生み出す力 (PHP新書)

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  • / ISBN・EAN: 9784569791814

感想・レビュー・書評

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    西澤潤一さんの本ほんと面白い。最近亡くなったらしいけど何で知らなかったのか不思議なぐらい面白い。米国電気電子学会からは名前を冠した記念メダルを創設されるなど、電子工学分野における世界的権威らしい。電子工学とか半導体とかはノーマークだったな。



    西澤潤一
    1926年仙台市生まれ。東北大学名誉教授、岩手県立大学・首都大学東京名誉学長、学校法人上智学院顧問、上智大学特任教授。工学博士。東北大学工学部卒業後、同大学大学院特別研究生などを経て、東北大学教授に就任。専門は電子工学、通信工学。PINダイオード、静電誘導トランジスタ、光通信の基本三要素にかかわる技術の開発など、とくに半導体研究の黎明期を支えた功績から「ミスター半導体」と呼ばれる。IEEE(米国電気電子学会)からは名前を冠した記念メダルを創設されるなど、電子工学分野における世界的権威



    この延長線上にこそ独創性が芽生える、と言っても過言ではないでしょう。およそ私の知るかぎり、若いころに猛烈な努力を重ねた人は、たいてい成功しています。“情け”のみならず、苦労も修練も結局は自分のため。とくに研究者であれば、努力はきわめて大事なことだと思います。  世の中にあるものすべてが学問のもととなる知識になっていることは、私にとっては大切なことなのです。何を見ても「なぜだろう」と考える癖が身についています。

    ところが、なかには努力しているにもかかわらず、それが実らない人もいる。  その理由の一つは、意識が分散してしまったことでしょう。私自身も経験がありますが、ある時期に一つの研究に打ち込んでいても、なんらかの事情で別の仕事に取りかからざるをえないことがあります。そうすると、元の研究に復帰しても、なかなか元の場所までは戻れません。詳細を忘れてしまっているからです。そのまま進もうとしても、まとまらない雑然とした物語で終わってしまいます。

    そこで私は自戒の念をこめて、若い人には「研究を始めたら、とにかく完結するまで考えつづけろ」と言うようにしています。  同時にノウハウ的なことをいえば、メモを残すことは欠かせません。ちょっと研究を離れるときでも、それまでの成果や課題を細かく書いておく。これがあれば、戻ってきたときに「ああ、こうだったな」とただちに思い出せるわけです。  じつはこれは、同じく大学教授だった父親のアドバイスでもあります。「研究者たる者、つねにノートを持ち歩け」とよく言われました。というのも、かつて父親の後輩が、実験ノートを失くしたがために論文を書けなくなったことがあるそうです。こういう教訓があるから、ノートの重要性をよく知っていたのでしょう。

    話を私の小学校時代に戻します。  概して先生とはソリの合わなかった私ですが、ほとんど唯一、六年生の一年間だけ担任になった先生のことだけは尊敬しています。とにかく、平素からよく勉強しておられたからです。  先生であろうと勉強するのは当たり前だと思うのですが、とりあえず教える範囲だけ最低限、理解していればいいと考える横着な先生も少なくありません。こういう先生の場合、生徒がイレギュラーな答え方をしたり何か質問したりすると、たちまち 窮することになります。  その点、六年の担任の先生は違いました。深くて広い知識をもちながら、その一部を理解できる範囲で生徒に教えるというスタンスでした。

    だれでも経験があるでしょうが、まったく同じ内容を話していても、それだけが情報のすべての人、つまりセリフの丸暗記に近い人と、膨大な知識や深い見識のなかから必要な一部だけを切り取って話す人とでは、明らかにインパクトが違います。前者の話はたんなる情報にすぎませんが、後者の場合は聞いているだけでイメージが膨らむものです。  やや大げさにいえば、これが人間の幅、ないしは深みというものであり、そういう人間が集まることではじめて、真の意味での文化が生まれるのではないでしょうか。だからこそ、私たちには平素から勉強すること、考えることが必要なのです。人間が生きてゆくときの基準がまるで違ってきます。

    ところが、その真意を自覚している親は、意外と少ないのではないでしょうか。幼児期はともかく、学校に入学すると、教育は学校がするものと決めつけている親が、とくに最近は多い気がします。お金を払っているのだから当然、というわけです。  もっとも、子どもが成人して立派な仕事をしたりすると、そういう親にかぎって「すべて自分が教育した」とでも言いたげな顔をしたがるものですが。

     当たり前の話ですが、子どもは親の背中を見て育ちます。親が無自覚なことをしていると、その影響は子どもに出るのではないでしょうか。  たとえば最近、「モンスターペアレント」という言葉をよく聞きます。事あるごとに学校が悪いとクレームをつけたり、場合によっては怒鳴り込んでくる親のことを指します。一見するとわが子を守るやさしい親のようにも見えますが、それは違います。親本位の身勝手な行動としか思えません。

    サイエンスの世界でもっとも重要なのは、合理性です。論理的な矛盾があっては困る。何を考え、何を語るにせよ、これが第一条件です。  しかしこれは、すでにだれかが実証したことをなぞっていればいいということではありません。  ところが最近、気になるのは、教科書の記述を 鵜呑みにする学生が多いことです。「教科書以外に真理があるはずがない」と決め込んでいるのです。むしろまちがっていることを実証してみせるとか、せめて、ほんとうに正しいかどうかを確かめてみればいいのですが、そういう意識の高い学生は少ないのが現状です。

