アダム・スミスの誤算: 幻想のグローバル資本主義上 (PHP新書 78)
- PHP研究所 (1999年5月1日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (237ページ)
- / ISBN・EAN: 9784569605357
感想・レビュー・書評
-
経済のグローバル化が叫ばれ、市場がすべての問題を解決するかのような勇ましい言葉が聞かれる現状を横目で睨みながら、市場主義経済学の鼻祖と目されるアダム・スミスが、じつは共同体の価値を重視し、当時のグローバリズムともいうべき重商主義に対して厳しい批判をおこなっていたことを明らかにしようと試みています。
著者はまず、スミスが「自然価格」を「市場価格」として規定していたのではなく、反対に理想的な自由競争のもとでは「市場価格」が「自然価格」に落ち着くはずだとしていることに着目します。その上で、スミスの考える「自然価格」は、土地に根ざした共同体的な価値によって決まるとみなされており、そこに彼の道徳哲学との結節点があるのではないかと著者は主張します。他方でスミスは、土地と労働に根ざした「徳」を離れて、貨幣を富とみなす重商主義に対して批判的だったと述べて、そうしたスミスの批判した重商主義の正嫡が、現在のグローバル市場経済にほかならないと論じています。
著者のスミス解釈がどの程度妥当なものなのか私自身は判断ができませんが、興味深い内容でした。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
一度読んだ本を読み直しました。グローバリズムが叫ばれた時の本ですが、今、読んでも、まったく本質論から外れていません。
IT、インターネット環境がより進展した現在の社会経済状況において、ますますグローバリズムの進化が増しています。
それでも、佐伯啓思氏の、社会経済活動に対する深い洞察力からなる分析は、何ら、陳腐さを感じさせないものであります。
原理原則を外さない、論理。
この本においては、アダムスミスが生きていたイギリスを中心としたヨーロッパ社会と南北アメリカ、アジアとの絡みは外せません。
なぜ、イギリスが重商主義に走らなければならなかったのかという因果関係の分析もよく理解できました。
名誉革命以後、イギリス社会の動向もよく分析されています。
自由主義経済の父としたかった勢力が如何に薄っぺらなアダムスミス解釈であったかが、よくわかる一冊でした。
続いて、ケインズの予言を読んでいきます。 -
20130624
-
(2011.12.22読了)(2011.12.04購入)
11月に読む予定だったのですが、12月にずれ込んでしまいました。図書館で借りるつもりだったのですが、古書店で見つけたので購入しました。
この本がテーマにしている「グローバリズム」という意味が不明なので、ネットで調べてみました。
◆グローバリズムとは
「グローバリズム」は多くの場合、新古典派経済学やミルトン・フリードマンらのマネタリズムに基づくネオリベラリズム(新自由主義)のイデオロギーへのレッテルとして用いられる。これは、各国政府による経済活動への規制を可能なかぎり排除して、経済活動をグローバルな市場メカニズムに委ねさえすれば、経済成長が達成されるとする考え方である。
アメリカにとっては、都合のいい考え方なのでしょうが、金融市場のグローバル化によって、世界の市場は、めちゃくちゃになっているようです。
この他にどのような問題があるのかは知りませんが、グローバリズム問題について、アダム・スミスとケインズがどのように考えていたのかを考察するのがこの本の目的です。上・下二巻に分かれて、上巻は、アダム・スミスについて、下巻は、ケインズについて考察する、ということです。
序章、誤解されたアダム・スミス
第1章、市場における「自然」
第2章、道徳の基盤
第3章、富の変質
第4章、徳の衰退
第5章、経済と国家
●アダム・スミスの評価(25頁)
スミスといえば、誰もが、市場経済の最初の理論家、自由主義の思想家、自由貿易論の開祖というレッテルを返してくる。この評価はすでに定着してしまっている。
今日の「冷戦以降」の世界は市場経済が旧社会主義圏をも飲み込み、いわゆるグローバリズムの時代になりつつある、これはスミスの描いた自由競争の市場の世界的な実現だ、といったいささか安直な議論まで横行する。
●「国富論」の実際(31頁)
スミスの「国富論」の中には、今日、われわれが市場経済と呼び、また自由主義と呼び、またグローバリズムと呼ぶような議論の展開があることは間違いない。しかし、それらは、実際には、「個別的観察と実際的経験」のあふれ出るような記述の中にある点をつないでいったものにすぎない。
●「私益」と「公益」(37頁)
経済の秩序を生み出すためには「私益の追求」だけで良しとする脱道徳的なマンデヴィルと、社会の秩序の基礎を与えるものはあくまで道徳だという強い信念を持っていたハチソンの対立が、この背後にある。そしてスミスはそれを総合しようとした。
