための条件。

  • リンボウ先生のエッセイ

    【メモ】
    知性のある人は、「主体」の有無にかかっている
    旅行ツアーなど、ただついていくだけの人は知性があるとは言えない。

    学問において最も大切なことは方法を学ぶこと。結果ではなく道筋を示してくれる先生は良い先生。
    方法の一つは、いままでどんな人がどのような研究をしてきたかトレースすること。もう一つは一つひとつの言葉にどのようなバックグラウンドがあるかを細かく見ていくこと
    そこからずれると、素人学問的レベル(デイレッタンティズム)に陥る

    読書をしなければ立派な人間になれないとか、ものを考えることができないとか、読書が人間の発達の必須条件と無条件に信じてはいけない

    良い読書とは、古今の名著をあまねく読む、メモを取りながらなど、自分のために読むこと
    悪い読書とは ただ娯楽のために読むこと

  • 学ぶを学ぶために、知識を得るために長期的な知識を深めるために読んだ。

    一つのことに邁進してゆるぎない方法を確立する。
    それを応用する。

  • 「やり方を教えて答えは教えない」は言い得て妙。

  • 昔の人特有の決めつけてかかる口調に少し苛立ちを覚えるのは図星をつかれたと思うからなのか。
    「趣味は片手間でやるものではなくプロを超える気持ちでやらないとものにならない」「本をたくさん読んだからといって偉い人なるわけではない」などは何をやっても中途半端で長続きしない私には耳の痛い話だった。

  • 学問の愉しみ、読書の幸福、創造的遊びから学び方を語った本。PHP新書といえば、薄くて読みやすそうなのに難しい言葉が並び、結局何が言いたかったのか意図を汲みきれず読み終えてしまうことが多い中、著者の考えや経験から肩肘を張らない、面白い学校の先生が話してくれるような講義のように綴られており、すらすら読めました。

    ラストの創造的遊びの中に語られてた
    "忙即閑"忙しいのに楽しい生き方が
    すごく印象的でした。
    そういう境地で生きてみたい。


  • 読書のモティベーション維持には朗読が良い。
    「拾い読み」推奨本!
    古典作品は図書館本は向かない。

  • ・二元論の恐怖
     →読書する人は頭が良くて、読書しない人は頭が悪い、といったゼロサム考え方
      ・読書を否定するものではない
      ・読書に絶対性を求めることが問題
      ・教養があっても悪い奴は一杯いる

    ・読書よりセックスの方が大事
     →読書なしでも生きられるが、セックスしなかったら人類が存続しない(笑)
      ・これくらい肩の力を抜いた生き方が好き

    ・読書しても人間的に偉くなるわけじゃない。その人に対して何か力を与えるもの。
     

  • 学ぶ事と遊ぶ事の境界をいぢって、人生とはなんたるかを語ってしまう本

    目次
    <blockquote>第1日 学問の愉しみ
    第2日 読書の幸福
    第3日 遊びは創造
    </blockquote>
    これはまぁ、なんという事なんでしょうね。不思議な本です。
    著者の経験から出てきた、学問・読書・遊び論……と言った感じなのですが、
    それがたんなる経験訓辞でなく、論理をきっちり組んで、肩肘張らない文章で書かれた本なんですよ。
    読むと言うより、聞くような感じ。こういう文章を読むのは珍しいので、速読もくそもなくて文章に引きずり込まれちゃいました。でも集中して読めて、あっという間に終わった。章の境界がかろうじて認識できる程度で、ほとんど一直線に読み終わっちゃう。そういう点で、「これ新書?」とすら思った。
    フリーダムすぎます。

    さて、肝心の内容なのですが、まず学問。
    学ぶと言う事、教えると言う事、それについて、こんな言葉を連ねています。
    <blockquote>・現象的な意味で「物知り」みたいに見えるのは、すべてその応用にすぎないと思うんです。そういうことを考えると、若い時代の修行というものがいかに大切かということを痛感せずにはいられませんね。

    ・大切なことはね、学生が勉強している事を聞いて、<u>ほんとうにこの学生がね、正しい方法で進んでいるかどうか、何か独善的な方法に陥ってはいないか</u>、そういうことをチェックし修正することなんです。教師の最大の任務はそれです。

    ・方法を身につける努力というのは、この雲水修行のことで、<u>非常に迂遠な不能率な道筋</u>です。だからそれは簡単じゃない。やはり汗を流していただかなきゃならない。そういうことができるのは、しかし、逆に若いうちだけなんですね。頭が柔軟なうちでなければ、方法を身につけることはできないんです。

