- Amazon.co.jp ・本 (363ページ)
- / ISBN・EAN: 9784569706450
感想・レビュー・書評
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以前、「私、前世が見えるんです」と言ってる女性がいた。その女性は周りにいた僕の友人(いずれも男性)の前世を「見て」教えてくれたのだが、それは以下のようなものだった。
・エジプトのゲイ
・平安時代の女官
・アボリジニー
・クリーブランドの令嬢
・中世ヨーロッパの秘密警察(←「異端審問官」という言葉をご存じなかったようで…)
真っ当な人間ならここで一笑に付して無視するか、「ああ、色々可哀想な人なんだな…」とスルーするかだろう。
ちなみにコレを言われた人たちは「俺、○○って言われたよ~」と笑いながら教えてくれた。特に嫌みを感じなかったので楽しんでいたんだと思う。うん、いい人たちだ。
だけど私はそこまで人間ができておらず、残念ながらこういう類の妄言を華麗にスルーする器量というものを持ち合わせていない。
で、普通は「なぜそんな地理や歴史の教科書に出てくるような登場人物ばっかりで庶民が出てこないの? 人口比率からしてもおかしすぎるだろうが!」とか「前世を云々しだしたら、魂の数が足りなくなるだろうが!」、あるいは「地球に初めて誕生した生物の前世は何なんだよ!」など、その実像を疑うところに批判の眼目が行く。真っ当な議論のあり方だと思う。
ただ、こういう論法は信じている当人には通用しないのが常である。「見えない人はすぐそういうことを言い出すのよね」と、前世が「見える」自分は優れた能力を有しており、「見えない」劣った奴らから嫉妬ややっかみを受ける、という恐ろしいまでの上から目線の価値観で不当に変換されてしまうからだ。
ということで、能力的に劣った私は、上から目線ではなく「下から」考えてみることにした。
前世が見える、とはどういうことなのか? 自分も追体験してみよう、と。
まず、友人の一人を見ているとアボリジニが見えてきたとする。
…ん? ちょっと待って。
今、さらっと「アボリジニが見えた」って言ったけど、テレビのように字幕が入らない限り、私が見ている映像は「未開の原住民らしき人」でしかない。未開の原住民と思しき人々はなにもオーストラリアのアボリジニだけではない。特に過去が見えているのであれば、素人目にはアボリジニと区別がつかない原住民はアフリカにだってゴロゴロいるだろう。少なくとも私には、(マサイ族のように有名な特徴的を持つ民族でなければ)アフリカの原住民とアボリジニを即座に見分けることは不可能である。
とすると、あの女性はよほど民族学に詳しいということになるが…そんな話は寡聞にして聞いたことがない。
平安時代の女官が見えたと言うのにしても、京都にいる女官の格好が平安時代と鎌倉・室町時代でどれだけ変わったかなんて、歴史好きでも意外と即答できないのではないだろうか?
時代を特定できるような発言があったのかもしれないが、当時は「平安時代」「鎌倉時代」などいう認識自体がなかったわけだし(いつだって人間は自分の生きている時代を”現代”と認識するものである。ただし、この当時に「現代」という言葉があったのかどうかは知らないが)、元号を聞いても日本史マニアでもない限り、即座にそれが何時代かなんて判断できない。
このように、前世と思しき映像が見えたとしても、それが何時代の何かなんて容易に特定できるものではない。
しかし、前世が見えると言う女性曰く、映像だけではなく思念も一緒に流れ込んでくるそうである。とすると、前世の考えていることも合わせて考えることで時代や何者かが特定できるということになりそうである。
しかし、ではその思念は一体何語なのか? 思念は言語を超える、というのはアニメの設定であれば許されるが、人間の認識・思考を根幹で支えるのが言語である以上、言語を解さない情報伝達(しかもその情報は「前世の自分が何者であるか」を理解させるに足る複雑な情報である)など、やはり不可能と言わざるを得ない。
百歩譲って言語を解さない情報伝達が可能だったとしても、その解釈を誤る可能性もある。アルビン・トフラーの言う「パラダイム・シフト」であり、自分と全く異なるパラダイムに生きた人々の価値観など頭で何となく理解できたとしても、実感を伴って「わかる」などと言うことはあり得ない。
そもそも、あの女性は何を以て自分が見えた映像や思念を「前世」だと断定したのであろうか。目の前にいる人に重なって何か映像が見えたとしても、それは単に「何か変な映像が見えた」ということでしかなく、それを目の前の人間の前世だと断定するためには数段階の証明が必要となる。今見ている「何か変な映像」は、目の前にいる人間の前世ではなく、隣の人間の前世かもしれないし、その場にいる地縛霊の記憶かもしれない。なのになぜ隣の人間の前世でもなく地縛霊の記憶でもなくそれが前世だと言い切れるのか。
