なぜ〈ことば〉はウソをつくのか?: 理性と直感の哲学バトル! (PHP新書 347)
- PHP研究所 (2005年5月1日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (219ページ)
- / ISBN・EAN: 9784569642925
作品紹介・あらすじ
頭のよいひとは直観で本質をとらえ、ことばを過信するひとは、堂々めぐりに陥ってつまらないことにこだわる。やに縛られて、人生の大事なことを見失っていないか?「迷いや不安、悩みはことばの罠だ」「反省ほど有害なものはない」「一晩考えたことは後悔する」「なぜオレオレ詐欺にひっかかるのか?」…。思考の深みをとびこえ、直観力を呼び覚ますヒントとは?古今東西の思想家たちから、ほんとうに賢く、快活に生きるエッセンスを学ぶ。創造力と行動力が倍増する哲学エッセイ35編。
感想・レビュー・書評
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あまり役にはたたなかったが面白い本だった。「理性と直感の哲学バトル」というサブタイトルを冠する哲学エッセイということになっているが、哲学本なのか自己啓発本なのかちょっと判断に困ってしまう。
この本の趣旨は、実は最初の異ページ目で語り尽くされていて、残りは同じ意味の内容が延々繰り返すのだが、歯切れの良い短い文が、機関銃の如く解き放たれる様は、エッセイというより一種の韻文を読んでいる気にさせられる。「モノ・コトを、ことばにした途端に正しく認識できなくなる」という趣旨を、言葉の権化である本で解説するのは、自己矛盾なのだが、他に手段はないのだろうな。 -
言葉とか感覚とか考えるって何かすげぇ影響受けた。
辞書片手に読んだ。 -
話せば話すほど書けば書くほど伝えたい事から離れていく事がある。そんな時私はことばから離れたくなる。たくさんのことばより深い溜息の方が雄弁に真実を語っていたりする。
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後ろを振り返ると、感想や思い、反省や批判が渦巻いている。だが、前には何もない。何もないから何でもできる
ことばで考えるということは、ことばに捕まること。「ああでもないこうでもない」と考えるのは、ことば(意識)についてあれこれと案じているのであってモノの本質を吟味しているわけではない
何か考えるときは、ただながめるだけで十分。はじめは、とりとめがなく心もとないが、やがてイメージが湧いてくる。さらにながめつづけると、そのイメージがネットワークをつくり、じきにくっきりとした輪郭があらわれてくる
古池や蛙飛び込む水の音 vs. 浅草や神社でハトが遊んでた
①ことばと実態が釣り合っているリアリティ
②ことばだけがあって実体がない架空
③実体はあるが語りえない直感
ひとは自分の口から出る言葉の逆支配を受けている
我々が愛に気付かないのは、愛が言葉に置きかえられているから
アイデアはそこにある。ことばが隠しているだけだ
目で見ることができないものは人生にあまり役に立たない
現在との付き合い方はひとつしかない。過去を一切持ち込まないことである
いまこの瞬間以外はすべてファンタジーである
ひとが立派な何かをなし得ないのは、未熟だからではなく、じぶんでじぶんを見てしまうから
ことばの世界に生きている我々は「それは何か」という問いから逃れられないが、それに応えることは、100%の自分を削り取っているに等しい。100%の自分が「それをどうするか」と案じるのが考えることで、このとき次々とアイデアが出てくる
ひとはことばにすぎないもの(ワケ)を実体(ヤル・コト)よりも重く見てしまう
ことばは、それだけでは記号や音にすぎない。直感と合体して意味が生まれる。大事なのは記号や音ではなく、意味を誕生させた直感である。直感は、自己利益の忠実な代弁者であってしかもウソをつかない
反省してはダメ。自信を失うと世界が遠ざかっていく。じぶんの存在に対する、理屈抜きの自信
本当に欲しいのではない。ことばが欲しがっているだけである
自我に合わせて世界観を構築するのが同化、世界に合わせて自我を形成するのが異化
元気がないのは、見栄や嫉妬、欲深な周辺我が暴れているから
