- Amazon.co.jp ・本 (277ページ)
- / ISBN・EAN: 9784582842210
作品紹介・あらすじ
人はなぜ作るのか。大量生産、複製技術の時代にあって、人は作ることによって何を求め、何を経験しようとしているのだろうか。本書は、民芸運動の指導者として神話化されてきた柳宗悦の言説を歴史的に検証しながら、「手としての人間」像に収斂した彼の創作理念の現代における思想的可能性を探り出そうとする。「手としての人間」の反復的な受動性において、「原像」を越えて立ち現われるかたちの生成、そこに蘇生する素材の自然や固有な場所と歴史、さらに制作の共同性。そうした人間存在の根本的な可能性への開けとして、著者は柳宗悦の創作思想を解体=再構成し、すべての制作が目的と手段の無限連鎖の中に絡めとられてしまった現代における作ること固有の意味の救済を試みる。
感想・レビュー・書評
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『柳宗悦 手としての人間』(平凡社) - 著者:伊藤 徹 - 鷲田 清一による書評 | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS
https://allreviews.jp/review/5502
柳宗悦 手としての人間 - 平凡社
https://www.heibonsha.co.jp/smp/book/b162936.html詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
柳宗悦に対する冷静な批評が自分にとって新鮮。筆者だけでなく多くの批評家の意見が載っているから面白い。柳と民芸の事を考え直した一冊。
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白樺派として出発しながら、民芸運動へと活動の場を移していった柳宗悦が、どのような内的必然性に導かれていったのかを解き明かしている。最後の方では、柳が陥った問題を指摘しながら、彼の現代的意義を救い出すことが試みられる。
白樺派は、「家」に代表される旧世代の桎梏を脱して、みずからの「自然」を生かす「自己実現」を理想とした。若き日の柳もそうした思潮の中にあった。彼は、ゴーギャンやゴッホなどの芸術家を、芸術の伝統的規範に縛られずに、自己を表現したいという内的意志を奔出させた「天才」として称揚する。
1921年の朝鮮の陶磁器の美を論じたエッセイ「陶磁器の美」を皮切りとして、こうした柳の思想に変化が生じる。著者はこの変化の理由を、作ることの主体についての別なイメージが彼の中に生まれたためだと説明する。すなわち、卓越した独創的個人が作品を作り出すのではなく、個人が「自然」の中に包まれて溶解するとき、「自然」に作品が生まれるというイメージである。こうしたイメージに導かれて、やがて柳は、無名の陶工が作り出す民芸品の美、「下手ものの美」を発見することになる。
ところで著者によれば、こうした柳の発想はある「弱さ」をもっている。柳が無名の陶工を賞賛していたのは、個が集団の中に解体されるファシズムやコミュニズムが興隆する時代だった。彼の民芸運動も、そうした時代の潮流に巻き込まれる弱さをもっていたのである。
だが、柳の思想はほんらい、そうした集団への個の解体という時代の動向から脱するための道を示すものでもあったと著者は考える。ファシズムやコミュニズムは、全体の有用性のために個人を徴用してきた。そして、この傾向は現代も続いている。いや、むしろ現代こそ、あらゆるものを有用性という観点の中に取り込み支配する時代である。だが柳が発見した「美」は、すべてを有用性の中に取り込んでいく現代にあって、その中で用いられる具体的な道具が放つ輝きだったのではないだろうか。彼は、日常の空間の中で用いられる器物がもつ「美」、つまり「用の中の美」を発見したのである。