    こんな姿勢が定着してしまうと、たとえ教科書がまちがっていても、なんとなく正しく見えてきてしまいます。あるいは教科書に載っていないことには取り組もうとさえしなくなる。何か論文やレポートを書くにしても、いくつかの教科書や参考書の記述を切り貼りするだけ。これでは独創性 云々 以前の問題として、まったく評価に値しません。

    そもそも独創性とは、すべての事象をまず疑い、自分で確認し、そのうえで自分の信じるところにしたがって新しい事象を包括する組織を構築することだと思います。この前提がなければ、何も新しいものを生み出すことはできないでしょう。

    では「独創性」とはいかなるものなのか。鍛えて高めたり、あるいは“ものさし”で測ったりすることはできるのか。  結論からいえば、いずれも可能だと思います。見る人が見れば、「この人にはそれだけの力がある」ということはわかるのです。  その前提条件は、大きく二つあります。  一つは、ある事象について、それまでの結果や成果をすべて合理的に理解ないし納得できていること。  この部分にまちがいがあっては話になりません。その後の観察や解釈、あるいは研究の方針や計画にもまちがいが入り込んでしまうからです。  こういう人を“ザル頭”といいますが、そんな事態を避けるには、やはり一にも二にも勉強しかありません。独創性とは決して無から生まれるものではなく、これまでの研究の流れ・成果のなかから立ち上がってくるものなのです。

    ところがその後、バブル崩壊とともに世の中の意欲は急速に低落してしまいました。それを象徴するのが、東芝の半導体の優秀な技術者がこぞって韓国のサムスン電子に引き抜かれた出来事です。おかげで、世界一のシェアを誇っていた日本の半導体は、たちまち韓国に追い抜かれてしまいました。

    では、才能をどうやって発掘するか。じつはこれについては、明確な答えは何もありません。ほとんどわかっていない、と言ってもいいでしょう。  現実問題として、過去にすばらしい成果を残した研究者ほど、概して子ども時代の学校の成績は悪かったと言われます。KS磁石鋼を開発したことで世界的に知られる本多光太郎先生(東北大学名誉教授)などもその典型です。つまり、当時の初等教育では本多先生の能力を測りきれなかった。原則がまちがっていたということです。

    しかし、技術を先取りして生み出さなければならない時代、つまり創造性が求められる時代には、記憶力はかえって足かせになります。私の経験則でも、概して記憶力に長けた人間は創造力に欠ける気がします。学校にも、そういう時代に則した対応が求められるはずです。

     ところが現実には、相変わらず記憶力だけを求める試験が行われている。塾や予備校だけではなく、学校の先生までが「暗記しないと大学に入れないよ」と指導しているそうです。教育のあり方についてはあとでもくわしく述べますが、これは由々しき事態です。

    とくに受験勉強の時期は思春期でもあり、心と頭の顕著な発達期と重なっています。受験勉強によってそれが阻害されるということは、人間性の進歩も停滞させることになる。

    私が東北大学工学部の電気工学科に入学したのは、ちょうど終戦を迎えた一九四五年のことでした。ほんとうは、もっとアカデミックでロジカルなイメージのある理学部にあこがれていたのですが、工学部の教授だった父親から「おまえのようなできの悪いヤツが理学部へ行っても、せいぜい中学校の教師くらいにしかなれない。その点、工学部ならツブシがきく」と 一蹴 されて、しぶしぶそれにしたがった経緯があります。

    そんな試行錯誤の結果の典型例が、航空機の翼の後部にあるフラップ(下げ翼)です。いまでこそどんな航空機にも当たり前に装備されていますが、もともとこれを発明したのはアメリカではなく、戦時中の日本の学者、日本のロケット開発の父とされる、あの糸川英夫博士だと聞いています。空中戦で負けないための操縦性を考え抜いた結果、こういうアイデアに行き着いたのでしょう。  独創性を追求するには、まずはこういうメンタルな強さが要求されるのです。「絶対に負けられない」という気概がなければ、いいアイデアも浮かびません。

    ただし、理学部の勉強の仕方にも興味があったため、いくつかの講義を聴講させてもらいました。担当の先生に 挨拶 さえすれば、自由に出入りすることができたのです。とくに数学と物理については、よくもぐりこんだ覚えがあります。総合大学の利点を最大限に利用したといえるでしょう。

    それはともかく、米欧と軍事的に争おうなどという気は最初からありませんが、こうして優れたものをつくりたい、国民の生活を楽にしてやりたい、米欧の鼻をあかしてやりたいとは思っていました。せめてそう意気込むことが、ある種の救いになっていたのです。

    それだけではありません。仕事の進め方についても大きな影響を受けました。八木先生はもともと工学部の先生ですが、やはり東北大学の理学部でその名を 轟かせていた本多光太郎先生の研究室にしょっちゅう出入りしては、物理学の教官たちとディスカッションを繰り広げていたそうです。しかも、しばしば専門の教官たちをギブアップさせるほどに精通していました。所属が工学部でも、理学の勉強も怠らないのが八木先生の生活スタイルだったのです。

