逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

著者 :
  • 平凡社
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感想 : 210
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  • Amazon.co.jp ・本 (604ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784582765526

作品紹介・あらすじ

「私にとって重要なのは在りし日のこの国の文明が、人間の生存をできうる限り気持のよいものにしようとする合意とそれにもとづく工夫によって成り立っていたという事実だ」近代に物された、異邦人によるあまたの文献を渉猟し、それからの日本が失ってきたものの意味を根底から問うた大冊。1999年度和辻哲郎文化賞受賞。

感想・レビュー・書評

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  • あるレビューが頭から離れずにいた。
    「長い上に読みにくい。訪日外国人の手記を集めて粉々に砕いて部分部分に埋め込んでしまっている」
    それでも何とか読み切れたのは他でもない、外国人によるきめ細やかな記録のおかげだ。

    彼らの観察眼はとにかく鋭い。着物の色から庶民が発した言葉まで、日本各地を旅した彼らの成果をまとめたら一冊見事なガイドブックが出来上がるのではないか。
    当時の物・事を詳しく知りたいのなら第三者の記録をあたるのがやっぱり一番。お辞儀の仕方ですら、時代劇で見るのとは違うことが分かる。

    レビューさんの仰る通り、確かに外国人の手記を集めただけのように見えて読みづらい。
    ただ彼らの声を追うごとに時代小説を読んでいる時よりも現代の日本とは別世界に思えてきたし、純粋に自分もその世界を旅してみたくなった。
    基本的に錠が備え付けられていないという江戸期の家屋に、明け方彼らが堂々と入場してみたら家の者が快く迎えてくれた…というどちらがまともなのかが分からなくなる記述もあったりと、コミカルな一面もあったりする。

    「人びとを隔てる心の垣根は低かった」

    彼らの記録した日本人はよく笑い、伸び伸びとしていて好奇心も旺盛。当時の感覚では「他藩=外国・海外=別の惑星」だったとどこかで読んだ気がするが幕末に明治維新とピリついた時代だったにも拘らず、みんな心に余裕があって臆さずに(異星人に等しい)外国人をもてなしていた。攘夷だの佐幕だのと騒いでいたのは実質志士達だけだったのでは?とさえ思えてくる。

    「エルフ・ランド(妖精の国)」「みんな幸せで満足そうに見える」「この国では、暇なときはみんな子供のように遊んで楽しむのだという」「ここには詩がある」
    思わぬ日本人像で実際戸惑った。あの底抜けの優しさにはこちらも心地良くなったが、この頃の人間にはどうしても戻れない。片や現世での生き様も考えものだ。
    どんな人間でありたいか。逝きし150年前の人達は考えもしなかっただろうな。

  • 幕末から明治期に訪日した外国人たちの日本に関する記述から当時の日本・日本人を考察する一冊。

    私自身は留学経験があり、個人旅行や出張で海外に滞在することも多く、意外とどこでも楽しく過ごせるんだけれど、それって個人の素質・向き不向きがあるんだと思う。どちらが良いとか悪いとかではなくて。慣れている場所以外では楽しめないっていう友達もいるし。
    あと、その滞在国に合う合わないもある。ある国の国民全体で似た性質を分け合うなんてあるわけないと昔は思っていたけれど、これまでフランス、ベルギー、オランダ系の企業で働いてきて「国民性」ってあるんだなと実感している。私はラテン系の国のほうがなんとなく肌に合う。
    昔日本を訪れた外国人達ももちろん、個々に違う素質を持っていたわけで、ある人には日本は素晴らしく、ある人には最悪に映ったのは当然だと思う。また、自分が他の人と違う特別な経験をした場合、その経験を大げさに「盛る」人も多いから、彼らの言うことを100%信じていいのかという思いもやっぱりある。

