柳宗理 エッセイ (平凡社ライブラリー)

著者 :
  • 平凡社
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感想 : 14
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  • Amazon.co.jp ・本 (352ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784582767278

作品紹介・あらすじ

本書は著者が八八歳で刊行した初の著作選集。デザイン論、数々の自作解説をはじめ、伝説的連載「新しい工藝・生きている工藝」、日本と世界のアノニマス・デザイン、そして父・柳宗悦と民藝運動について-。柳宗理の一貫した思考を、この一冊に集成。

感想・レビュー・書評

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  • 「美と用とは不離不即で正に一体なのである」
    デザインとは。デザイナーとは。
    両親のことについて語っているのも興味深かった。

  • いわずとしれたプロダクトデザインの巨匠・柳宗理は1915年に生まれ、2011年に亡くなった、日本の戦後〜高度経済成長の目まぐるしく流行が移り変わったまさに「工業デザインの時代」の真ん中を生きた人である。

    父に民藝運動を主導した柳宗悦を持ちながら、マスプロダクションの世界に身を投じながら、一貫して「用の美」を起点にしたどこか民藝らしい意匠、機能をまとったプロダクトで業績を残す一方、晩年には日本民藝館の館長に就任して父・宗悦の思想を引き継いで活動した。

    本書では主に、柳宗理自身の高度経済成長における日本のものづくりへの危惧、つもり本来デザイナーが追求すべき「機能的に優れ/普遍的な意匠をもって、生活の中にいかにとけこんで長く愛されるか」ではなくて、表象の記号的な差異化、すなわちマーケティングや広告表現によって次々と買い替えを促す詐取的な仕事になりさがることへ危機感が、全編を通じて表明されている。

    工業デザインの世界に足は置いているものの、やはりバックボーンは民藝運動の父・柳宗悦にあるのだな、と(ほぼ晩年の書籍なので、そういう編集したのかもしれないが)。

    いけいけどんどん、右肩上がりの成長の中で「それは本質じゃなくてまやかしだ。ブレーキを踏んで考え直せ」と表明することは、やはり同業者やクライアントから白い目で見られるリスクを負うわけで、覚悟がなければなかなか難しいことだと思う。

    その批判精神は、同時代的に言えば「生き延びるためのデザイン」などを記したヴィクター・パパネックなどと呼応する。そうして産業的な権威に背を向けながら、オルタナティブとして後世に残る仕事を残したのは、やはりその仕事の哲学が本質をついていて、後の作り手や使い手に支持されたからだろう。

    無批判に記号的消費社会の差異化のゲームに突っ込んでいったように見える日本お社会の中において、柳宗理や秋岡芳夫など、当時としては天邪鬼ポジションをとりながら誠実なものづくりを目指した作り手は、当時も大勢いらっしゃったのだろう。

    彼らはある意味で「日本的良心の作り手」といえるのかもしれないが、それでも時代の大衆の求め(欲望?)にはとても抗えるものではなかった。けれど、その思想は、今を生きている私たちが引き継いでいくに十分な普遍性を持った、本質をついた主張だと思う。

    本書の中で一番面白かったのは、「藝術の社会性と宗敬の発想」というタイトルで、柳宗理が父・宗悦の民藝運動を、先駆的に起こったジョン・ラスキンとウィリアム・モリスの「アーツアンドクラフツ運動」と対置して、思想的な強度という意味で決して劣るものではなかったと明確に評価し、また同時代的にドイツで起こったバウハウスのマスプロ時代における手工芸的をものづくり教育の思想と、その起こりと主張の中身においてまるでドッペルゲンガーのような相似形を持っている、と説明しているところだ。

    ラスキンとモリスの「アーツアンドクラフツ」、柳宗悦の「民藝運動」とヴァルター・グロピウスの「バウハウスの芸術教育」。今ほど情報流通のスピードが速くはなかった当時において、これらが互いに影響を及ぼしあった程度は少ないだろうけれど、目の前に立ち上がってくる新しい時代の産業構造とその問題点を目にした事による反射運動として、地理的な距離を超えてその言わんとするところが連動しているというのは、とても興味深い。

    柳宗理はこれらを「時代の推移に対する必然的思想」として同列に扱った。

    実は社会への問題意識の立ち上がりや、その解法へのアプローチは人種、文化などを問わず、それほど変わりがないのかもしれない。おそらく歴史を辿れば、お隣の中国や韓国、東南アジア、さらにはいわゆる第三世界においてもこうした問題意識と運動は、発見されうるはずだ。

    逆に欲望をベースにした経済的なつながり(産業革命とグローバリゼーション)は、問題が可視化されるまでは「神の見えざる手」が働き、指数関数的に人々を(物質的に)豊かにする。これは確かに必要なタームであったが、問題が可視化されたあと「誠実さや社会的な問題式のレベルで繋がり合えるかどうか」と問われたときに、この20世紀半ばに世界同時多発的に「オルタナティブなものづくり思想」が巻き起こったという事実は、ひとつの希望ではある。

    今はもっと素早くつながりあえるが、とはいえ情報の消費期限も短く、違った難しさは存在するが。

    最後に無理やり現代に接続するならば、20世紀の記号的消費経済の幻と、これへのアンチテーゼとしてのアーツアンドクラフツ、バウハウス、民藝運動、あるいはその他の世界的に広がった環境倫理に適合したものづくり経済への希求の系譜を、現代的に受け継いでいるのが、ある意味でコミュニティデザインであり、デジタルファブリケーション(FabLab)であり、あるいは素材(Materialism)/産地優位への回帰だとではないかと考えている。