    私が言うと奇妙に思われるかもしれませんが、どんな人であれ、基礎は文系だと思います。まず人間としての生き様をつくり、そのうえで理系が得意な人には理系的な教育を取り入れていく。こういうプロセスを経てはじめて、正真正銘、理系をマスターできる人間ができてくるのです。理系しか知らないようでは、たいした人間にはなれません。

    あるいはそれ以前にも、日本には「書生」の制度がありました。自分が見定めた先生の自宅に勝手に押しかけ、住み込みで先生の身のまわりの世話をしつつ、学んでいくというものです。

    決して合理的とはいえないシステムですが、おかげで師弟の深い交わりが生まれ、学問はもとより、人としてどうあるべきかも学ぶことができた。現代の学生には理解できないかもしれませんが、そういう教育だからこそ価値があるのです。

    そこで開設した学部の一つが「ソフトウェア情報学部」。もともと情報科学という学問分野を日本で最初につくったのは、東北大学にいたころの私です。その後、ITブームもあって全国の大学が後を追うように続々と新設しましたが、その根本はコンピュータ・サイエンスです。岩手県立大学では、あらためてその部分を重点的に学べるようにしようと考えたわけです。

    こうした経緯を論文にまとめ、IT関連の社会普及に努めている「情報処理学会」に送ったところ、八人もの学生が「学生奨励賞」を受賞しました(二〇〇四年)。これは全国一位の数で、二位は東京大学の五人。  机上にではなく、現場にこそ発想の芽がある。このことがきっちりと証明されたといえるでしょう。

    こうして東北大学を訪れたその方は、お世辞の意味もあったのでしょうが、たいへん興味深い話をされました。東大、京大、東北大には、それぞれ個性があるというのです。  まず東大は官吏の養成機関として大成功を収めた。次に京大は哲学の大学であるという。まさにそのとおりで、ノーベル物理学賞を受賞された湯川秀樹博士にしても朝永振一郎博士にしても、その仕事の中身は、はなはだ哲学的です。  では東北大学についてはどう言うかと思っていたら、「理科系の大学だ」と言うのです。

    それはともかく、東北大学がむかしから理系に力を入れていたことはまちがいありません。  たとえば八木秀次先生は、工学部電気工学科の付属機関として電気通信研究所を設立されました。つまり、電気工学科と電気通信研究所の両方に教官がいたわけですが、それぞれの教官は両方を併任することになっていました。これは兼任より責任が重く、両方とも同じ割合で参画せよということです。

    ところが日本には、評価の邪魔になるような、悪しき平等主義が 蔓延 しています。

    一方、評価される側に絶対に欠かせないのが「倫理観」です。

     たとえば以前、東京都がおもに出資した新銀行東京が巨額の赤字を抱え、大きな社会問題になったことがありました。 杜撰 な融資体制もさることながら、それを放任した経営管理体制、またそのトップを人選・任命した石原慎太郎東京都知事に非難が集中したことは、記憶に新しいところです。  たしかに、石原知事の責任は免れません。ただ知事は、財界の重鎮であり一橋大学の先輩でもある人を全面的に信用し、その人から推薦された人物をよく調べもせずに就任させてしまったそうです。

    とりわけ気になるのは、教育現場が妙に優しくなったこと。だれも学生に厳しいことを言いませんし、無理にやらせようとしない。逆におもしろおかしく、落語家か漫才師にでもなったほうがいいような話し方をする先生に人気が集まったり。私が学生だったころにもそういう先生はいましたが、ほとんど 軽蔑 の対象にしかなりませんでした。むしろ愛想が悪く、ぶっきらぼうな先生のほうが信頼されたものです。  見方を換えれば、いまは最初からまじめさを欠いているということです。もっとまじめに考えれば、ゆるい教育方針やアメリカ式のプラグマティズムではダメだということくらいわかるはずです。

    たしかに社会人になってすぐに役立つ知識をもっているのは、むしろ高専の学生たちでしょう。社会的なニーズがある以上、そのような教育が必要なことは確かです。  しかし、戦後はこればかりが重視され、高専を組み入れる大学まで現れた。それに対して東北大学は、戦前から研究者の養成を第一義としてきました。プラグマティズムの観点から見れば、まさに“役に立たない学問”となるわけです。

    戦後の文部省から文科省にいたる教育改革の流れも、ずっとプラグマティズムに則ってきました。とにかくすぐ役に立つことを教えるのが中心で、大切なはずの研究がなおざりに扱われるようになったのです。

    だいたい大学と高専とでは、役割が違います。研究とは、つねに基本に立ち戻って理解・納得すること、そして基盤整備をすることにこそ意義がある。合点がいくところまでさかのぼると、今度は逆に「それならこういうことも可能ではないか」と仮説を立てられるようになる。こうして違う場所に新しい柱を立てることで、成果を生み出していくのです。いままでできなかったことが可能となるのです。