    でもそれにしても、当時の訪日外国人の目に映った日本人のなんとチャーミングなことか!陽気でユーモアがあって、好奇心旺盛で人懐っこくてものすごくオープンで、優しくておおらかで、でも礼儀正しい。最高か。
    「日本には、礼節によって生活をたのしいものにするという、普遍的な社会契約が存在する(182ページ)」…つまりみんながお互いに気を使いあうことでお互い気分よく楽しく生活しようとする意識を社会で共有していたのだ。でもそれは、お互いが監視しあい縛りあい、委縮しながら生きているような現代社会とは違う段階でなされているように見える。
    「あたえられた生を無欲に楽しむ気楽さと諦念(568ページ)」を持ち、「自然環境と日月の運行を年中行事として生活化する仕組み(568ページ)」を持っていて、世界で最も遊び好きと評された当時の日本人と今の私たちとでは、血筋も何も完全に断絶して刷新されたように思えるけれど、外出制限中にも「密じゃなければいいだろう」とばかりに海や公園に行っている日本人を見ると、意外とまだ往時の遺伝子が残ってるのかもと思えて、可笑しい。(笑ってる場合じゃないけれど。)
    どんな時もどんな場でも笑えることを見つけ、自分たちの失敗も可笑しがるという性質も続いているなと思う。
    単純だけれど、こういうチャーミングな人たちの系譜に自分もつながっているのかと思うと、なんだかうれしくなった。

  • 江戸時代後期に日本を訪れた外国人による、日本の庶民生活の見聞録。
    長くて読みにくいけれど、拾い読みだけでも十分に楽しめた。 

    決して豊かとは言えないけど、最低限の衣食住に満ち足りた表情をしていた庶民。勤勉さ礼節は浸透しているが、仕事はほどほどに子どもから老人まで楽しんで生活をしている。またよく手入れされた自然と共存している生活の景色は美しい。

    この本の中での証言を繋ぎ合わせると、この上ないユートピアに感じる。タイムスリップできるならこの時代に行って見てみたい。

    確かに日本の庶民にも格差はあり、決してこのように満ち足りた生活を送れている集落だけではなかったと思う。それに、比較対象としての海外が、近代化に移行中という労働者階級にとって厳しい状況にあったということも当時の日本の生活をいいものとして捉えられた理由の一つだとも思う。

    それでも、混乱のイメージがあった幕末にこのような庶民の生活が存在していたことに新鮮な驚きがあるし、「逝」っていまったとは言え、そのような性質をもった民族が祖先だと思うと少し嬉しくもある。

    マニアックな本だけど、おすすめしたくなる。

  • 文庫本なのに600ページぐらいあります。買うとき背表紙の説明文とかもはや見てません。表紙に風情があったのと、この分厚くてごつい本を読んだという事実が欲しいがために手に取りました。


    内容はふつうに良かったです。現代において「幸せとは何か?」を考えるときの参考になる気がします。

  • 幕末や明治の日本の民衆の快活で自由な、そして精神的に豊かな暮らしぶりを、その当時の来日欧米人の瑞々しい記録から明らかにする

    この文化が自分たちのたった150年前のものであるということも、そしてそれが失われていることも、読んでいる私たち日本人の胸に迫ってくる。

    明治以降西洋近代化を追求して今にいたるわけだが、本書を読むと、あのとき西洋化の選択をしない道もあったのかもなと思ってしまう。歴史にifはないけど、読み手にそう考えさせる良書。

  •  久々に心を揺さぶられる思いがしました。

     本書では主に江戸から明治にかけての日本や日本人の姿を、実際にこの国を訪れた外国人の言葉を借りて描き出しています。
     彼らは日本において(彼らの価値観からして)受け入れがたい様々な事象を目にした一方で、それを上回る大きな感動をこの地で経験したことを、赤裸々に文書につづっています。

     これらを一つ一つ読むにつけ、哀切の思いを禁じえません。
     なぜなら彼らを感動させたその素晴らしさが、この日本から完全に失われたと気付かされるからです。


     本書は次の文章から始まります。

     「私はいま、日本近代を主人公とする長い物語の発端に立っている。物語はまず、ひとつの文明の滅亡から始まる。
     ・・・
     われわれはまだ、近代以前の文明はただ変貌しただけで、同じ日本という文明が時代の装いを替えて今日も続いていると信じているのではなかろうか。つまりすべては、日本文化という持続する実体の変容の過程にすぎないと、おめでたくも錯覚してきたのではあるまいか。
     実は一回かぎりの有機的な個性としての文明が滅んだのであった。」

     いったい日本の何が滅んだというのか?本書で描き出される当時の日本の姿を知ると、それをありありと感じ取ることができるでしょう。


     当時の日本や日本人は、現代の価値観から見ると実に奇妙でお粗末なものです。

     外国人がやってくるとやたらと群がり、すぐに人だかりができ、
     女も子供も人前で裸になることに抵抗を持たず、性についても慎みを欠き、
     乞食に冷淡かと思いきや、動物にはやさしく、
     働き者かと思いきや、その実なかなか仕事は終わらない、