前世があるのかどうかは私にはわからないし、証明も否定もできない。今私がここで申し上げているのは、前世が見えると言っている女性の説明の粗雑さと頭の悪さである。当人は「前世が見えるのは人生のカンニングペーパーを見てるようなものですから」とうそぶいていたが、そんな便利な物が見えていたとしてもその理解と説明がこれでは優秀なカンニングペーパーが勿体なさ過ぎるというものである。
長々と書いてきたが、要するに、私にとってオカルトとは「信じる/信じない」以前の問題なのである。つまり、「その説明が信じるか信じないかの判断のレベルに達していない」のであり、それ以前の段階で『信じられない』としか結論づけ得ない記述ミスに溢れているのである。
…と、UFOや超常現象、オカルトの類に納得できず、かといってスルーもできない自分にとって、本書はとても楽しめました(笑)
何となくこれらの事共を信じてしまいがち、という人は是非本書を読んでみて下さい。アッサリ読めるコラム形式で各種オカルトの実態とツッコミどころを教えてくれます。霊験あらたかっぽいものも意外と歴史が浅かったり、「思てたんと違う!」という実態だったり。こういう物共のカタログとしても本書は秀逸です。
単にUFOの存在や超能力を信じているだけなら問題ないのかもしれませんが、霊感商法やインチキ占い師などオカルトを絡めた消費者問題は現在も後を絶ちません。目の前にインチキ占い師が現れたときの護身用として一家に一冊常備しておきましょう。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
この本を読むことで、くだらないオカルトに騙されにくくなる。
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意外と簡単に作れるミステリーサークル、完全にコントになっているESPカードの実験、雨男・晴れ男の正体、99%実行不可能な藁人形、全ての人間の運命が書かれていると言われる「アガスティアの葉」、胡散臭さが炸裂しているヒランヤ…。ああ、素晴らしきかな超常現象! 信じる・信じないは別にして、本書で取り上げた七一の「謎」は人心を惹きつけてやまない。タロットカードに嵌るオカルト少年だった芸能界の異才が愛をこめて懐疑し、ギャグマンガ界の鬼才がめくるめく傑作を連発する決定版。
(2009年)
— 目次 —
第1章 宇宙・UFO・古代文明
第2章 超能力・疑似科学・思い込み
第3章 伝説・迷信・デマ
第4章 占い・呪い・お祓い
第5章 神様・仏様・トリックスター
第6章 印鑑・水・ヒランヤ
第7章 火の玉・幽霊・動物霊
第8章 動物・植物・U.M.A. -
「オカルトおたく」だった少年時代を経て80年代には 「キッチュ」の芸名で『お笑いスター誕生』などの人気番組にモノマネやコントで登場、現在では映画・舞台・イベント・DJ・さらには折り紙など、もうマルチすぎて本業が分からない松尾貴史が世界の「超常現象」を片っ端から笑い飛ばす。宇宙人やUFO・超能力や心霊現象、血液型や姓名判断、果てにはピラミッドパワーにマイナスイオンまで、世間一般に「何となく」受け入れられている71件の現象をナナメに分析して次々とぶった斬る内容は痛快そのもの。幅広いジャンルのあちこちに知的かつ「痴的」な用語が登場するため、内容をちゃんと理解するのには辞書とウィキペディアが手放せないほどのハードな読み物なのだが、しりあがり寿のユルい挿絵がそんな緊張感を吹き飛ばしている。
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目次を見て数えてみた。全八章七十一項目。世にインチキの種は尽きまじ、の感。
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各種超常現象をあげつらう本
取り上げているネタの数ではぴか一 -
松尾貴史氏が贈る、とんでもエンターテイメントといった本。あまたあるとんでも話を一刀両断。読んでいてすっきりする。超自然現象を否定しきれないものの、世のオカルトに胡散臭さを感じている人に最適。また、あのオカルトってどんなやつだっけというときにひもとける、オカルト大百科的な本。
以下注目点
・こっくりさん禁止に現れる、教師の事なかれ主義と思考停止。 -
ネタの幅広さにビックリ。そしてその一つ一つの適切な対応にも尊敬。インチキはインチキとしてはっきりすることも大事だが、インチキと笑いながらそれをどこかで許せるような緩さがあっても良いんじゃないかとも思ったりする。
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『新書がベスト』で紹介されていたので買った気がします。
内容は、超常現象を頭から否定するのでは無く、松尾貴史さん独特の言い回しから「科学的にも、他に説明できるのに、どうして真っ先に”霊”や”神”とやらが出てくるのか」というスタンスで話が進みます。
こういう事を覚えておけば、霊感商法などには引っかがらないかもしれません。とにかく、笑えます。 -
超常現象の批判本というか、楽しくネタにした本。感銘を受けるというほどではないが。