    歴史の蓄積のおかげで、世の中には優れた本がたくさんあります。むかしにくらべれば、はるかに勉強しやすい環境も整っています。しかし生活が豊かになり、あまりにも恵まれすぎているため、かえって勉強しない学生がふえてしまった。「戦争に勝つ」という意気込みで研究に臨んでいた戦前とは、まさに対照的です。  テレビを見ていたら、定額給付金の使い道についての街頭インタビューで、若い女性が「おいしいものを食べたい」と答えていたのを思い出します。「いい本を読みたい」とでも言ってくれれば嬉しいのですが、望むべくもないでしょう。

    いくらいい本はそろっていても、それを利用して新しいものをどんどん生み出そうという気概はない。それが悲しい現状だと思います。

    たとえば、むかしの日本の学校では、子どもにビンタを加えることは茶飯事でした。それはルールとしてビンタを奨励したわけではなく、長年の経験のなかで、そうしたほうが教育上いいとわかっていたからこそ実践していたのです。  ところがいまは、教師が生徒にビンタなど加えれば大問題になります。私はべつに暴力を礼賛するわけではありませんが、いまの日本は、妙に子どもをかわいがりすぎている。頭をコツンと叩かれないからではありませんが、アタマが痛めつけられていないのです。もっとアタマを使いこなすような、そういう教育が求められていると思います。

    野中広務さんが政界から身を退いた直後に出された著書『老兵は死なず』(文藝春秋)のなかに、「このごろの政治家は何を言っているのかわからない。自分の考え方というものをもっていない」といった趣旨の話がありました。日本のリーダーたる政治家ですらそうなのです。大学の研究者にしても似たようなもの。アメリカ発の言説を鵜呑みにする人ばかり。これでは、独創性の芽は生まれるはずもありません。

    ひるがえって日本人の場合、常識への自信のなさが、教科書信奉とでも言うべき姿勢に表れているように感じます。とにかく前例や既存の思考、とくに紙に書かれたものを必要以上に 奉る傾向があるわけです。  逆にいえば、書かれていないことは重視しない。だから法律さえ守っていれば何をやってもいいと考える。それが 姑息 さを生むとともに、社会を豊かにするようなブレイクスルーを生み出しにくくしているのではないでしょうか。

    すると現地の方は「日本にしかないものもありますよ」と言って私を励まし、その例として城をあげました。たしかに日本的な城は韓国にはありません。これが日本で独自に発達したのか、あるいは別の国から来たものをアレンジしたのかは知りませんが、彼に言わせれば「日本文化は韓国文化を単純に真似したものではない」ということです。

    たとえばハワイにある博物館には、ミクロネシアの島々に伝わる大きな石像などが集められています。これらを見ると、まったく同一ではないものの、明らかな類似性がある。人も文化もタイあたりから出発し、島づたいに 伝播 しながら変化した結果だとされています。

     ――だれにでも絶対に他人に負けない優れた天分がある。ただし本人はもちろん、親にも学校の先生にも、それが何かはわからないものだ。必死の努力を続けた者だけが、ある日突然、自分の優れた天分に気がつくのだ。君たちはまだ若い。ぜひ人事を尽くして、自己の天分を発見するという人間最大の悦びに出会ってほしい。

    本書がみなさんにとって、何かしら新しいものを生み出すための触媒になることを祈ります。

    IEEE(米国電気電子学会)からは名前を冠した記念メダルを創設されるなど、電子工学分野における世界的

    西澤 潤一(にしざわ じゅんいち、1926年9月12日 - 2018年10月21日)は、日本の工学者。東北大学名誉教授。日本学士院会員。 専門は電子工学・通信工学で、半導体デバイス、半導体プロセス、光通信の開発で独創的な業績を挙げた。半導体関連の特許保有件数は世界最多である[1]。