    ・以前、森先生が何にも指導をしないでね、「この作品の研究はこれでおしまいだね」って私の修士論文を批評してくだすったこと。で、阿部先生が、私は秘密で一人でやっていた研究を読んで、「よく書けている」とおっしゃってくだすったこと。このワン・センテンス。<b>それぞれ「ワン・センテンス」の、この言葉のために、私は十年間と言うものを一生懸命勉強してきたといってもよい</b>。
    </blockquote>
    かなり抜き出しましたけど、その話し調な文章からキーポイントを抜き出すのは難しいんで、まとめて抜きました。
    学ぶ事は、能率がいい事でなく、ものすごく遠回りをして、「方法」を身に着けることだ。
    教える側は、コンテンツを教える訳でなく、学ぶ側の「方向」が間違ってないか見ること、そして最後に評価することなのだ。
    ……といった感じでしょうか。
    自分がそういう勉強をしてきたからなのか、ものすごく実感の沸く文章なんですよ。しかしそういう勉強でなく、知識を詰め込むだけの勉強しかしていない人には、ピンと来ないかもしれません。大学で学ぶ事の真意なんですけどね。コレ。

    読書論についても、なんというか、論理っぽくない。
    まあ、ベースとしては読書は自由なものである。という点から出発しているんですが、
    <blockquote>読書と言うものの本質的な大変重要な事を意味しているんです。できるだけ快い、安楽な、自分のやりやすいやり方で読みなさいということからいうと、風呂に浸かりながら読んだり、おいしいものを食べながら読んだりっていうのは、<u>積極的に望ましい読書の形</u>なんですね。</blockquote>
    ちょっと、知的な論ではないですよね!
    だから、本は買ってボロボロにしてしまえと言っている。うーん、貧乏にはあまりやれない……。
    個人的にこういう本を汚すアプローチはどうしても好きになれません。まぁ自分で買った技術書は蛍光ペン引きまくりなんですけどね。これは区別してて、あっちは辞書みたいなもんだって思ってるからやれちゃうけど、読むものだって思ったら難しい。
    子供の頃の躾というのもあると思いますし、このあたりはどちらもどちら、正解は無いかもしれません。

    そして遊び。正直涙ちょちょぎれそうになったさ。
    <blockquote>だから、そういう安住の地をあえて捨てて、いまだ誰も認めてくれていない、新しい芸術に挑戦したいと希求するんです。(中略)それは、しかし、誰に頼まれた事でもないから、当面誰にも認められないかもしれない。<u>認めてもらえない以上は、お金にもならないに決まっている。</u>
    しかし、それでもいいんです。このことは、<b>「私」のまったく一個人としての、生命を賭けた仕事なんだから</b>ね。</blockquote>
    これほど言われると、ブワッとなる。
    認められないということは、同時に存在しないのと同じで、精神的には苦しいんですよ。しかし、それでも敢えてしたいのだという著者の主張が「一個人としての、生命を賭けた仕事だ」という固い意志。
    これは人によっては、理解しがたい感情です。というのも、認められないというリスクを取ってまで、自分をそこにおく必要なんてないんです。それなりのことをすれば、それなりの評価がくるんです。でも敢えてリスクを取る。
    それがいつかはちゃんと認められる。それを信じて自分をそこに置いて前へ進む。そこはすごくホロリきちゃうとこですよ。
    同時に、よっぽど強い気持ちでなければ、それを言えたりはしない。その強さにも惹かれる訳です。

    物凄く泥臭い文章な訳で、好みの分かれる本ですが、俺としてはこれは高評価をあげざるをえないなぁ……。

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著者プロフィール

1949年東京生。作家・国文学者。

慶應義塾大学文学部卒、同大学院博士課程満期退学(国文学専攻)。東横学園短大助教授、ケンブリッジ大学客員教授、東京藝術大学助教授等を歴任。『イギリスはおいしい』(平凡社・文春文庫)で91年日本エッセイスト・クラブ賞。『ケンブリッジ大学所蔵和漢古書総合目録』(Pコーニツキと共著、ケンブリッジ大学出版)で、国際交流奨励賞。学術論文、エッセイ、小説の他、歌曲の詩作、能作・能評論等著書多数。『謹訳源氏物語』全十巻(祥伝社)で2013年毎日出版文化賞特別賞受賞。2019年『(改訂新修)謹訳源氏物語』(祥伝社文庫)全十巻。ほかに、『往生の物語』(集英社新書)『恋の歌、恋の物語』(岩波ジュニア新書)等古典の評解書を多く執筆。『旬菜膳語』(岩波書店・文春文庫)『リンボウ先生のうふふ枕草子』(祥伝社)、『謹訳平家物語』全四巻(祥伝社)『謹訳世阿弥能楽集』(檜書店)『謹訳徒然草』(祥伝社)等著書多数。

「2021年 『古典の効能』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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