(「国富論」は、構成や構想の単純さに対して、複雑で多岐にわたる叙述が対照をなす(36頁))
●職業と賃金(48頁)
賃金の相違は、職業そのものの性格の違いを反映している
① 職業に伴う快不快。職業が楽なものかつらいものか、清潔か汚いか、名誉なものか不名誉なものか、等。
② 仕事の難易度、習得費の大小。技巧と熟練を獲得するために教育を受けたものは高い報酬を得る。
③ 就業の恒常性。常勤的な職人は、日雇いよりも高い報酬を得るだろう。
④ 職人に与えられる信任の大小。医師や弁護士のように社会が重要な信任を与える仕事は高い報酬をえる。
⑤ 成功の可能性。芸術家のように自分の才能だけが頼りの自由職業の者は、成功の可能性が不確定であり、この場合のは高い報酬を得られる。
●市場で決まる?(51頁)
利潤や賃金、地代の「自然率」が市場で決まるものではなく、社会的な条件、歴史的な条件によって「自然に」決まってくるものだとしよう。
●「情念」(57頁)
18世紀のとりわけイギリスの哲学者たちが発見したのが「情念」であった。あらゆる素朴な未開人、つまり自然のままの人間の典型が共通に備えているのは理性ではなく、情念あるいは他者に対する情緒に他ならないというのである。
●適宜性(61頁)
ある行為の適宜性を判定するのは、想像上において相手の立場に身を置くところから出てくる判断に他ならない
☆佐伯啓思の本(既読)
「「欲望」と資本主義」佐伯啓思著、講談社現代新書、1993.06.20
「「市民」とは誰か」佐伯啓思著、PHP新書、1997.07.04
「新「帝国」アメリカを解剖する」佐伯啓思著、ちくま新書、2003.05.10
「自由と民主主義をもうやめる」佐伯啓思著、幻冬舎新書、2008.11.30 -
幻想のグローバル資本主義の上巻で、タイトルに惹かれて手に取った一冊。「国富論」で有名なアダム・スミスであるが、私たちの先入観とは違った側面があるのではないか……と、いうのが筆者の論点である。
確かに、アダム・スミスはなんでもかんでも市場自由主義を推していたわけではないようで(例えば、金融部門など)、それこそ、自らの「提言」が狂信的な信奉者たちに曲解されて「理論」とされてしまったのだとしたら、(マルクスよろしく)彼にとって一番の誤算であったに違いない。 -
抽象的、概念的な言葉、難解な言葉が使われていて読むのがつらいので、
飛ばし飛ばし読んだ。
しかし、内容自体は良く、文章が苦にならない人には良書だと思う。
土地などの実態に基づく経済と信用のみに基づく経済の安定性のちがい、
など重要と思われることが書いてある。 -
自由主義のアダムスミス、公共投資のケインズというように正反対に見られがちな経済学者2人は、同じく「確かなもの」を求めていた・・・
-
アダム・スミスは「自由主義」「神の見えざる手」を唱えたといわれるが、それは現在の「新自由主義」を正当化する理論になるかと言うと・・・読んでみてください。
-
“われわれは、この二人の経済学者であり思想家であり文明評論家であった偉大な人物から多くのものを学ぶことができると思う…彼らが考えた問題状況は、程度の差はあれ、基本的に現代のグローバリズムの問題とあまり変わらない。(5頁)”と佐伯氏は言う。
「この二人」というのは、アダムスミスとケインズの事である。そしてこの二人から著者はグローバリズム問題を考える。上巻ではアダムスミスの事を論じる。
そして“経済学の父といわれているアダム・スミスの重商主義批判から、グローバル・エコノミーへの対抗という観点からみることができるだろう(2324頁)”と佐伯氏はアダムスミスの着目し、“市場主義の最初の擁護者はスミスであった、資本主義の最初の擁護者はスミスであった、グローバル・エコノミーの最初の提唱者はスミスであった。…だが本当にそうだろうか(2829頁)”と懐疑の眼差しを向ける。
序章は「誤解されたアダムスミス」と題されている。“私はスミス研究者でもないし、経済学説氏の専門的研究家ではない。(29頁)”というお断りはあるものの、題から察するに、著者は「アダムスミスは誤解されているのではないか」、と思ったという事だろう。
また“スミスは、彼の生きた時代に、彼と生きた政治状況、社会構造の中で回答を与えたわけである。その回答をそのまま受け止めるとすると、われわれは間違いかねない(35頁”と佐伯氏は言う。アダムスミスの回答を額面通り受けとるのではなく、時代・政治・社会の過去と現在と状況を見比べて、それに配慮した上で、アダムスミスを考えてみせようということなのだろう。
私はこうした類の本はあまり読まないので、こうした示唆が世の中にどれだけ出回っているのかは私にはよく知らないのではあるが、アダムスミスは今の時代にどのような疑問を投げかけているかといった問題設定し、考えている人というのはこれといって私は聞いたことはない。となればやはり、佐伯氏独特のアダムスミス論が展開されているのが本書だという事なのかなと思った。