倫理21 (平凡社ライブラリー)

著者 :
  • 平凡社
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  • Amazon.co.jp ・本 (211ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784582764710

作品紹介・あらすじ

子供の犯罪は親の責任なのか?戦争責任とは?環境への責任とは?そして、未来に対するわれわれの責任とは?本書は、これらの具体的な問題を通して、これからの時代をいかに生きるべきかを徹底的に問い、21世紀の新しい思想を構想する。主著『トランスクリティーク』への入門としても最適。

感想・レビュー・書評

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  • 一度では分からず読み返している。
    沢山の哲学者が出てくる、誰がどの時代に生きたのか知りたく哲学者年表にしてみた。
    カント(1724-1804)

    どうしようかと思うとき、あの人はこういうふうに考えていたなと思い出してそれにそって認識をする。
    思い出すときに出てくる記憶は、カントのものではなく、ある活動家のインタビュー記事やお話。
    誰かか書き話し表した認識が、それを読み聞きした人の経験を、その認識で認識させる。
    自分の経験を、誰かの表した認識に沿って認識することしかできないの?
    それならば、多様な認識を知ることで自分の経験の認識の仕方も多様になるのかな。
    その意味で、この本の考え方は、私があまり知らないものだった。
    初めて古井由吉や中野重治を読んで、その感覚、描写を読み返してじっくり身に染みさせたいと思ったトキと同じような読書体験。

    柄谷行人、また彼が持ち出してくるカントの考えの進め方は、とてもきっちりと突き詰めた進め方で、言葉の意味を正確に示し、さらに言葉の世界だけの論理にならずに広く実際を把握して、疑うことのない根本を一体そうだろうかと問い直して丁寧に考えていく。
    そういう考えの流れを、完全に理解できないまでも、繰り返し追っていくというのは、自分の中に彼らの考えの進め方を取り入れる、また取り入れられずとも、こういう考えの進む道があることを教えてくれた。
    私には見えなかった、二手に分かれた道の間にあったもう一本の暗闇の道を照らす街灯が灯った。

    イヤホンを外して夜道を歩いていると、再読を終えたこの本について考えることができた。
    この本の始まりは、犯罪者の親に謝罪しろという日本のことだった。
    その後どういう展開で話が進んでいったのか思い出そうとしても、いくつかの部分がポツポツと繋がりを持たずに浮かんでくるばかりだった。
    仕方ないから、ポツポツ浮かんだものそれぞれについて考えてみた。
    ①資本主義が環境問題食糧不足を引き起こしているから、なんとかいうアソシエーションが必要だといったけれど、そのアソシエーションは資本主義と違ってなぜ環境問題や食糧不足を引き起こさないのだろう。
    ②相手を手段のみならず目的としてみるというときの、目的としてみるってどういうことだろう?
    ③倫理は、求めることで、探ることで、倫理的になれるものなのかな。
    ④私は、カントや柄谷行人のように、考えが展開していかない。 私からは考えつかないようなところに話が展開していく、そんな部分を突くのかというところを突いていく、その展開を本を見なくても思い出せるようにになるまで自分に馴染ませるために、何回でも読める本だと思う。
    ⑤やっぱり、興味深いと思ったのは、他者というときに私たちは、同時代を生きている身近な相手を想像するけれど、過去の既に亡くなった人や、まだこの世にいない未来を生きることになる人のことを除外しているという考え。
    こうして、柄谷行人が持ち出す、名前だけ知っている哲学者の考えや文章を読むと、その人を知ることができて、すごく昔の写真がない偉い人という生きていたのかどうかすら私の中で訝しかった人が、本当に生きていてこんなこと考えていたのかと知ること、それは想定する他者を過去の人に増やすことだ。
    それに対して、未来の人のことは、全然考えてないなぁ。
    ⑥倫理という題だけど、倫理について考えようとしているわけではなく、考えていくうちに倫理的なことを考えていたような話。学校の倫理の教科書には、どんなことが書いてあるんだろう?


    【パラダイム】
    ある時代や分野において支配的規範となる「物の見方や捉え方」のことです。

    【格率】
    個人が自分で守ろうと決めている「規則」「掟(おきて)」「基準」のようなものをいう。

    【当為】
    「あるべきこと」「まさに為(な)すべきこと」をいい、倫理的な概念とされる。その究極的なものは人間の到達すべき目標であり、したがって哲学者の最高の探究課題であり続けた。

    【コミンテルン】
    1919年から1943年まで存在した国際共産主義運動の指導組織。
    当初は世界革命の実現を目指す組織とされ、ソ連政府は資本主義諸国の政府と外交関係を結ぶがコミンテルンは各国革命運動を支援する、という使い分けがなされた。

    【レジスタンス】
    第二次世界大戦では、多くの国で、ナチス・ドイツの侵略に対するレジスタンス運動が行われた。特にナチス・ドイツによるフランス占領に対して行われたフランスのレジスタンス運動は最も著名

    【コロニアリズム】
    帝国主義的領土拡張政策における植民地支配期を言う。

  • 前半の章は倫理一般について書かれていたので、興味深く読んでいたけれど、中盤後半からは政治や国家についてだったので知識不足と関心がなかったため楽しく読めなかった。それでも読みやすくていい本だった。

  • スピノザ〜カントとたまたま最近の読書が繋がった。「他者を手段とするのみならず、目的として扱え」、円地文子『食卓のない家』の父親(連合赤軍の父としての責任とは?)、天皇の戦争責任、ヤスパースの四段階の戦争責任、共産党の非転向など、現代の諸問題を足がかりに、責任とはなにか、倫理的であるとはどういうことかを考える。