    来歴
    編集
    宮城県仙台市出身。西澤恭助(東北帝国大学教授)の第二子、長男として生まれる。西澤泰二(東北大学名誉教授)は弟。
    1945年4月、内申書だけで東北帝国大学工学部電気工学科に入学した。西澤の本心は理学部へ行って原子核の研究か数学基礎論を希望していたが、父親から許されなかった[2]。父恭助は1995年に103歳で亡くなるまで西澤を子供扱いし、言う事は絶対だったという。
    卒業研究で研究室を選ぶ時、父親の恭助(工学部化学工学科教授)から電気工学科教授の抜山平一に相談がなされた。抜山は渡辺寧の研究室を推薦し、西澤はそれに従った。この事が西澤が半導体固体素子の研究の道に進むきっかけとなった[3]。
    渡辺寧に師事。渡辺は当時国内の電子工学研究の指導的立場にあり、米軍関係者との接触により米国での半導体研究の情報、ベル研究所での点接触型トランジスタの発明(1947年)の報を国内でいち早く入手する事ができた。西澤が研究者としての歩みを始めた時期は、ちょうど渡辺が半導体の研究を開始した時期と一致する。
    工学部卒業後、当時存在した制度である大学院特別研究生に採用される。この時期の1950年に西澤独自のpin接合構造を考案し、半導体デバイスとしてpinダイオード、静電誘導トランジスタ、pnipトランジスタを発明する。また半導体プロセスとして重要なイオン注入法も発明している。
    新規の学説を発表した西澤であったが、学界では定説とは異なっているとして攻撃を受けた。渡辺はこの状況に配慮し、西澤の書き上げた論文を渡辺が預かり対外発表を控える時期がしばらく続いた。
    大学院特別研究生を修了後、東北大学電気通信研究所に任用される。以後定年退官まで同所で研究開発と教育に従事する。
    西澤、渡辺らの持つpinダイオード等の特許権を元に財団法人半導体研究振興会(1961年 - 2008年)を設立。産業界からの寄付を得つつ、事業として半導体研究所を設立した(1963年)。大学の外部でも西澤が主導して研究が進められた[4]。
    西澤の指導した学生にフラッシュメモリー発明者の舛岡富士雄、MEMS研究者の江刺正喜、メモリ研究の小柳光正らがいる。西澤の研究室に所属した教員として半導体プロセスとクリーンルーム研究の大見忠弘がいる。
    また、愛弟子の一人に、スタンフォード大学教授の中村維男がいる。 彼の主たる研究内容の一つは、今日まで、特に米国スタンフォード大学にて、Professor Michael J. Flynnと共に、現存のコンピュータの低消費電力下での処理速度増強のための、マーチングメモリ(記憶情報超高速内部移動形メモリ)の研究に従事し、成果として数多くの国での特許、計29件を取得。他方、2020年、現存のコンピュータのプログラムでの稼働が可能となる“世界初の量子コンピュータの設計理論”の確立を完成。この研究から派生して、ハイゼンベルクの不確定性原理に対する疑問を投げかける理論的考察結果を示し、今後の物理学の在り方を示唆した。全ての研究を通しての、査読付き論文数346編。代表著書としては、英国物理学会(Institute of Physics)から出版の、”Simplified Quantum Computing with Applications”が挙げられる。

    * 西澤潤一研究室ではないが、外様の弟子としてシンラタービン(Shinla Turbine)発明者の齋藤武雄がいる。

    日本学士院賞受賞に当たって直接の面識や指導を受けた事のない八木秀次の推薦を受けている[5][3]。
    東北大学を退官後は東北大学、岩手県立大学、首都大学東京で学長を歴任し、大学経営に従事する。
    2018年10月21日、仙台市で死去。92歳没[6][7]。
    業績
    編集
    半導体電子工学分野で独自の半導体から絶縁体へのホットエレクトロン注入理論を考案し、それに基づいてpn接合に絶縁体(i:insulator)層を挟んだpin構造を持つ電子デバイスであるpinダイオード、静電誘導トランジスタ、静電誘導サイリスタ等を発明する。
    半導体への不純物導入手法としてイオン注入法を発明。半導体の結晶成長においてエピタキシャル成長の各種手法を開発した。またこれらに使用する製造装置に関する技術でも特許を多数取得している。
    半導体の結晶成長技術の成果として高輝度発光ダイオード(赤色、緑色)を開発した。
    光通信の3要素である発光素子、伝送路、受光素子を開発する。
    2002年、米国電気電子学会(IEEE)は、西澤の名を冠した「ジュンイチ・ニシザワ・メダル(Jun-ichi Nishizawa Medal)」を電気事業連合会の後援によって設立し、電子デバイスとその材料科学の分野で顕著な貢献をした個人・団体を顕彰している[1]。
    西澤の研究に近い所で、光ファイバーの研究でチャールズ・カオが2009年にノーベル物理学賞を受賞している。光ファイバーの研究史については光ファイバー #歴史を参照されたい。[8][9]。
    詳細
    この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2017年8月)
    主な業績として次のものが挙げられる。

