- Amazon.co.jp ・本 (213ページ)
- / ISBN・EAN: 9784569709833
作品紹介・あらすじ
日本人がエッセイを書く時、女は清少納言に、男は兼好になる。「枕草子」のように自らのセンスを誇り、「徒然草」のように世の中を叱って己を自慢するのだ。伝統の力の、何と偉大なことよ!希代のパスティーシュ作家が、現代まで連なる日本文学の伝統と、名作の凄さやつまらなさをざっくばらんに語る。「源氏物語」の世界文学史上稀な文体はなぜ生まれたのか。なぜ芭蕉は田舎の悪口を書くのか。なぜ漱石の小説は現代人が読んでもスラスラ読めるのか…。日本文学史の「背骨」をわし掴みにする快作。
感想・レビュー・書評
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図書館の返却期限の関係で、後半駆け足で読むことになりとてももったいない。
また時期を見て借りたいと思う作品だった。
源氏物語から見る日本人の価値観、方丈記や徒然草に見る味わいを感じる感性、
谷崎や森鴎外を読み直したいと思うきっかけになる本だった。
清水氏いわく、日本文学で世界文学全集に推したいのは、紫式部、夏目漱石、井原西鶴、谷崎、大江らしい。
私は遠藤周作をその枠に推したい。
あと和泉式部も!!詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
これを読んで文学史で点は取れないけど、有名な文学作品にどう向き合えばよいかがわかる本。10章に別れているので、興味のある所だけ読んでもよし。
著者の『国語入試問題必勝法』もおすすめです。あっパロディですから、リラックスタイムに。 -
日本文学を新たな視点で見ることができる。読んでみる価値ありの一冊です。
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第一章・短歌のやりとりはメールである、から、古典を「要するにこういうもの」と決め打ち、ざっくばらんに語っていいます。
メールと和歌の違いって、テクノロジーで見れば、電波を介してメッセージを送信するか、家人を介して短冊を届けるかだけの違いと言っても過言ではありません。(…そうなのか、俺?w)
授業で良く習う和歌集の特徴、「万葉集=素朴で雄大、古今集=技巧的、新古今=本歌取りの登場」というのも、要するに、万葉の奈良時代はメールを覚えたてで「はじめて、メールします。」と味も素っ気も無かったのが、古今集の平安時代に下ると色々馴れて絵文字を使ったりするようになり表現テクが増えてきて、鎌倉の新古今になると先行作品の集積が教養として成立しているのでパロディが生まれだした、ということなんじゃね? と大人になってから思いました。
著者の博識に支えられた身もフタもなさではありますが、個人的にはそれでもやや硬いかな? と感じました。
著者は「『枕草子』はセンス自慢」「兼好は世の中を叱る」「男は兼好に、女は清少納言になる」と指摘しているのですが、僕は、兼好は日本最古の2ちゃんねらーだと思うのです。
以前、2ちゃんねるで2ちゃん語訳の『徒然草』というのを読んだことがあります(http://goo.gl/CgDmC)。これを読んだとき初めて兼好法師が何を言いたかったのかわかりました。この「わかった」には多分に誤解が含まれているかもしれませんが、あまりに衝撃が強すぎたので、今更訂正がききません。僕の中で、兼好は説教したがりのじいさんではなく、日本最古のVIPPERと深く印象づけられてしまいました。
そう考えたら、ネットで他人のことを上から目線でああだこうだ品評・非難する言説が散見されるのも、鎌倉以来の「日本の伝統」ということに…さすがにならないか(笑)。
妙な自論を持ってたせいで、一部素直に楽しめなかった部分もありますが(orz)、「紀行文学は悪口文学」「田舎の悪口を言う美意識」など、「ほう!なるほど!」と思わされる指摘があり、高校時代にこの本に出会いたかったなぁと思わされた一冊です。
「古文は昔から苦手でどうも…」という人にこそ読んでもらいたい一冊です。 -
