当たり前と思ってきた、一戸建てや集合マンションの密室性、独立性が実は地域社会を分断する形態になっていたとの主張に、あらたな視点をもらった。
特に2つ。
一つは、官僚的なインフラストラクチャが個別の家庭を覆い、家庭間のつながりを分断している。コミュニティが形成されるのを阻害している作りとなっている。筆者は建築設計を通して、小さなコミュニティが自然に育まれる方法を模索している。
もう一つは、形が人間に与える影響。住宅は土台と柱と壁、そして屋根があればとりあえずの体裁は整う。解体はあっけないほど短期間になされる。そのような儚い物体の集まりにすぎない住居に人間が住まうとき、人はその住居にもっと大きな意味を持たせ、内と外を分断する装置として無意識に認識している。そこに大きなアフォーダンスが働いている。
▼以下、メモ。
* 家庭は住居という物理的な仕切りによって、区別される。形をとどめ、育まれ、守られる。
* 仮設住宅群の中心に「みんなの家」として共有スペースを設け、その中心に囲炉裏端を設けている。仮設住宅での生活はおそらく大変なものだろう。しかし、その囲炉裏端で過ごす避難住民の姿は、むしろ羨ましいほどにイキイキとして見える。
私が囲炉裏端にある種の意味付け、ラベリングして勝手に憧れているに過ぎないのは承知である。しかし、そのような憧れる気持ちを少しでも喚起する物質的な環境の設計は、無意味ではない。むしろ想像を遥かに超えて大きな意味とインパクトを持っている。
* 開かれたスペースの多い最近の住居デザインはとても心ひかれるものである。同時に、そこに住むことを想像して、なんとなく現実味がなくて浮遊している感覚に襲われるのも事実である。なぜだろう?ただなれているからに過ぎないのであろうか。
先日、Yahoo! Japanが提供するコワーキングスペース、Yahoo! Lodgeに行ってきた。ハンモックや幼児向け遊具を想起させる小さな家タイプのテーブルと椅子など、既存の枠からはみ出す遊びごころに満ちた空間という印象だった。一番多いのは通常のテーブルだが、そのテーブルも木目調だったりして、普通のオフィス、つまり青白い蛍光灯に白い長テーブルのような仕事環境とは異なる空間を生み出していた。実際に作業してみて、心理に与える影響は大きいことを実感したばかりである。
身体で感じた体験を考え合わせても、住居のデザインが人間心理、ひいては行動に日々時々刻々と与える影響は、相当大きいものであることを再認識した。
* 食堂が果たす役割は大きい。人は食事を取る。共にとることの影響は大きい。互いに影響を与える。食事をシェアし、言葉を交わして情報を体験を共有し、関係を深める。深まった関係から、新しい展開が生まれていく。プライベートとパブリックが段階的に建物の中で分かれている。
* アイドルタイムをシェアするという発想。
▼以下、引用。
『すでにその破綻が明らかな「一住宅=一家族」システムではなくて、エネルギーインフラや交通インフラやゴミの処理や上下水道や防災や教育や社会福祉を含めた自前の地球インフラのようなシステムに、住民自らが関わることができるとしたらそれが「コミュニティ」という空間です。コミュニティという空間とともに、今、官僚機構に丸投げになっているインフラシステムや福祉システムにも関わることができる、そうしたコミュニティ・システムの設計の問題なのだと思います。このシステムの設計のためには、そのコミュニティが経済圏をその内側に含んでいることが重要です。それがどんなに「小さな経済圏」であったとしてもです。そこに住む人達が同時に働くひとであり、地域の経済に参加する人だとしたらコミュニティはただ ”みんなで仲良く” ではなくて、そのコミュニティの意志決定にかかわるという、本来的な意味でのコミュニティの概念を取り戻すことができるようになると思うのです。』