    半導体から絶縁体へのホットエレクトロン注入理論(1950)[10]
    PINダイオードの開発(1950)
    イオン注入法の開発(1950)
    静電誘導型トランジスタの開発(1950)[11]
    pnipトランジスタ(1950)[12]
    電子なだれ電流増幅トランジスタ開発(1951)
    化学量論的組成制御法の開発(1951)
    半導体中のなだれ現象の発見(1952)
    アバランシェフォトダイオードの開発(1952)
    pinフォトダイオード(1953)
    pnipドリフトトランジスタ(1954)
    走行時間負性抵抗トランジスタ(1954)
    エレクトロエピタキシの発明(1954)
    半導体レーザーの発明(1957)(1957年 日本国特許出願)・開発
    レーザーディスクの原理(1957)
    半導体インダクタンスの発明(1957)
    タンネットダイオード(1958)
    可変容量ダイオード(1959)
    フォトカプラ(1960)
    温度差法によるシリコンのエピタキシャル成長(1963)
    分子振動、格子振動(フォノン)を利用したテラヘルツ波発生の提案(1963年)
    集束型光ファイバー(GI型光ファイバー)の開発(1964)
    FETの飽和特性解明(1968)
    静電誘導サイリスタの開発(1971)
    MOSSITの提案(1971)
    GaAs(ガリウム砒素)の蒸気圧液相成長法(1971)
    蒸気圧制御温度差液相成長法の発明(1972)
    バリスティックトランジスタ(1973)
    ストイキオメトリ制御された結晶成長法(1973)
    高輝度赤色発光ダイオード(GaAlAs)(1976)
    高輝度緑色発光ダイオード(GaP)(1976)
    光サイリスタ(光トリガサイリスタ)(1984)
    光励起エピタキシャル成長法(1984)[13]
    静電誘導トランジスタ-集積回路(1984)[14]
    光励起分子層エピタキシャル成長法(PMLE)(1984)[15]
    両面ゲート静電誘導サイリスタ[16]
    GaAs完全結晶成長法[17]
    テラヘルツ波による癌診断、がん治療の提案(2000年)
    受賞歴
    編集
    1965年10月19日、科学技術庁長官奨励賞「不純物不均一半導体」[12]
    1966年4月22日、恩賜発明賞「不純物不均一半導体」
    1969年12月1日、松永賞「半導体デバイスの研究」
    1970年11月2日、科学技術庁長官奨励賞「半導体メーサー」
    1971年4月13日、大河内記念技術賞「合金拡散法によるシリコン可変容量ダイオードの開発」
    1974年6月10日、日本学士院賞「半導体及びトランジスタの研究」
    1975年4月15日、科学技術功労賞「静電誘導電界効果トランジスタの開発」
    1975年5月10日、電子通信学会業績賞「新しい三極管特性を有する高性能トランジスタ」
    1975年10月1日、東北地方発明賞宮城県支部長賞「位置の制御装置」
    1980年3月10日、大河内記念技術賞「高輝度発光ダイオードの連続成長技術の開発について」
    1980年10月3日、特許庁長官奨励賞「連続液相成長による半導体デバイスの製造方法及び製造装置」
    1982年7月7日、井上春成賞「高輝度発光ダイオードの連続製造技術」
    1983年12月6日、IEEEジャック・A・モートン賞「SIT(静電誘導トランジスタ)の開発と光通信の基本3要素」[18]
    1984年、朝日賞「光通信と半導体の研究」[19]
    1986年、本田賞、「pinダイオード、静電誘導トランジスタなどを発明したほか光通信技術の応用発展に寄与」[20]
    1989年、IOCG(国際結晶成長機構)ローディス賞[21]
    1996年、大川賞、「材料科学の独創的研究と半導体工学の発展および光通信の先駆的業績と多大な貢献」[22]
    2000年、IEEE エジソンメダル[23]
    栄典・顕彰
    編集
    1975年10月29日、紫綬褒章「完全結晶と静電誘導トランジスタ」
    1983年11月3日、文化功労者(半導体工学)
    1989年11月3日、文化勲章(電子工学)
    1990年、宮城県名誉県民
    2002年、西澤の業績を記念してIEEE Jun-ichi Nishizawa Medalが創設される。[24]
    2002年、勲一等瑞宝章[25]
    略歴
    編集
    詳細
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    学歴
    片平丁尋常小学校卒業
    1943年3月 宮城県仙台第二中学校卒業
    1945年3月 第二高等学校卒業
    1948年3月 東北大学工学部電気工学科卒業
    1953年 東北大学大学院特別研究生修了
    1960年 工学博士(東北大学)
    職歴
    1953年4月 東北大学電気通信研究所助手
    1954年5月 東北大学電気通信研究所助教授
    1962年12月 東北大学電気通信研究所教授
    1983年4月 東北大学電気通信研究所長(1986年3月まで)[26]
    1989年4月 再び、東北大学電気通信研究所長(1990年3月まで)
    1990年
    4月 東北大学名誉教授
    11月 東北大学総長(大谷茂盛総長の在職死去に伴い就任)[27]
    1998年4月 岩手県立大学学長[28]
    2005年
    4月 首都大学東京学長[29]
    8月 岩手県立大学名誉学長
    8月 上智大学特任教授[30]
    学外における業歴
    1968年5月 財団法人半導体研究振興会 半導体研究所長
    1997年
    4月 東北自治総合研修センター館長
    9月 宮城大学名誉学長
    1999年 東北大学電気系同窓会会長[31]
    人物
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    小学校入学前のエピソードとして、「1+1はなぜ、2になるのだろう?」というようなことをいつも考えていた。例えば「りんご1個とみかん1個を足すと何個になるでしょう?」といった問題があるときに、普通の考えでは当然答えは2個となる。しかし西澤はこれを本当に2個と言えるのかと疑った。なぜなら、りんごとみかんはあくまで別の物体であり、一緒にする(足す)ことはできないと考えたからであった。[10]
    小学生の頃から絵画を描くのが趣味で、仙台第二中学校(旧制)で絵画部に入部している[2]。後年14歳~24歳の間に121枚の水彩画やペン画等を残していることが発見されているが、それ以後は研究に忙しく自ら筆を執る事は叶わなかった[32]。
    クロード・モネの愛好家でもある。1971年に、パリのマルモッタン美術館を訪れたところ、水面に空が映っている睡蓮の絵が上下逆さまに展示されていたことに気付き、翌年もそのままだったため、その旨を指摘し『ル・モンド』紙に取り上げられたことがある。
    西澤は著書、講演等において「独創」を説いた。独創とは他者に追従することではなく、自ら未開の境地を開拓することである。「独創を成すには異端であらねばならない」とも語っている。 半導体研究の初期に文献にあった黄鉄鉱による固体増幅素子(トランジスタ)の実験に失敗し[33]、明るい発光ダイオードの実現は不可能との定説を覆して高輝度赤色発光ダイオードを開発し[34]、ガラス(誘電体)中に光波を通す光通信を提唱して学界の権威に論難された西澤らしい哲学である。懐疑主義を勧めていた[35]。
