「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの (PHP新書)

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  • PHP研究所
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  • Amazon.co.jp ・本 (207ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784569558479

作品紹介・あらすじ

「何か質問は?」-教師が語りかけても沈黙を続ける学生たち。街中に溢れる「アアしましょう、コウしてはいけません」という放送・看板etc.なぜ、この国の人々は、個人同士が正面から向き合う「対話」を避けるのか?そしてかくも無意味で暴力的な言葉の氾濫に耐えているのか?著者は、日本的思いやり・優しさこそが、「対話」を妨げていると指摘。誰からも言葉を奪うことのない、風通しよい社会の実現を願って、現代日本の精神風土の「根」に迫った一冊である。

感想・レビュー・書評

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  • 面白かった。
    大学生の私語。私語を許す教授。
    日本の若者は、全員に向かって言われるコゴトには不感症になっている。だが、自分個人に向けて言われてことは骨身に沁みる。喋っている現場を捉えて張本人を「現行犯」で逮捕することが一番説得的である。
    なぜか?
    この国では、公共の場で個人を特定して評価、ことに避難することをきわめて嫌う。

    言葉の裏を探る文化 われわれ日本人は、一般的に言葉を額面通りに受け取る関係よりもむしろ発話者と言葉の字面とが微妙にズレるところを了解することに独特の美学を認めるようだ。
    例1 歌舞伎の「伽羅先代萩めいぼくせんだいはぎ」若君の乳母である政岡。若君の毒見役を務めるわが子が毒入り菓子で目の前で悶え死ぬ。ところが、政岡は顔色一つ変えない。若君と息子の衣装を取り替えていると睨んでいる敵の目を誤魔化すためである。死んだのはやはり若君であったと敵は結論する。人々が去った後、政岡は初めて「でかしゃった!でかしゃった!」と叫びながら足腰はヨロメキ嗚咽を繰り返す。狂乱の場面が、先程実の子が死んでも眉一つ動かさなかった政岡の壮絶な苦しみをを逆に浮きたてて、ズレを観客は読み取って感動する。
    例2「手巾」芥川龍之介
    東大教授の先生のところに最近病死した学生の母親が尋ねてくる。物静かで心の動揺を一才表さない気丈さに感心する。しかし、膝の上の手巾を両手で裂かないばかりに堅く握っており……婦人は顔でこそ笑っていたが、実はさっきから全身で泣いていたのである。芥川龍之介は、先生の口を借りて、これを「日本の女の武士道」だと褒め称える。
    例3 利休「茶の話」岡倉覚三
    利休は紹安が露地を掃除し、水を撒くのを見ていた。
    終えてから、まだ十分ではないともう一度やり直し。1時間近くやり直してから、「お父さん何もすることはない
    」というと、「ばか者、露路の掃除はそんなふうにふるものではない。」と言って、一樹をゆすり、庭一面に秋の錦を散り敷かせた。利休の求めたものは、清潔ではなく、美と自然であった。
    百輪の朝顔が観たいという秀吉の命に、利休はことごとく切り捨てる。激怒して茶室の障子を開くと、そこには床の間に朝露を含み色鮮やかな大輪の朝顔が一輪。秀吉イタク感激する。
    しかし、ストレートに言葉通りの風通しの良い会話もある。
    例1漱石 彼岸過迄 
    「これから生涯の敵として貴方を呪います」市蔵
    「じゃ卑怯の意味を話してあげます」千代子
    草枕の那美さん、虞美人草の藤尾
    これらは会話だけれど、対話ではない!
    対話とは全裸の格闘技である。真理を求めるという共通了解をもった個人と個人とが対等な立場でただ「言葉」という武器だけを用いて戦うこと。ソクラテスは、この約束を守らない者とは一瞬たりとも対話しない。「ゴルギアス」ソクラテスの臨終まで、弟子たちと魂のゆくえを対話する「パイドン」

    この国では「他人を傷つけず自分も傷つかない」ことこそあらゆる行為を支配する「公理」である。利己主義の変形ーしたがって我々日本人は、他人から注意されると、たとえ正しいとしても注意されたことそのことを激しく嫌う。
    「いじめ」問題においても「思いやり」は横暴を極めている。いじめを傍観する者は、加害者である。
    暴力はいけない。他人の気持ちがわかる人になりなさいと言われる。だが、今はかつてのように「正義」や「勇気」については教えない。怯懦は恥だということも教えない。今の教育は人として「戦うべき時には戦う」ということを教えなさすぎる。佐藤愛子
    最新型の優しさは、他者との対立や摩擦を徹底的に避けることであり、この目的を達成するために「言葉」を避ける。
    ヨーロッパ起源の対話は、欧米社会では現在そのマイナス面が蔓延っており、皆真理を求めるより権利を求める。自己防御やその反作用としての他人攻撃に全力を傾ける。自分の権利を求めることに汲々として自分の落ち度を隠し、他人の落ち度をやみくもに攻撃する。
    日本は、こんな野蛮な社会にはならない。なれない。言葉を圧殺するこの国の文化に、あと数パーセント西洋的な言語観を、採用すればもっと風通しの良い社会が、弱者が泣き寝入りすることのない社会が、個人が自律しみずからの責任を引き受ける社会が実現するのになーと思うだけ。 
    日本はこんな野蛮な