     このような日本人の振る舞いに、訪れた外国人の多くが困惑と嫌悪を覚えます。
     しかしそんな彼らがより多くの時間をこの地で過ごすにつれ、次第に日本や日本人を素晴らしいと感じ始めます。
     著者はこの変化や理由を丹念に描き出します。

     日本人は大人も好奇心が旺盛で、子供と同様に遊び、
     性に対してオープンだが、あらわになった女体を前に破廉恥な発想を結び付けず、
     乞食に対して「憐れみ」という名の蔑みや自己優位性の感情を持たず、他の動物と平等に一つの命とみなし、
     日用品でも芸術品を仕上げるかのように丹精を込めるが、質素ながらも生活を送れる以上の金は求めず、
     住まいは簡素で貧しいが、田園風景の中で絵に描いたような抒情的で夢のような光景を構成し、
     人々は「相手に迷惑をかけない」という暗黙裡を胸に、お互い朗らかに笑いあうことを信条としている。
     
     そこにあるのは「原始的」というよりは、近代化という脚色を免れた、「原風景」とも言える日本人の姿です。
     そしてそれは、もはや二度と戻ることのない原風景です。
     著者は書きます。

     「日本近代が経験したドラマをどのように叙述するにせよ、それが一つの文明の扼殺と葬送の上にしか始まらなかったドラマだということは明記されるべきである。扼殺と葬送が必然であり、進歩でさえあったことを、万人とともに認めてもいい。だが、いったい何が滅びたのか、いや滅ぼされたのかということを不問に付しておいては、ドラマの意味はもとより、その実質さえも問うことはできまい。」

     近代化の流れで扼殺されてしまったのは「当時の文明を培った日本人の心性」であると著者は説きます。
     収益性を度外視して品々に芸術品のような感性を込め、時間効率性を追い求めず疲れたら休んで必要以上の金を求めず、
    他人の物をくすねるという発想が乏しく戸や窓を開け放ち、気さくに冗談を言い合って辛い労働も笑いに変える、
    そのような原生的な心性は、近代化の大波を前に確実に滅びる運命でした。

     日本における近代登山の開拓者であるウェストンの、次のような言葉が紹介されています。

     「明日の日本が、外面的な物質的進歩と革新の分野において、今日の日本よりもはるかに富んだ、おそらくある点ではより良い国になるのは確かなことだろう。しかし、昨日の日本がそうであったように、昔のように素朴で絵のように美しい国になることは二度とあるまい。」(『知られざる日本を旅して』より)

     本書の内容を象徴する、非常に考えさせられる言葉でした。

  • 今年一番の本に出会いました。

    今年一番というだけでなく、今まで読んだ中でも、1、2を争う、インパクトのある本でした。いつものように、満員電車の中で読み進んだのですが、この本を読んだ後では、満員電車でギュウギュウに押し合いへし合いしている、われわれ日本人の顔が違って見える。ちょっと大げさですが、そんなインパクトがありました。

    江戸から明治にいたる時期に、残念ながら消えてしまった「文明」のあり様を、実に、140冊あまりにのぼる、その時期に日本に来た、外国人たちの証言から、描き出そうという試み。

    上機嫌で人好きないかにも幸せそうな人々。お堅いはずの封建社会の中で自由闊達に生きるユーモアあふれる人々。そして、自然と調和した美しい都市や田園。江戸が当時の世界最大の都市であったことは、よく知られていますが、その江戸が、緑あふれる田園都市であったこと。それを支える花卉園芸の水準が、当時の世界最先端だったことなども語られます。

    海外と仕事をするとしたら、こんな「文明」を作り上げた日本人の心性、日本という社会が持っている特性を、ぜひぜひ知っておくべきだなぁと感じました。

    ただ、ネットでみてみると、この本に関しては、賛否両論あることもわかります。単なる懐古趣味に過ぎないとか、無反省な日本礼賛につながる危険性いった批判もある。

    単に、「やっぱり日本はいいよね」的な思いに浸っても意味がないのは、その通りです。ただ、自己反省だけが、思想だというのも、同じく意味がない。日本文化のユニークさを、机上の空論だけではなく、何らかの「証拠」とともに掴んでいることが大事だと思う(そういう意味で、山本七平の「日本的革命の哲学」、北条泰時論は面白い)。