    西澤は特許を多数出願しているが、弁理士に依頼せず自ら出願書類を執筆している。光ファイバーの特許もこのため書類不備で特許庁に差し戻しされた。やっと特許出願公告が出ると、今度は異議申立を受け、拒絶査定ととなった。特許庁との裁判の係争は長期化し、期限切れの憂き目に遭っている。
    日本企業が日本人研究者(の業績)を軽く扱うことに不満を露わにしている。自身もPINダイオードについて、米国で特許を持つゼネラル・エレクトリック(GE)よりも先に日本で特許を出願し成立していたのに、日本企業はろくに特許の調査もせずGEに特許料を支払っていたばかりか、日本では西澤の特許が有効であることが知れ渡ってからも特許料をほとんど払ってもらえなかったという経験をしている。結局、前述の半導体研究振興会の設立時に、同特許を元に企業から出資(計7000万円)を得たものの、西澤曰く「向こう(GE)に払っていた分と比べたら随分ディスカウントさせられた」という。このため、日本の技術開発の問題として「日本人に独創性がないのではない。同胞の成果を評価しないし工業化もしないのが問題」だと語っている[36]。
    若い頃から8ミリフィルムで映像を撮影するのが趣味だった。古いものは昭和30年ごろの研究室の映像などもあり、それらのフィルムは西澤の研究室に資料として残されている[37]。
    1970年代中期には、韓国・サムスン会長のイ・ビョンチョルが、日本訪問の際に教えを求めて西澤が教授として在籍している東北大学に何度も訪れた。1990年に西澤は半導体産業を主導する国家が日本から韓国に移り、中国を経てベトナムへと移行すると発言した。そのため、2018年に朝鮮日報は「一種予言のような言葉」だとしている[1]。
    天才研究家によると、アルバート・アインシュタインの偏差値が187.575であるのに対して、西澤潤一の偏差値は、171.638である。[要出典]
    アメリカ電気電子学会(IEEE)は、Nishizawa Medal制定の時のステートメントで、”IEEE Spectrum recognized him as one of the geniuses of the 20th century”(アメリカ電気電子学会は、西澤潤一を20世紀の天才の一人と認める) と述べている。
    家族
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    父方祖父は竹本油脂創業家・7代目竹本長三郎(泰助)。
    父方養祖父・西沢金次郎は、東京牛込の地主。金次郎は薬屋の邑田資生堂の丁稚から番頭に出世し、主家の娘(店主の妹)ふじと結婚、独立後土地を買って大家業を始め、成功した[38]。旧姓を阿部といい、貧乏士族であった元金沢藩士・西沢家の戸籍を買い、西沢姓を名乗るようになった[38]。阿部家の遠縁に佐々木勇之助、野村光一がいる[38]。
    母方祖母のやゑも邑田資生堂の娘で、金次郎の妻の妹[38][39]。邑田資生堂は明治時代に元祖資生堂からのれん分けした一店[40]。
    父の西沢恭助(1892-1995)は竹本油脂代表・7代長三郎の二男として生まれたが、旧制八高卒業後、子供のなかった西沢金次郎の養子となった[41]。九州帝国大学工学部応用化学科を卒業し、1922年同大初の工学博士となる。同大勤務ののち、東北帝国大学助教授(のち教授)に就任、油脂分解剤と硫酸化油の開拓的研究を進め、1928年にその研究発表を行ない、1935年には実家の竹本油脂で界面活性剤製造の技術指導を行なった[42][43]。第10代工学部長に就任し、1955年に退官、103歳で没した[44]。
    弟に西澤泰二
    妻の竹子は早川種三の次女。種三の母方従妹の子に盛田昭夫。
    はとこに、作曲家・編曲家・シンセサイザー奏者の冨田勲がいる[45]。
    その他役職
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    日本学術振興会21世紀COEプログラムプログラム委員会委員(2006年度)
    社団法人日本工学アカデミー名誉会長
    社団法人先端技術産業戦略推進機構会長
    財団法人松前国際友好財団理事
    財団法人斎藤報恩会理事
    財団法人警察協会理事
    財団法人東北大学研究教育振興財団理事長
    社団法人学術・文化・産業ネットワーク多摩理事
    財団法人カシオ科学振興財団理事
    國語問題協議會評議員
    社団法人日中科学技術文化センター名誉会長
    財団法人2007年ユニバーサル技能五輪国際大会日本組織委員会副会長
    財団法人尾崎行雄記念財団評議員
    財団法人東北開発記念財団理事
    日本ヒートアイランド学会最高顧問
    財団法人科学技術交流財団顧問
    財団法人全日本地域研究交流協会顧問
    社団法人原子燃料政策研究会会長
    財団法人七十七ビジネス振興財団理事
    財団法人半導体研究振興会理事
    財団法人地球環境戦略研究機関顧問
    財団法人マツダ財団評議員
    特定非営利活動法人全日本自動車リサイクル事業連合名誉顧問
    文理シナジー学会顧問
    特定非営利活動法人ITSSユーザー協会会長
    財団法人インテリジェント・コスモス学術振興財団理事長
    財団法人世界平和研究所顧問
    著書
    編集
    『闘う独創技術』(日刊工業新聞社) 1981年5月 ISBN 4526012475
    『愚直一徹 - 私の履歴書 -』(日本経済新聞社) 1985年10月 ISBN 4532093910
    『独創は闘いにあり』(プレジデント社) 1986年2月、のち新潮社(新潮文庫) 1989年2月
    『西澤潤一の独自開発論』(工業調査会) 1986年3月 ISBN 4769350155
    『「技術大国・日本」の未来を読む』(PHP研究所) 1989年9月 ISBN 4569525334
    『私のロマンと科学』(中央公論社、中公新書) 1990年3月 ISBN 4121009665
    『独創教育が日本を救う』(PHP研究所) 1991年8月 ISBN 4569532748
    『人類は滅亡に向かっている』(潮出版社) 1993年12月 ISBN 4267013438
    『東北の時代 - もはや一極集中の時代ではない』(潮出版社) 1995年4月 ISBN 4267013829
    『教育の目的再考』(岩波書店) 1996年4月 ISBN 4000044303
    『新学問のすすめ - 21世紀をどう生きるか』(本の森) 1997年9月 ISBN 4938965011
    『背筋を伸ばせ日本人』(PHP研究所) 1999年6月 ISBN 4569606091
    『人類は80年で滅亡する』(東洋経済新報社) 2000年2月 ISBN 4492221875
    『教育亡国を救う』(本の森) 2000年8月 ISBN 4938965275
    『赤の発見 青の発見』(白日社) 2001年5月 ISBN 4891731028
    『日本人よロマンを』(本の森) 2002年10月 ISBN 4938965453
    『戦略的独創開発』(工業調査会) 2006年4月
    『生み出す力』(PHP研究所、PHP新書) 2010年8月
    『わたしが探究について語るなら』(ポプラ社) 2010年12月 ISBN 9784591121429