    ある側面から見た“経済合理性(資源循環を無視した)”のための国籍を超えて分業化された生産による、労働の疎外とコミュニティの分断に対して、ソーシャルキャピタル(社会関係資本)を回復し、素材産地に生産機械を導入して物理的な自立性を取り戻していくこと。

    都会に人と物を集めるのではなくて、人間が生きていく糧を得られる場所に暮らし、各々がで暮らしを形作るために生きる。そのための(再現性のある)仕組みを作ること。

    デジタルネットワークでつながる、自立分散型の民藝的な生産活動。そういうものを、時代のオルタナティブとして用意するのが地方/ローカルの現代的な使命なのでは、と思う。

    人は歴史の継続の中に身をおいて生きている。世界中でつながった思想の系譜の上にいるという(ふうに思える……一方的にだが)ことはとても心強いな、と感じた。

    ——(以下、引用)-----

    p.262
    藝術の社会性を最初に唱えたのは、あのラスキンとモリスである。それは柳宗悦が民藝論を唱えた時より約四〇年前にさかのぼる。当時、アダム、スミスの資本論が全盛であった時、商業主義に商品の質の低下とその粗悪品がますます氾濫するであろうことを危惧して、その資本主義に対して鉄槌を下すのである。まずラスキンとモリスは、物を造る人とそれを使う人との間のゲマインシャフト的な緊密さの必要性を唱える。そして健全な物は健全な社会より生まれると主張した。そして遂には社会改革運動にまで発展するのである。彼らの社会運動は、もちろんマルクスの唯物論的社会主義とは明確に対照的な立場を採っていた。即ちモリスの「藝術とは労働の喜びの表現である」という有名な言葉がここに吐かれるのである。そしてその立場はあくまで精神的社会主義であり、手工藝にその主体を置いていた。後進国出会った日本は、機械時代の到来がヨーロッパより約四〇年遅れるが、それと並行して柳宗悦の民藝論が起こったことを思う時、時代の推移に対する必然的思想が起きたことが窺えて面白い。

    柳宗悦はもちろんラスキンとモリスの運動は知っていた。しかし宗敬の理論の中心は社会改革というよりも、民藝の美の内面的追及の探索に情熱を燃やしていた。特にその思考的方法は東洋的倫理観に拠るもので、彼の名著『美の法門』に到達するまでの思考的探索による苦闘であった。すなわち真の美は、美も醜も無い一元の世界に在るという思想である。『美の法門』はいろいろな解釈がなされているようだ。「とうとう柳宗悦は晩年に宗教の世界に逃避してしまった」と言う人もいるが、それは大変な誤解であって、民藝の思想は現代デザインの反省を材料としてよく取り上げられるアノニマス・デザインの概念によく似ているのである。即ち、真の美は、美なぞ何も意識しない無の世界から出てくるとも言いうるのであろう。

    ラスキンとモリスの工藝思想の運動そのものは案外早く消え去ってしまうが、柳宗悦の民藝理論がまだ根強く現在まで生きているということは、現代デザインの存在理念に数多く共通するところがあるからであろう。確かに良質の物を生み出す具体的な条件の分析は、ラスキン、モリスの抽象的考えに較ぶべくもなく進んでいて、これが現代にまで生き永らえる一つのファクターになっているとも考えられる。

    柳宗悦がmん芸的思想を固めつつあった一九二〇年ごろ、奇しくもドイツのワイマールにおいて、近代思想の開祖であるバウハウスが設立された。機械文明を根底としたバウハウスは、手工藝を基調とした民藝論と表面的に全く対照的な様相に見えるが、その思想の中には民藝論とはなはだ類似しているところがあまた看られるのである。その点民藝論は、バウハウスから発展した現代デザインの思想に多くの繋がりを持ちうるであろうことは言うまでもない。

    バウハウスの理念は何よりもまず藝術の社会性を主張したことであった。即ち、これからの藝術は生活に結び付かねばならぬことを説くのである。ラスキンとモリスの工藝運動は間もなく消えてしまったが、この点において、その蒔いた種はしばらく時をおいてここに見事芽生えたのである。民藝の精神もこのバウハウスの理念と同じで、庶民の生活に関係のないこれまでの純粋美術に対して、むしろ攻撃の矛を向けるのである。

  • 良いデザインとは何か。柳宗理の考え方がよくわかります。
    今まで全く興味を持てなかった民藝も見たくなりました。

  • デザイン

  • 2016/11/26

  • タイトルどおり。
    文章をたどるだけで楽しい世界開ける上質なエッセイ。
    写真つきで製品を語るときが実に饒舌で微笑ましい。

  • 資料番号:011553229
    請求記号:501.8/ヤ

  • 柳さんのエッセイは山中さんと異なり、伝統工芸万歳、近代の商業デザインはゴミという姿勢が貫かれており、
    分かりやすかったが共感できない部分もあった。そのためか退屈に感じたパートもあり全ては読んでいない。
    印象的だった文章は以下のもの。
    1.デザインは伝統と創造を併せ持つ存在であり、本当のデザインは流行と戦う必要がある。
    よって国ごとのバックグラウンドを持つことは自然なことであり、北欧製品の家具が独特な風合いを持っていることも納得できる。
    2.デザインの美は生まれてくるものであり、作り上げるものではない。(The design is born naturally.)

  • 民藝、ここら辺もう少し勉強してみたいなぁ。

  • 日常生活に馴染む普遍的なデザインについて新しい関心が湧いた。デザインはおしゃれなイメージ(私の狭い発想がそもそも間違ってるのだけど)だったが、一見なんの変哲もないものも優れたデザインだとゆうのは目から鱗である。別の視点からデザインを見るきっかけを生んでくれたエッセイ。

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