    まぁ、これらの批判を読んでも、渡辺京二氏の、この時代に対する、あるいは、日本社会・歴史の見方のユニークさを示しているように思う。

    それにしても、こういう本を面白く思うということは、歳をとったということなのかもしれない。学生時代、江藤淳氏本人が「近代以前」を講義し、岩倉使節団の米欧訪問記を読んでも、全然ピンと来なかったのを思い出す(江藤淳の「近代以前」が、文春文庫で復刊していたのをみて思い出した)。

  • 幕末、明治初期は大昔というほど昔でもないのでなんとなくわかった気になっているが、全くの思い違いだということを知った。
    当時の日本人は、我々にとってほとんど異邦人である。
    もちろん、部分的に現代日本人に繋がるところもあるが…

    この本は、もう二度と会うことのない、まさに逝ってしまった人たちの面影を伝えてくれる本である。

    わずか150年ほど前に、この国に全く別の「文明」があったこと。
    久々にドキドキする読書体験だった。


    ちなみにこの本を読んで王子に行ってみたくなり、王子稲荷や王子神社、飛鳥山公園あたりを散策したが、昔の面影を辿るのは困難だった。

    この本を読むと、王子に限らず外国人たちが称賛してやまなかった当時の日本の風景を見たくてたまらなくなる。

  • [在りし日への送り火]江戸時代後期に高い位相での完成を遂げたあと、近代とともに消滅したと著者が語る一つの文明を探求した作品。日本を訪れた数々の外国人の手記や証言を助けとして、その文明の中で人間は、自然は、宗教は、そしてそれらの関係性はどのようなものだったかを明らかにしていきます。著者は、本書で和辻哲郎文化賞を受賞された渡辺京二。


    名作の誉れ高い作品ですが、手にとって良かったと読後に素直に痛感した作品。過去への郷愁でもなければそれを通じた現代批判でもない、失われた文明論として絶妙なバランスの上に成り立った見事な考察だと思います。一歩間違えばナショナリスティックな側面を過度に際立たせたり、逆にイデオロギーから逆算したような日本近世批判になりそうなところを免れているのは、近代に対して批判的な視座を持ちながらも、その必然性を達観していた著者だからこそ成し遂げられるものだったのかもしれません。


    訪日外国人というレンズを覗くことにより日本近世が浮かび上がってくると同時に、その日本近世を通じて近代というものが覗き返される構造になっている点がまたお見事。どちらかといえば今日の読者の視点は訪日外国人のそれに近いものになっていると思うのですが、であればこそかつての日本人が具象化した独特な、そして今日においても学ぶことの多いであろう文明の魅力が際立っており、飽くことなくその世界に没頭させてもらった読書体験でした。

    〜私にとって重要なのは在りし日のこの国の文明が、人間の生存をできうるかぎり気持のよいものにしようとする合意と、それにもとづく工夫によって成り立っていたという事実だ。ひと言でいって、それは情愛の深い社会であった。〜

    労作☆5つ

  • 明治維新はクーデターだったのか!
    江戸時代の牧歌的風景、人情が著者ではなく第三者によって描かれている処に客観性を感じさせられる、名著だと思った。

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著者プロフィール

1930年、京都市生まれ。
日本近代史家。2022年12月25日逝去。
主な著書『北一輝』(毎日出版文化賞、朝日新聞社)、『評伝宮崎滔天』(書肆心水)、『神風連とその時代』『なぜいま人類史か』『日本近世の起源』(以上、洋泉社)、『逝きし世の面影』(和辻哲郎文化賞、平凡社)、『新編・荒野に立つ虹』『近代をどう超えるか』『もうひとつのこの世―石牟礼道子の宇宙』『預言の哀しみ―石牟礼道子の宇宙Ⅱ』『死民と日常―私の水俣病闘争』『万象の訪れ―わが思索』『幻のえにし―渡辺京二発言集』『肩書のない人生―渡辺京二発言集2』『〈新装版〉黒船前夜―ロシア・アイヌ・日本の三国志』(大佛次郎賞) 『渡辺京二×武田修志・博幸往復書簡集1998~2022』(以上、弦書房)、『維新の夢』『民衆という幻像』(以上、ちくま学芸文庫)、『細部にやどる夢―私と西洋文学』(石風社)、『幻影の明治―名もなき人びとの肖像』(平凡社)、『バテレンの世紀』(読売文学賞、新潮社)、『原発とジャングル』(晶文社)、『夢ひらく彼方へ ファンタジーの周辺』上・下(亜紀書房)など。

「2024年 『小さきものの近代 〔第2巻〕』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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