  • 言わずと知れた「独創の雄」西澤潤一先生のエッセイ。「進みすぎているから」「見るところがない」と助成枠を外れたエピソードはただただ呆れるばかり。

    もちろん文科省の裏には財務がいるんだろうが。

    なお最後の章でプラグマティズムに毒された、というタイトルで割かれているが、これは藤井先生の言うような深い意味合いでのそれではなく、簡単な仕事に適応するためだけの教育が東北大でなされたことで、モーターやラジオのような「役に立つ」が作れる「優秀な」学生が量産されてしまったことを引き合いに出されており、要するに若干浅い理解で使われてる。

    要するにマニュアル志向への批判。

    イギリス人の憲法や法律は非常に不完全であるが、それは国民の常識で補いうるのに対し、日本人の場合常識に対する自信のなさが教科書やマニュアル頼みの姑息な態度に顕れるという意見も腑に落ちるところ。

  • 著者は電子工学の世界的権威。
    東北大学の名誉教授です。

    この本は、学者・研究者の方が読めば面白いのかもしれませんが、自分の思う事が何より正しいという傲慢さを感じました。
    高専卒の私としては、言われた図面をすぐ引ける高専卒と東北大卒と一緒にするな的な内容が書いてあるのが特に気に入らないですね。
    どんなに立派な研究も製品として世の中に出てなんぼです。
    論文・パテントだけがあれば良いわけではなく、製品を造る人間も必要なわけです。
    私の周囲にも東北大学卒の人が多くいますが、彼らにはそういうおごりがないことが良かったと思っています。

  • 制度の矛盾と戦ってきた様子が興味を引く。
    少なくとも今の超短期で結果を求める研究の方法だとゆくゆくは行き詰るような雰囲気だけは伝わってくる。

    なによりも、何か悪いことはヨーロッパでもアジアでもなく、アメリカで起きるという指摘がおもしろい。

  • あとがきが良かった。

  • 西澤さんを顧問として迎え入れた上智大学はすごい。
    科学技術を見ても安穏としている場合ではない。いつでもどこでも何かが出てくる可能性はあるといった姿勢で望必要がある。
    一にも二にも勉強しかない。
    独創性は決して無から生まれない。
    東芝の半導体技術はすべて韓国に持っていかれた。日本をダメにしたのは日本の会社の体質。技術者を生かし切れていない。
    国家として重要なのは、国籍、性別を問わず才能のあるものを発掘し、伸ばし、働いてもらうこと。それによって国際競争から国民を守れるかどうか。
    20世紀の三大発明は、トランジスタ、コンピュータ、レーザー。
    英語なんかできたって、中身がなくちゃダメ。
    若者の理系離れと言われているが、そもそも人間は文系で、まず人間としての生き様を作り、そのうえで理系が得意な人はそっちに行けばよい。理系しか知らないようではたいした人間にはなれない。人間の清張には無駄が必要。
    世の中には、学問に基づかず、わかったような気になって、あとで失敗に気づくケースがよくある。
    歴史の蓄積のおかげで世の中にはすぐれた本がたくさんある。昔に比べれば勉強しやすい環境になっている。
    アメリカの学者は研究者ではなくて、ビジネスマン。
    アジア、ヨーロッパには教育に倫理がある。

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