パスティーシュ小説の名手が、『源氏物語』から現代に至るまでの日本文学史を駆け足でたどった概説書。
まえがきには「日本文学について、気楽なよもやま話をしてみよう」とあり、各章は「雑談1」から「雑談10」と銘打たれている。
つまり、“これは文学研究者ではない一作家が語る「雑談」にすぎないのだから、学問的厳密さなんて求めないでよ”という予防線が張ってあるわけだ(書名も予防線的)。
学者ではない立場からの気楽な意見だからこそ、大胆不敵な卓見も随所にあり、なかなか面白い本になっている。
私がとくに感心したのは、「雑談2 短歌のやりとりはメールである」と、「雑談3 エッセイは自慢話だ」 の2つの章。
前者は、『源氏物語』に頻出する男女間の短歌のやりとりを、“あれは要するに現代の男女のメールのやりとりのようなものだ”と論じたもの。なるほど、とヒザを打った。
後者は、現代日本のエッセイの原型は『枕草子』と『徒然草』にある、としたもの。
そこまでならとくに目新しくもないが、面白いのは、“男性がエッセイを書くと無意識のうちに『徒然草』的になり、女性がエッセイを書くと無意識のうちに『枕草子』的になる、という指摘。
《若い頃に「徒然草」を読んだ日本の男性が、年を経て大人になり、エッセイを書いてくれと言われた時、あんなふうに世の中の愚かしさを叱っていいってことだな、と感じて、嬉しくなっちゃうのである。》
《日本の女性が書くエッセイのお手本は、清少納言の「枕草子」なのである。つまり、何が書いてあろうが、そこで言っていることをまとめてみれば、私ってセンスがいいの、という自慢なのだ。》
《日本のエッセイは、時流から外れて不遇をかこつ人が、だがしかし私にはこれがあると負け惜しみの自慢をするという伝統の中にある》
むろん、この指摘にあてはまらないエッセイだって山ほどあるはずだが、それでも、枝葉をバサバサ落として本質だけを見てみれば、「なるほど」と思わせる。著者の軽い語り口の中には、本質をグイっとつかみとる慧眼がひそんでいるのだ。
ただし、最後の「雑談9」「雑談10」は、明治後期から現代までの日本文学をあまりに駆け足で語りすぎており、総花的でつまらない。「日本文学史」という体裁を整えるためだけにつけ加えた蛇足の章、という感じ。
かつて私は、創刊当時の『SPA!』に連載されていた清水のコラム「勘違いメディア論」を読んで、「なんと面白い文章を書く人だろう」と感心した。「この人は小説が売れなくなってもエッセイスト/コラムニストとして食っていける」と思ったものだ(「勘違いメディア論」は現在、『パスティーシュと透明人間』という清水のエッセイ集に収録されている)。
本書には、清水のユーモア・エッセイストとしての資質が躍如としている。 -
『源氏物語』から現代のエンタメ作家までとてもわかりやすく、清水流にひもといてくれた。好作品である。世界の宝である『源氏物語』を持つ我が国の文化に誇りがもてる。『源氏物語』は苦労して読んだだけに、素直にうれしかった。余談もおもしろい。著者も世界文学全集持っていて、3割しか読んでないそうだが、私は6割は読んでいて、著者の知らない世界も知っていることになるので少し誇りに思った。『戦争と平和』は読む価値大いにある。
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源氏物語からSFまで、日本文学を大雑把に、わかりやすく、身もフタもなく決めつけて紹介している。
源氏物語は奇跡だ とか
平安時代の短歌のやり取りは現代のメールと同じだ とか
文学界の重鎮たちは、自分にしか興味がない とか
けちょんけちょんに文豪たちをけなしていると思えば、夏目漱石のことは大絶賛 とか
あまのじゃくだから、けちょんけちょんにけなされていた文豪さんたちの作品も読んでみたいなぁ。 -
日本で刊行される「世界文学全集」は実は「日本以外文学全集」だ、というのはおもしろい。確かにそうだ。
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