『社会インフラは、縦割りになった官僚機構の独占になってしまっていますが、それはまさに官僚機構によるインフラの私物化です。私物化という意味はそこに住んでいる人々の意志とは全く無関係に、そのインフラ計画を官僚機構の内側だけで自由に裁量しているという意味です。住宅とともにそうした社会インフラを設計する。それが「地域社会圏(Local Ccommunity Area)」という考え方です。このような考え方はどうデザインできるのか。この思想はどのように物化(materialization)できるのか。それは私たち建築家の責任でもあると思います。』
経済活動を含んでいるからこそコミュニティは可能なのだという発想
『「内側の幸福」のための住宅ではなくて、そこに住む人々が、相互に関わり合うことができるような住宅は可能なのか。相互に関わり合うことが煩わしいと思うのではなく、むしろお互いに助け合って住むのが当然であるというような集合の理論は考えられないか。それが考え方の発端であった。』
SOHO住宅
用途を複合させて中間領域を作る
3つのボリュームをずらしながら積み重ねる。
食堂、スタジオ、寝室、路地、シェアオフィス
初代シェフの時は深夜まで営業しており、食堂では居住者が帰りがけにシェフと会話を交わしたり、もちろんご飯を食べたり、朝に頼んでおいたパンを受け取ったりという光景が見られた。まるでずっと昔からそうであったように、実に自然な使われ方であった。居住者が不在のときには、代わりにシェフが宅配便を受け取ることもあった。
カウンターはあえて低めに作り、シェフの手仕事が見えるようにした。
「小さな経済」とは、個人の仕事特技、趣味などを通じて、他者とかかわろうとする営みのことを指している。生計を立てる生業という意味での個人経済活動はもちろん、特技や趣味が高じての副業的な活動も含んでいる。
住み開き
特別な集客をする必要もなく、フェイスブックで告知をすれば、その一日シェフのいろいろな知り合いが集まり、即席のコミュニティができあがっていた。
小さな経済の事例
住宅に小さなお店や事務所が付随している形のものが多い
注目すべきは、個人の楽しみを伴う小規模の生業が、地域の交流を生み出しているという点である。これらは大儲けできないかもしれないが、自己充足や親しみのあるやり取りが補填する形での「小さな経済」活動である。もともともっていたスキルを活用したり、趣味や特技が高じてセミプロ的なスキルにまでなってしまったり、経緯はいろいろ。このようなスキルを多少の金銭や他人のスキルと交換しあっている。何らかの交換を前提にしているので、それなりの持続性もある。顔見知りということがもたらす安心感や気さくさも重要
インターネットの恩恵
建築の形態で雨水を集めて利用する
2つの循環を重ね合わせる
一人ひとりの天水桶に雨水を一時的に貯めることで温熱環境上の効用につなげようとしている。それも楽しみを伴う形で。
この建築はそのための形態を持つ。
人的な交流のために「開く」ことと、心地よいから「開く」ことを重ね合わせる。「小さな経済」というSocialな循環の場を、Ecologicalな循環の中に位置づけようということである。
今の住宅はサラリーマン(賃労働者)のための住宅である。私たちは、建築家に限らず、社会学者も経済学者も政治学者もそれが唯一の住宅モデルだと思いこんでしまっている。「一住宅=一家族」モデルである。「一住宅=一家族」という住宅は賃労働者の家族が住むためにのみ開発された特別仕様の住宅なのである。それが日本の標準的な住宅だ、日本人はみんなそういう住宅に住んでいると思い込んでいる。そして、今の社会はそうした住宅を前提にして組み立てられている。交通インフラも、エネルギー・インフラも、社会保障制度も。今の日本の社会制度が「一住宅=一家族」モデルを前提として組み立てられているのである。
賃労働がこれからも最も有力な働き方なのだろうか。
分離・専業化が近代化の手法だとすれば、根幹は「一住宅=一家族」システムであり、各家族のための居住専用住宅はそのシステムの申し子である。