- Amazon.co.jp ・本 (211ページ)
- / ISBN・EAN: 9784582853711
感想・レビュー・書評
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80歳、パーキンソン病の詩人、石牟礼道子さんと詩人・伊藤比呂美さんの「死を想う」こと。伊藤が聞き手となって、石牟礼の家族の死のこと、そして自分自身の死のことを聞いている。
伊藤自身も両親を介護しながらだから、いずれかならず訪れるであろう身近な人や自分自身の「死」について考えている、うちに、話は「梁塵秘抄」に行き着く。後白河法皇の編纂した歌謡集で、平安時代の当時からどのようにして死んでいくか(そして、仏になるか)はずっと人々が思い悩んでいたということらしい。
仏は常に在せども 現ならぬぞあはれなる
人の音せぬ暁に ほのかに夢に見え給ふ
なにかこう、人々が朝早くぱっちりと目が覚めてしまって、ふと音のしない明け方、ぢっと仏のようなものが見えた気がする。
石牟礼がパーキンソン病で動かなくなっていく体をどうにかこうにか動かしてとつとつと生活する中で、朝、目覚めると「ああ、まだ生きていた」と思うことがあるらしい。このなんともいえない寂寞感は、80代になっても、20代でも、あるもので。
「読書感想文」といわれると難しいけれども、人々が自分の死を想起したときにおこる「あの、感じ」をすでに後白河法皇は汲み取っていたし、後白河法皇の「歌の上手を召して多くの歌謡を知ったが、死後それらが伝わらなくなることを惜しみ、書き留めて本にした」という意思も、こういったかたちで21世紀の日本にもひっそりと伝わっているんだよ、という、そういう話、であります。
この本が誰かの救いになるかどうかはわからないけれども、ただ、石牟礼と伊藤とがひそいそと梁塵秘抄を朗読している様は、非常に、確実に、心温まる、救いに通じるものがある。 -
わかりやすいというか、分かり易すぎるというか。
態とそこまでレベルを落としているのかも知れないが、死についての心構えについて、まるで小学生が聞きそうな事を死に掛けの人に聞いている座談会。
伊藤さんという詩人が親の介護まで死について考えを深める機会がなかったというのはどういうことなのかなぁ?
それがごく一般的な事なのか、健全な証拠なのかわからんけど、簡単な話をしてると思ったらいきなり梁塵秘抄について話し始めるし読者はついて行けるんかい?と疑問に思う。
まぁ詩人のいうことだから、飛躍するのは仕方ないのかな。 -
梁塵秘抄に興味を持った
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[ 内容 ]
寝たきりの母を持つ詩人は、死とはどういうものか知りたかった。
他の人にあけすけに聞けない、「でも石牟礼さんなら」。
これまで多くの苦しみと死を見つめてきた作家は、切実なことをぐさりと言われたような気がした。
こうして十二月の穏やかな日、二人は語りはじめた。
老いと病、介護・看護、家族の死、さらには『梁塵秘抄』。
そして「いつかは浄土へ」という祈りに至る安らぎの対話。
[ 目次 ]
第1章 飢えと空襲の中で見たもの(パーキンソン症候群―読めなくなる、書けなくなる 声が出なくなるかもしれない ほか)
第2章 印象に残っている死とは(祖母の死 あの世は「良か所」 ほか)
第3章 それぞれの「願い」(『あやとりの記』―流々草花 お経はどこで習いましたか ほか)
第4章 いつかは浄土へ参るべき(『梁塵秘抄』を飛び飛びに読む 「我等も終には仏なり」 ほか)
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
2010/2/1購入
2012/10/2読了 -
「死」をどうとらえるか。石牟礼さんのバックグラウンドから出る言葉はとても深い。
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石牟礼道子さんと伊藤比呂美さんの対談集パーキンソン病を患う石牟礼さんが老いや死をどのように受けとめているかを、執拗に伊藤さんは聞く。梁塵秘抄の「暁静かに目覚めして、思えば涙ぞ抑えあへぬ、儚く此の世を過ごしては何時かは浄土に参るべき」。石牟礼さんの到達した地点に私はまだ遠い。しかし浄土に参るという考え方に共感。豊かな時間を生きてきた人だと痛感する。昔、老人との別れの言葉は「さようなら」ではなく「お名残惜しゅうございます」だったとか。このコトバには「この次においでるときは私はもういません」という含みがある。生きることは死ぬこと。そんな遠いことではないようだ。