  • 人は話してみないとわからないという教訓を再確認した書物。

  • 哲学者である著者が、<対話>についての見解を語る本。
    テーマは<対話>ですが、これは単なる会話とは違い、自分と他人との差異を認めたうえで、この差を少しずつ埋めていくために質問と回答を繰り返し、理解することを諦めない姿勢、とでも言えばわかりやすいのでしょうか、ただ相手がいて自分がいて成り立つものとは異なるものです。

    本書は、著者が様々な大学で教鞭をとってきた経験から、序盤に大学生の動向を述べ、その背景としての「アアセヨ・コウセヨ」の日本の現状を明らかにして、<対話>の解説へとつづき、さらに<対話>を阻むもの、日本の社会背景、最後に<対話>のある社会について述べる、という構成になっています。
    著者がドイツに居て暮らしていたときの経験もふまえて日本とヨーロッパの意識的・社会的違いについても触れられています。

    発行年月日が1997年となっていて、かなり古いものですが2021年現在に読んでみても「その通りだな」と思うことや「この時点(1997年)から日本はそれほど変わっていないな」と思うことが多かったです。

    よく言われることですが、日本人は議論が苦手です。この「議論が苦手」なのは<対話>がない社会であることと原因が同じなのですね。
    本書で述べられていますが、日本の一般企業というものがまさに日本の縮図といえるもので、「こうするしかない、となるまで誰も話に竿ささずに黙っている」というのは本当に真実を捉えているなと感服しました。

    もともと、私はブクログを始める前から著者の本を何冊か読んでいて、著者の意見に同意なのですが、特に日本のアナウンスの多さ、街角にある文字の多さには私も疲れていますし、著者の意見に賛成です。
    イヤホンをしないとうるさくて歩けない社会に慣れさせられて、「アアセヨ・コウセヨ」の文言に我々は麻痺してしまっている。そのことに(この本を読んで)初めて気づかされる人もいるのではないかと思います。

    また、「優しさ」や「思いやり」についても著者の言うように「他人を”私”の拡大形態とみなしていて(他人は自分の延長線上にあると考えている)、それは”優しさ”ではない」という意見には首が取れるほど頷けました。
    「自分のイヤなことは他人にしない」というのが何故だめなのか? という議論が時に起こりますが、何故なのかイマイチ分からない人にとっては、ここにヒントがあります。

    最後に、駐輪禁止の場所に置かれた自転車のくだりは(著者にとっては大真面目だと知りつつも)笑ってしまいました。まるで職員と著者の言い合いが眼に見えるようで……愉快といっては失礼なのですが。

    どちらが良い、悪い、だから日本は<対話>を重視しなければならない、するべきだ、というクロかシロか? ではなく、こういう意見もあるし、実際に取り入れてみても良いのではないか。そういう視点から読んでみると面白い一冊だと感じました。
    中島義道さんの本はやはり、面白いです。

  • この国では「他人を傷つけず自分も傷つかない」ことこそ、あらゆる行為を支配する「公理」である。したがって、われわれ日本人は他人から注意されると、その注意の内容がたとえ正しいとしても、注意されたことそのことをはげしく嫌う。

  • 「空気」に従わないこと、自己主張をするということの大切さです。

    私語が続くと、教室を出ていく中島先生。
    しゃべらない学生に対して「いいかげん黙るのはやめなさい!」という中島先生。
    カンニングをした学生と徹底的に対話をした話にはうるりときた。
    意味のないきれい事の標語に対して怒りを覚え、
    放置自転車に神経質なまでにキレて警官とまでやりあう中島先生
    という、前半の話は笑いが止まらなかったが、
    「思いやりの暴力」や「空気」に逆らうこと、そして対話とはどういうことかを叩きつけられたような気分である。
    ディスカッションや討論とは違い、自分を背負って真理に開かれることが「対話」とも言える。そして、空気を壊すことで、傷つくことも一身に引き受ける決断。

    弱者の声を押しつぶすことなく、耳をすまして忍耐強くその声を聞く社会。空気に流されて責任を回避するのではなく、あくまでも自己決定し、自己責任をとる社会。
    対立を大切にしながら、そこから新しい発展を求めていく社会。

    ひねくれものの義道先生にしては、本当にスッキリした読後感でした。

  • 「対話のない社会」は中原先生のブログで紹介されていたもの。今から10年以上前に書かれたもので、哲学者の目線から『対話』ってことを書かれている。
    中原先生と長岡先生の「対話する組織」の中で定義されている『対話』と、中島先生の定義は一見全然違うもののようだけど、本質はいっしょ。


    中島先生がおっしゃっている「1対1の関係」、中原先生たちは「一人称で語れ」となるし、中島宣がおっしゃる「相手との些細な違いを大切に、それを発展させる」は、中原先生たちは「対話によって他者理解をすることは自分自身を理解すること」と書かれている。


    対話・・・言葉にしちゃうとかんたんだけどなかなか実践するって難しい。空気を読んだ、いい人を装う『会話』や、ビジネスシーンで相手を徹底的にうちまかそうとする『ディベート』はいろんな場所で訓練されている。けど、自分の言葉に責任を持って、それこそ「人生を丸ごと背負って語る」なんて、なかなか覚悟がなければできないよなぁ・・・


    それにしても、同じ対話をテーマにしている本で書かれていることの本質は一緒なのに読後感がこうも違うのはなんだろう???