「きれいな花」と思うのではない。きれいな花を見ている直感が、あとでことばに翻訳されてそうなるのである
論理的な思考を受け持つのは新皮質だが、「小鳥が来た」と知覚するのは旧皮質。このとき刺激を受ける脳は、論理的な記憶をとどめておく側頭葉ではなく、海馬である。旧皮質の海馬には、忘れられた記憶を含め、脈絡を欠いた記憶が無尽蔵にランダムにちりばめられている。この記憶を探ると、論理的にはメチャクチャだが、次から次へと思いがけないものが飛び出してくる
思ったとおりにならないのは、思うからであり、不安に怯えるのは、得体の知れない何かが現実を操っていると空想するからである
考えると、直感が鈍る
わからないから考えるのではない。考えるから分からなくなるのである
意識は、受動的自我と能動的自我の対話
ひとは前へすすむとき、よりよくあろうとするとき、自己否定を持ち出さずにはいられない
A=A 世界公式
自己否定を乗り越えて進化するというのは、古いパラダイムの発想
心が疲れたら意識から離れること。意識は勝手に意識している。その意識に冷ややかな目を向けると、直感がよみがえってくる。
じぶんを100%信じきる。すると余計な意識が消え、才能だけが輝き出す
ことばは現実感覚と一体化して意味をもつ。両者をむすびつけるのがイマージュである。リンゴということばの中には、味覚や形などの直感があらかじめつつみこまれている。ことばと直感を結びつけるイマージュが働いて、ことばは生きたものとなる。イマージュを伴わない音声や文字は、ノイズや落書きのようなものである
モノやコトはそれ自体としてある。ことばは、モノやコトをワケ(意味)へ変換する。このときイマージュが脱落する
身体感覚にしっくり来ないのは、ことばがことばを語っているからである
夕日は赤い。青でも黄色でもない。赤は夕日の赤(同一性)であるが、実際は、他の色との違い(差異化)によって認識される。ことばによる認識は、つねにA=B(肯定)ではなくA≠B(否定)によって行われる
直感には同一化や肯定型が用いられる。だが、ことばの特質は異化や否定型である。したがって意識やことばでとらえると、世界や他者は、異物となってあらわれる。きらいな理由はことばでいえるが、好きな理由は、ことばでいうことがむずかしい。ことばは、差異と否定には都合がよくとも、同一化や肯定は不得手なのである
ことばの世界は、あるがままの世界ではなく、ことばの「弁別的差異」によってつくりかえられた世界だった。いわば、物事の負の側面、否定的な部分をほじくり返し、反省を迫るのがことば(=意識)なのである。これは、反省には適しているが、前向きな思考にはふさわしくない
われわれの思考は、意識やことばではなく、直感による"パターン認識"に負っている。
ことばは、情報を整理するだけでみずから決断しない。決断するには、役に立たない情報を捨てなければならないが、ことばは、記録(記憶)する一方である。優柔不断なひとに粘着質タイプが多いのは、決断する(捨てる)ことが不得手だからである
役に立たない情報を捨てなければ、新しい情報は手に入らない
ことばで知りえるもの、ことばで語りうるものは、ことばを超えることができない
ことばは錯誤の上に成立している。ことばは語りえないのに加え「誤って語る」という二重の瑕疵をひきずっている
言語ゲーム(ヴィドゲンシュタイン)
「赤い雪」は実際には存在しないが、ことばはある。ことばがあると、実際にはなくとも、存在してしまう。存在の特殊性や事象の具体性をネグって成立したことばの世界は<一般化><抽象化><虚構化>をまのがれえない。
ひとは、行動を通して客観(世界)を主観(自己)へと包摂する
ことばの世界では、あなたとわたしの違いは、情報の差異にほかならず、ひとは、世界の外に放り出されている
ヒトは、自分を世界の外側に置くことによって、じぶんが差異(情報)であり、交換可能(機能)であり、かならず死ぬ(痛み)という3つのことを知る
行動することによって主観と客観が合一する。本当のじぶんは、反省ではなく、行動を通して現れてくる
考えることとやることの順番を入れ替えること
ひとは「見えるもの」しか見えない。それが「思えるもの」にみえるのは、意識=ことばが作用するから
元気がなく、弱々しく、ひねくれ、じぶんをたのしまないのは、直感ではなく、その対岸にあることばに依存しているから -
普通。