戦争の罪を問う (平凡社ライブラリー)

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制作 : Karl Jaspers  橋本 文夫 
  • 平凡社 (1998年8月発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (232ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784582762563

戦争の罪を問う (平凡社ライブラリー)の感想・レビュー・書評

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  • せめてこれくらいは考え込んでから隣国に文句を言おう。

  • 日本人が戦争を語るのとは異なる語り方で戦争を語る本。ヤスパースの語り口はレヴィナスのそれにとても近いと僕は感じているが、ヤスパースは「ドイツ人」として加害者であるという意識を明確にしたうえでそれでも誇り高きドイツ人としてドイツ人を愛するという立場をとる。

    日本人は悪かった。日本人は悪くない。このような一意的な語り口が多い中、とても成熟した卓見だと思う。大人はyes but,と上手に言えるほうがよい。

    「われわれは語り合うということを学びたいものである。つまり自分の意見を繰り返すばかりでなく、相手方の考えているところを聞きたいものである。主張するだけでなく、全般的な関連を眼中に置いて思索し、理のあるところに耳を傾け、新たな洞察を得るだけの心構えを失いたくないものである。ひとまず相手方を認め、内面的にためしに相手方の立場に立ちたいものである。いやむしろ自分と反対の説を大いに探し求めたいものである。反対者は真理に到達する上からみて、賛成者よりも大事である。反対論のうちに共通点を捉えることは、互いに相容れない立場を早急に固定させ、そういう立場との話し合いを見込みのないものとして打ち切ってしまうよりも重要である。
     明確な判断を思い入れよろしく代弁するのは容易であるが、心静かに物事を見きわめ、あらゆる対象の知識を具えて真理を洞見するのは、なまやさしいことではない。頑固な主張を掲げて精神的な交流を断つのは容易であるが、絶えず主張を乗り越えて真理の根基に深く入り込むのは、なまやさしいことではない。一つの意見を取り上げてしっかと掴まえ、もはやこれ以上の思索は御免こうむるというのは容易であるが、一歩一歩とまた前進し、どこまでも問い進むことを決して拒まないということは、なまやさしいことではない。
     何ごとをも、まるで大見出しのプラカードのような形で始めから用意しておく傾向を斥けて、大いに思索しようとする心構えを取り戻さなければならない。そのためには、誇りとか絶望とか憤激とか横柄さとか復讐心とか軽蔑とかいった感情に我を忘れることなく、こうした感情を冷却させて、どういうことが現実的な事実であるかを見ていく必要がある。真理を見きわめるために、愛の心をもって世に生きるために、そういった感情の発動を抑えなければならない」

    他にも引用したいところはたくさんあるが、きりがないのでやめておく。これは1945−46年(戦後)、「ほれみたことか」とドイツ人を、ドイツを糾弾する内外の「居丈高な」声に対するヤスパースの語り口である。まるで今の我々に対して語られる語り口としか聞こえない。

    原発問題に対する議論が「居丈高」になっている。「ほれみたことか」と他者を罵倒する語り口ばかりが目に付くようになる。僕はラージメディアについて半絶望的であったが、昨今のブログ、ツイッターといったスモール・メディアの罵倒的語り口にもややうんざりである。その語り口はまるでラージ・メディアの一番いけないところそのもののエピゴーネンではないか。男の悪いところばかりを真似して鼻息の荒い(昔の)フェミニストや、反権力を唱えたリベラリストが権力奪回してディクテイターになるのと同じである。

    昨日辺境ラジオを聞いていたが、なかなか興味深かった。ある政治家が、内田樹さんに会って菅直人と現政権をボロボロに非難していた。内田さんが「ではあなたが総理だったら、どういう対応をしていましたか?」と訊いたらその政治家は「そういう仮定の質問には答えられない」と答えたという。「なんだ、別にベターな案を持っているわけじゃないんだ」と思われた由。