    冒頭の「私語をする学生たち」では、執拗なまでに学生に自分の言葉、自分の考えを語れ、そして私とコミュニケートせよ、と迫る。
    劣等生のあたしには発言できずに黙ってしまう学生の気持ちがよーくわかる。でも中島先生は「わからないことをわからないと主張せよ、でないとコミュニケーションが成り立たない」とばっさり。
    わかってるんだけどね、でも、言葉を理路整然と並べること、意味をつなげること、それが凡人には何より難しい


    それにしても、中島先生、摩擦係数の高い人だ
    駅前の違法駐輪を取り締まらないからと言って、自転車なぎ倒したり、教授会に遅刻してきた同僚にぴしりと物を申したり(やんわりとくぎを刺されたことに対しても真っ向から反論するんだもんな~)・・・なれあいの社会のなかではさぞかし生きにくいだろうなぁ・・・と思いつつも、日和見主義の凡人からは、中島先生の信念を貫くかっこよさがまぶしい。

  • 最初、大学教授の愚痴が書かれているのか?などど思って読んでしまったが、現代社会の「対話」の無さを心から嘆き、うやむやにせず、自己責任においてきちんと発言している中島さんの勇気には敬服した。

    大学教授は、(勝手な思い込みだけど)事なかれ主義の人が多いのではないかと思っていたが、ここまで真摯に自分の仕事に取り組み熱心に行動している人はなかなかいないのではないだろうか!

  • えーと4年前に買った新書でございますが、電気通信大学で教鞭をとっておられる著者の鬱憤が四方八方に爆発した、大変に面白い、しかし真面目な本でございます。

  • 中島義道氏は対話を必要としているが、日本社会では対話が成り立たない構造になっている。
    そのことについて半ば立腹しながら対話について考察している。中島氏のこの愚直さは良い。
    たが、結局のところこの国の対話が成り立たない構造は変わることはないだろう。無理に相手に対話を望むことは残酷なことである、とつくづく思うばかりである。
    むしろ私は、対話がない故に発展した部分を考えることも重要かな、と思うのだが。

  • 「優しさ」は暴力だということを知れる。 日頃心の中に思っていた疑問を非常に明瞭に意識することが出来た。冒頭の学生の私語に関する具体的な説明によって、いかに日本人が言葉を信用していないか、また、いかにそれを恐れいてるかを知ることが出来る。ある学生は教授に注意されたとき、それに無言で対応する。そして、後で教授の部屋の入り口にある標識を暴力的に破壊する。完全に言葉によるコミュニケーションを無視している。また、後半「やさしさ」の暴力性について語る。日本で言われる優しさとはつまり利己的な行為であり、それを行うことにより自己の安全保障をしようというのである。優しさがないと言われることが全人格的に抹殺されると言うことが起こりうる社会で、倒れそうな老人のためにいかにも暴力的な男に席を譲ってもらえないかとたずねることが出来るだろうか。
    灰谷健次郎を批判的な視点で見つめているのもよい。
    著者が考える対話の基本原理がとても面白い。一つ例をあげると、(11)自分や相手の意見が変わる可能性に対して、つねに開かれていること。あなたは理解することができるでしょう。

    先日、あるコーヒーショップで私は誤って禁煙席で喫煙をしてしまった。となりでこちらを見ている視線が感じられる。視線をずっと送ってくる。そちらの方を見てもただにらんでくるだけである。とうとう、彼は怒りだし大声でここは禁煙席だ!と私に怒鳴った。これは何を意味しているのか、私だって好き好んで禁煙席で煙草を吸っているわけではない。どうして、一言注意をしてくれなかったのか。コミュニケーションの断絶を感じる。この本はとてもよい本だ。

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著者プロフィール

1946年生まれ. 東京大学法学部卒. 同大学院人文科学研究科修士課程修了. ウィーン大学基礎総合学部修了(哲学博士). 電気通信大学教授を経て, 現在は哲学塾主宰. 著書に, 『時間を哲学する──過去はどこへ行ったのか』(講談社現代新書),『哲学の教科書』(講談社学術文庫), 『時間論』(ちくま学芸文庫), 『死を哲学する』(岩波書店), 『過酷なるニーチェ』(河出文庫), 『生き生きした過去──大森荘蔵の時間論, その批判的解説』(河出書房新社), 『不在の哲学』(ちくま学芸文庫)『時間と死──不在と無のあいだで』(ぷねうま舎), 『明るく死ぬための哲学』(文藝春秋), 『晩年のカント』(講談社), 『てってい的にキルケゴール その一 絶望ってなんだ』, 『てってい的にキルケゴール その二 私が私であることの深淵に絶望』(ぷねうま舎)など.

「2023年 『その3 本気で、つまずくということ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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