- Amazon.co.jp ・本 (216ページ)
- / ISBN・EAN: 9784582834840
感想・レビュー・書評
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兄は、職業上のモラルが重要なことはわかるが、今度の事件の場合、その政治グループは、君がジャーナリストのモラルを持ち出してでも守らなければならないことをしているのか、自分にはただの殺人事件にしか見えないが、といった。
それから兄は、私の顔を見てゆっくりといった。「だって君、人がひとり死んでいるんだよ。何の罪もない人間が殺されたんだよ」
(略)兄は最後に「あの事件はなんだかとてもいやな事件だ。信条の違いはあっても、安田講堂事件やベトナム反戦運動、三里塚の農民たちの空港建設反対は、いやな感じはしない。しかしあの事件はなんだかいやな気分がする」といった。(p178-p179)
この兄の言葉は、映画では巧みに違う脚本に書き換えられているが、重要な言葉であった。
私は今年の6月、山下監督の「マイ・バック・ページ」という映画を見て、最初は川本三郎をモデルとする妻夫木が全共闘運動に全面的に寄り添っており、それを映画でも追認しているというふうに捉え、反発した。しかしながら、今は違うと思う。
映画はこの本の中にある一つのエピソード、高校生モデルの保倉幸恵との本の少しの「触れ合い」を大幅に膨らませたものになっていた。その視点は、その保倉に「あの事件はなんだかいやな気分がする」と語らせたことで、明確である。私は映画の「視点」を支持する。
そしてこの本の中にあるように、
「わたしはきちんと泣ける男の人が好き」(p41)
と、保倉に言わせている。
これが見事に効いていた。
映画では、「きちんと」かどうかは観客に委ねられているが、妻夫木は最後に男泣きをするのである。
今年100本以上映画を見たが、邦画のベストワンはこの映画になると思う。
一方、本を読んでわかったことは、川本三郎は結局この朝霞自衛官殺害事件だけは「間違った方向」であったことは認めているが、全共闘事件全般は、ぜんぜん間違っていないと思っているということだった。
69年から70年にかけて日本の反体制運動は次第に過激になっていった。爆弾闘争も始まっていた。70年の3月には赤軍派による日航機よど号ハイジャック事件がおこっていた。今にして思うと、こういう過激な行動への傾斜は"世界のあらゆるところで戦争が起きているというのに自分たちだけが安全地帯に居て平和に暮らしているのには耐えられない"という、うしろめたさに衝き上げられた焦燥感が生んだものではなかっただろうか。"彼等は生きるか死ぬかの危機に直面している。それなのに自分は平和の中に居る"。この負い目を断ち切るには自ら過激な行動にタイピングするしかない……。(p106-p107)
こういうふうに一連の事件を曖昧に「擁護」している。「過激な行動」を「焦燥感」という「個人の問題」に摩り替えているところが、特徴である。
川本三郎は朝霞事件で自らの証拠隠滅の罪を認めた直後に起きた浅間山荘事件については、「事件のことを話すのもいやだった。自分の事件のことも、連合赤軍のこともすべて忘れてしまいたかった」と思考停止の状態になっていることを告白している。おそらくこの本を書くまで15年ずっと思考停止だったのだろう。
だからその15年後に、全学連議長の山本義隆や京都の滝田修を評価しているのである。
私は79年に大学に入った。いわば、10年遅れた世代、しらけ世代全盛のときに人生で最も重要な選択を迫られた世代である。だからこそ、私は彼らに詰め寄る「資格」があると思っている。
あなたたちが「全共闘運動とはなんだったのか」真に「総括」しなかったから、(もちろん力不足だったことは否定しないが)私はついに「活動家」になることができなかった。活動をするにはほとんど孤立無援に陥った。「あなたたち」とは誰か。その責任の「一端」は全共闘にだけではなく、そのシンパとして周辺に居た川本三郎たち、あなたたちの未だにこのようなことを言っているところにもあるのだ、と。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
映画を見たので原作も読みました。川本三郎さんのエッセイは昔から大好きだったのですが、まさか映画になるとは。結末が映画とは少し違います。私は映画のほうが好きです。60年代のもやもやした雰囲気と焦燥感が伝わってきました。
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もちろんキモとなる著者が逮捕される事件も読み応えがある。だが、私が惹かれるのは「それ以外」の名もなき人たちの肖像だった。彼らは紛れもなくこのエッセイにして痛切な自伝が描く「60年代」を生きていた。沢木耕太郎のスケッチや、村上春樹や中上健次、村上龍が描く青春を連想してしまう(おかしな話だ。龍は「遅れてきた」世代のはずなのに)。ということはこの書物は著者が一皮剥けて一流のエッセイストになる、その「一皮剥ける」ために何物かを葬らなければならなかった鎮魂の書物であり、同時に哀切な文学を綴った1冊どいうことになろう
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自分が生まれる前のことだし、安保とか全共闘とかよく知らないしなんか怖い感じがして読み始めるのにはちょっと勇気がいった。でも、読み始めたらそれはまったくの杞憂だった。書かれていることはたしかにその時代のことなんだけど、まったく古臭くない。全編に流れるスピード感、登場人物たちの気持ちの動きの鮮明さ、なによりもいまの時代にはないひとがひととして悩みながらも深く生きていくさま、街が街として、大人が大人として、機能している感じにとても憧れる。
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最初はつらつらと60年代当時の著者の記者としての日常が綴られていくだけだったのだが、いつのまにか「ジャーナリズムとは」と考えさせられる展開になっていく。自分が3年間学んできたもの、それは実際自分がその場にいたらどうするか?という類のものではなかった。単なる学術である。いざこの本を読んでみて、自分が著者の立場だったらどうしたか?答えがでない。
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刊行当時に読んだ時と同じ読後感。
甘くナルシスティックに当時の状況に翻弄された様を記す。
そりゃ映画になるかも知れないな、と思った。 -
記憶のかなたに消えていた60年代がセピアからフル・カラーになって甦ってくるような一冊。
あとがきに綴られた <あの時代に青春を生きた人間が好きなのだ> という川本氏の真情は、あの時代をさまざまに生きた人たちへのオマージュでもあるのだろう。 -
記者としてのあり方,モラル,そして時代の空気.
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一雑誌記者の60年代末~70年代の思い出。
取材する側にどれだけコミットしていいものか、悩みに悩んだ様子が端々から読み取れる。
活動家たちに心情的に寄り添う部分がありながら、取材記者としての立場で彼らを見て、記事を書く。
自分自身の立場に、何かしら消化しきれないものを抱えながら、やがて記者生活の終わりを迎えるきっかけとなる「ある事件」にかかわっていくことになる。