デリダ論―『グラマトロジーについて』英訳版序文 (平凡社ライブラリー (524))

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制作 : 田尻 芳樹 
  • 平凡社 (2005年1月1日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (251ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784582765243

デリダ論―『グラマトロジーについて』英訳版序文 (平凡社ライブラリー (524))の感想・レビュー・書評

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  • アメリカにおけるデリダ紹介者であるスピヴァクによる「グラマトロジーについて」英訳版への長大な訳者序文の日本語訳。

    アメリカでのデリダ理解のきっかけになった論文として有名とのことなので、「アメリカ人に分かるなら、きっと自分にも分かるに違いない」と偏見的な意識をもって、読む。

    が、全然、分からない。

    というか、スピヴァクさん、全然、分からせようという気はないな。だって、多分、英訳の1冊目の「グラマトロジーについて」の序文で、その後に出版されたさまざまな本の議論を引っ張ってきながら、論じているわけだから。。。

    でも、現在、読むと70年代半ばころまでのデリダの主要な議論を踏まえた話になっているわけで、むしろ今の時点ではそれはデメリットではないはず。

    にもかかわらず、分からないのは、「そんなの知っているでしょ」的な前提が限りなく多いから。つまり、ニーチェ、フロイト、ハイデッカー、フッサール、レヴィ・ストロース、ラカンについて、少なくともその主要著作は読んでいることが前提となる。

    ニーチェを読むハイデッカーを読むデリダを読むスピヴァクを読む翻訳者の田尻氏を読む「私」という「読むこと」の重層性ということなんですね。で、途中、知らない人がいると何がなんだかなわけですよ。

    でも、わけが分からないなりに、ここでは、そうした「読み」の実践がなされているのだなー、テクストに絶対的な意味なんかないんだー、的な感覚は味わえた。

    翻訳は、そういう「読み」の問題が一番はっきりと現われるところで、先ほどのニーチェの読みの話でいえば、ドイツ語からフランス語、英語、日本語とその議論は翻訳されながらなされているというわけだ。

    そういう感じで、複雑な脱構築の実践的な難解な文章を3分の2くらい我慢して読んでいると、最後のほうで、「脱構築宣言」というか、なんとなく華やいだ高揚感がでてきて、面白かった。

    という爽快感を味わうためにも、前半は耐えなければならないのか。

    こういう訳の分からない文章を読んで、デリダ理解をするアメリカ人って、いるんだー、と感心したが、訳者あとがきによると、当初はこの序文は、専門家の間でも"unreadable"という評価だったらしい。納得。

  • んー、新しい発見は特に無かったような気がする。
    ヘーゲル、ニーチェ、ハイデガー、フロイトというデリダの源泉となる思想家を解説していき、
    デリダが何をもとに思考しようとしてきたのかを明らかにしようとする。

    が、序論をヘーゲルの序論の時間論から行うのは、若干分かりにくさをもっている。
    彼女が最後に『グラマトロジー』へ接続するための引用とか見ると、デリダを踏襲するように「言葉の戯れ」をしてみたりする。
    『弔鐘』の読解とかやってるし、わりと近しい匂いをデリダに感じているのかもしれない。

    新しい発見がないというのは、平凡さという意味でもあるんだけれども、
    1976年の段階でこの序文を書いて、今読んでも遜色なく平凡だと感じさせるのは相当、当時すごかったんだろうと思った。

  • 本書の存在は知っていた。しかも,日本語訳が出る前からこの文章の存在はしっていたのだ。私は1997年に,当時大学院生として所属していた東京都立大学理学部地理学教室が発行している英文紀要に短い論文を載せたことがある。というのも,理学部なので人文地理学をやっていても,博士論文は英文で書かなくてはならず,それに加え,博士論文を受領してもらう条件ってのがあって,その一つに英語の論文を持っていることってのが含まれていたのだ。それはさまざまな固有名論を参照することで,地理的な名詞,すなわち地名について考察したものだ。有名な固有名論にはいくつかあるが,私がかなり参照した本にデリダの『グラマトロジーについて』(邦題は『根源の彼方に』)がある。当然,私は日本語訳を読んでいたわけだが,英文の論文に引用する場合はやはり英語訳を参照する必要がある。さすがに,フランス語を日本語に訳したものを,フランス語も分からずに日本語から英語に翻訳するのは気が引ける。それに第一デリダの難解な文章を英訳するなんて。
    そこで,スピヴァクが1974年にフランス語の原著を英語に翻訳したものを購入していたのだ。スピヴァクはその後,1987年の『文化としての他者』で知られるようになるわけだが,実はこのデリダの訳書にはスピヴァクによる序文がつけられていたのだ。354ページの本文に対して,なんと80ページの序文がつけられているのだ。でも,これは驚くべきことではない。なんと,翻訳されたデリダも同じことをしているのだから。1967年の『声と現象』でデビューしたデリダは,その以前,1962年にフッサールの『幾何学の起源』をドイツ語からフランス語へと翻訳し,それに本文より長い序文をつけているからだ。この本は日本語にも翻訳されているが,むしろフッサールよりもデリダの文章を読むために翻訳されているようなものだ。320ページ中,デリダの序文は256ページに及ぶのだから。

    なので,このスピヴァクによる序文の存在を知ったとき,ある意味心躍った。せっかく私の手元にあるのだからそのうち読んでやろうと。といううちに8年が経過し,日本語訳が出てしまった。でも,原著は1974年のものだから,ある意味では今頃翻訳されるのはおかしな話だが,私のように最近この文章に出会って衝撃的に翻訳してしまったのかもしれない。ちなみに,役者は1964年生まれ。
    訳者解説によると,デリダの著作の英訳はこのスピヴァクによるものが初めてであり,またスピヴァクは米国でデリダ流の脱構築を広めたポール・ド・マンの下で学んだというくらいだから,このスピヴァクの序文が英語圏での本格的なデリダ論の初期のものだといえる。しかも,デリダばりの序文であるから,単なる読者に優しい分かりやすい説明文では決してなく,むしろデリダを解釈しているのだ。この『グラマトロジーについて』を中心としつつも,もちろん『声と現象』,『エクリチュールと差異』,インタビュー集である『ポジシオン』,そしてこの訳書が発行される年に原著が発表された『弔鐘』のすべてについて検討しているのだから,今読んでも全く遜色のない前期デリダ論だ。
    といっても,これから脱構築を米国で盛り上げていこうという意気込みが感じられる文章は,もう「脱構築」という概念をすっかり死語にしてしまった21世紀の日本においては古臭くみえるのは否めない。といっても,私個人としては脱構築という言葉に出会い,デリダの著書を読み始めて十数年。いまだ私の思考にとってデリダの思想は,この前期に限っても十分に理解できていない未知の領域が広がっているし,単に40年前に書かれたものだからというだけの理由で引用するのは恥ずかしいと思うような人とは違う。なので,本当に十分に刺激的なないようでした。でも,やはり脱構築を批評に応用しようというような内容はちょっとあれですが,ニーチェやハイデガー,フロイトなどとの関連付けは全くその考察に古いものは感じさせません。

  • ポストコロニアリズムの学者によるデリダ論。
    ポストモダンをある程度概括して語る、
    その力技はとても格好イイ。

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