    今回の地震も津波も原発も放射線も、未曾有の極めつけな難問ばかりであり、イージーソリューションはどこにもない。あちらを立てればこちらが立たずで、どういうプランをとっても瑕疵・問題が生じる。外国の政治家ならノープロブレムということもなく、アメリカでは竜巻が原発を停止させ、その後のプランはコントロバーシャルである。アルカイダのトップを裁判にもかけずに殺してしまうというのもコントロバーシャルな判断である。およそ政治判断に、瑕疵の生じない、コントロバーシーの生じない判断は存在しない。

    疎開をすべきという意見がでる一方で、危険を(どういう危険かはともかく)承知で自宅に帰ったり残ったりする選択をとる人もいる。それが普通なのだと僕は思う。いろいろな選択をとるというのが当たり前なのだと僕は思う。「こうすればよい」とシングルアンサーしか示さず、他者の言葉に耳を傾けないファンダメンタルなソリューションは、評論家の口からは出せても責任ある立場の人間からは出せるわけがない。

  • ドイツ人はもっと語り合うということを学びたいものである。つまり自分の意見を繰り返すばかりでなく、相手の考えているところw聞きたいものである。主張するだけでなく、断りのあるところに耳を傾け、新たな洞察を得るだけの心構えを失わない。

  • 戦争の罪に関する国家と国民の関係について、ナチス時代の亡命ドイツ人であったヤスパースが書いた歴史的な名著。現代日本において支配的な国家論とはまた異なった切り口で現実を見ようとする。ナチ化の危険性がドイツ国民に限られたものではないとする下りは、あるいは現在の世界でも有効な論説かもしれない。

  • 被害者意識に逃げず、難しい過去とまっこうから向き合う。
    ただ加害者ぶって自虐に浸るのではなく、受け入れるべき罪と、そうではないところとを、理性的に分類している。

  • 現代実存主義をリードしたドイツの哲学者ヤスパースの講演をもとにした論考。
    解説では、対話を手段とする恊働を重視する彼の戦争責任観/平和認識が日本の知識人には見られない重厚さをもっていると述べる。個人的には、哲学者らしく講演にも関わらず、責任主体となるドイツ人の分類などが非常に詳細に分析されていはいるが、彼が自明視する「民族」の考えに違和感を感じる。個人は個人自体という特性以外にも何らかの集団に属していることは認めるが、彼の責任論を突き詰めていくと、ドイツ人が責任を負わなくては行けない理由は、彼らがドイツ民族であるからとなる。そして、ドイツ民族の根拠に言語しか強調できないのは、仕方ないとはいえ寂しい限りである。
    何らかの文化的な共同体を民族とするにしても、多様性を認めなくては行けないから難しい。そこで言語を持ち出したのだろうが、それはドイツ語がほかの地域に波及していないマイナー言語であるからそういえるだけではないのだろうか。
    彼の前提とする考えには違和感を感じざるを得ない。

  • 結末までの政治的歴史的経緯が異なっていたとしても、同じく敗戦を事実として持つ日本人にはより広く読まれてよいと思う。卑屈な加害者意識と横柄な被害者意識のどちらにも偏らないために、ヤスパースの排除・糊塗的でなく網羅・区分的な視野と、そこから導かれる細やかな理解は現代でも充分に頼りになるだろう。また「ある集団」というものを現実にどのように考えればよいかについてのこの本の示唆は、たとえば9.11跡地付近でのモスク建設といった最近の問題をきちんと捉えるための手助けにもなるように思う。

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戦争の罪を問う (平凡社ライブラリー)の作品紹介

第二次大戦のドイツ敗戦直後、実存哲学の雄ヤスパースが、ドイツ国民は、自らの戦争の罪をいかに問い、裁き、そして償うべきかを、冷静にかつヒューマンに語りかけた哲学的戦争責任論の記念碑的名著。

戦争の罪を問う (平凡社ライブラリー)はこんな本です

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