  • 読み直したさ:★★☆
    責任論。
    カントにおける「自由」。
    カントにおいて、他者は「物自体」として登場する(という読みをする)。
    因果関係(形而下)を遡及するだけでは責任(形而上)は明らかにならない。
    刑事責任を考える場合、「自由」な意思によって行為に及んだというためには、「自然的・社会的因果性」を「括弧に入れる」必要がある。決定論からの脱出。
    〈感想〉
    倫理学を総ざらいするものではないが、著者の感心からみる責任論は非常に面白い。

  • 某国公立大の現代文の入試問題で引用されていたのが記憶にあった。
    五十歩百歩の中にも、五十歩の差異は「絶対」としてある。

    我々は絶対的視点から罪人であることに置いて同等であり、そこに相対的な見方は意味を成さないが、「ドングリの背くらべ」の小さな差異はやはり厳然としてあるということか。

    人間の中にある根源的な罪や悪について考えさせられる。

    自由とは何か。
    ただ他者の欲望を自分の欲望とした自由は自由ではありえない。
    私たちの考える自由は本当に自由かといえば他律的な自由でしかない。



    責任とは何かという問題。
    子の犯罪の責任は親にあるのか。世間は自分に利害がないのに責任を取って死ねと暗黙的に圧力をかける。

    また原因の問題。
    人が罪を犯すとき、確かに環境などの原因が背景にあるがそれは無限にある。
    しかしその人の罪は許され責任がなくなるかといえばそういうことではない。
    罪がないといえば、彼は自由な主体としての尊厳を失う。

    同じ環境や生まれでも、犯罪者になる人間もいれば、成功者になる人間もいる。

  • やれ自分がこんななのは親のせいだ、やれ貧乏な家に生まれたから自分はこんななんだ、といった言説を頻繁に耳にする。「私」そのものが他者の影響のもとにできあがっているのだから、自分の過失に対して原因を求めれば、必然的にこれは自分の問題ではない、という結論に至る。それはある意味で正しい。だが、この結論に到達したからといって、問題が解決するわけではない。新たに何かしらの問題が生じると、性懲りもせずそれを誰かのせいにして自分を納得させる。果たしてそこにあなたの主体的な契機、あるいは自由はありますか?‐そんなあなたへ。

  • カントの倫理思想の解釈を通して、現代における世界市民の立場を確保することや、戦争責任の問題などを考察している。『トランスクリティーク』(批評空間・岩波現代文庫)への導入という位置づけの本。

    意志の自律としての倫理が成立する領域を、因果法則の支配する自然の領域から峻別するという本書の議論は、カント倫理学の根本モティーフを確かに捉えていると思う。また、個人の利害や共同体の規範に盲目的に従うのではなく、世界市民的な立場から考えることが「パブリック」ということだという主張に至る議論の流れも、それなりにおもしろく読んだ。

    ただ、疑問に思うのは、なぜ著者が今になってこうした主張をするのか、ということだ。

    「ゲーデル問題」などに関する論考で著者が考察していた問題は、形式化された体系の内部に自足的にとどまっていることは不可能であり、外部からの侵犯という事実が不可避的に入り込んでしまうということだった。むろん今日では、著者の「ゲーデル問題」という表現が、せいぜいのところ比喩としてしか通用しないものだったことが判明しているが、個人的には、そのことを理由に著者の一連の理論的仕事を一顧の価値もないと切り捨ててしまうべきではないと思う。たとえば、それらの議論から、意志の自律に基づいて超越論的領域を確保する「自己言及的」な体系は純粋さを保ちえず、そこには不可避的に事実のレヴェルからの混淆が生じてしまうという洞察を引き出すことは可能だし、そうした問題は現在でも考察に値する重要性を持っているのではないか。

    ところが本書で著者は、かつて自身も格闘したはずのそうした問題をすっ飛ばして、カント倫理学における規範性の領域が当然に成り立つかのように論じている。現代思想における上述のような争点を知悉しているはずの著者が、本書のような素朴な仕方で超越論的な規範性の領域が可能だと考えるに至った理由が、どうにもよく理解できないでいる。

  • 読みたい。

  • 我々が普通自由だと言っていることには、自殺もそうですが、原因がある。ただあまりにも複雑すぎるために、自由だと想像しているだけだと、スピノザは言った。
    スピノザは17世紀のオランダにいたから、徳川時代の日本のことをかなり知っていて、日本人はキリスト教とでないにもかかわらず立派に道徳的ではないかと言っています。つまり大事なのは人が何をやっているかであって、それを自らどう考えているかではない、といったわけです。
    サルトルは存在と無の段階では、自由と不安である対自存在は、互いに他を物化しようとして、つねに挫折せざるを得ないと考えていました。サルトルは積極的な倫理学を書こうとして挫折し、マルクス主義に近づきます。
    ニーチェは道徳を超えた倫理性を提起しているのであって、現状肯定と関係ありません。ニーチェが反ユダヤ主義や国家主義を弱者の塊根として見ていたことを無視した。
    仏陀やイエスの現行も死後のことでなく生きている間の倫理を説いている。あの世のことについて何も書いていない。そんなことは重要ではなかった。他者に対する倫理が重要だった。ユダヤ人で強制収容所から生還した人たちはある罪悪感を抱いた。彼らは自分が助かったことで、死んだユダヤ人に対して罪の感情を抱く。まるで自分らが彼らを殺したように。

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著者プロフィール

1941年兵庫県生まれ。東京大学経済学部卒業。同大学大学院英文学修士課程修了。法政大学教授、近畿大学教授、コロンビア大学客員教授を歴任。1991年から2002年まで季刊誌『批評空間』を編集。著書に『ニュー・アソシエーショニスト宣言』(作品社 2021)、『世界史の構造』(岩波現代文庫 2015)、『トランスクリティーク』(岩波現代文庫 2010)他多数。

「2022年 『談 no.123』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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