- Amazon.co.jp ・本 (264ページ)
- / ISBN・EAN: 9784582855739
作品紹介・あらすじ
科学の専門家と一般の人をつなぐ-そんな試みが、いま世界中で行われている。だが、なぜ科学と向き合う必要があるのだろうか。そもそも、どうして科学はわかりにくいのか。"人間"と"科学"を改めて見つめ直すなかで、科学と、科学とともに歩むことの意味を考える。
感想・レビュー・書評
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科学の成り立ちを、その起源からの時代背景を踏まえて体系的にまとめることで、本質をとらえる試みをしている。
人間が論理的思考よりも社会的な思考の方が向いているという説明があった。純粋な論理よりも、社会活動に照らし合わせたエピソードで例えれば理解されやすい。これは社会の中で人が生きて行く環境に人間が適応しているからだろうと思った。
最近は行動経済学やビジネスモデルの設計など、社会活動の領域にも論理的思考のニーズが高まっている。ソフトウェアやシステム設計の現場では日常生活の中に論理的思考が浸透している。ソフトウェアエンジニア出身のCEOや、起業家が増えていることにもそういった背景があるのかもしれない。
「なぜ、人を殺してはいけないのか?」の理由づけから始まり、人は人とのつながりが希薄になると利己的になりやすく、破滅の道に繋がっていくという話があった。これは、これまで人との繋がりの重要性の根拠を、曖昧な定義のモラルや感情に求めてきた説明に、論理的な解釈の道筋を与えてくれた。
創造者は悪用の可能性に思いをはせる責任があるという話には、新興企業が法整備が未熟な新しいビジネスモデルの危険性に関して、倫理的な態度を持つべきだという話と共通点を感じた。
蓄積された科学的知識によって、人類が急進的に発展してきたように、累積性による発展というものの見方で考えると、次の社会変化はヒトゲノム解析のように、これまで累積性のなかったシステムに累積性が備わることによって、進化の特性が一気に変わる可能性があるという考えに至った。
[用語集(途中)]
◆66 心象:心に思い浮かべることのできるすべての心理的現象、心理的イメージ
◆117 世界観:わかるための枠組み、科学は世界観のひとつ
◆123 懐疑主義に基づいた合理的方法
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サイエンス
教育 -
科学側にいるものとして、どう伝えていくべきか考えることもあり、図書館で借りました。
1,2章あたりは科学コミュニケーションの定義やなぜ伝わらないのかといった内容で、興味深く読めました。人間は論理だったことは本来苦手だったり、情報はなかなか伝わらないため共感を生むのが大事、など。
中盤以降は科学の歴史や事例を紹介しているのですが、科学コミュニケーションのための手引きとかではなく背景的な内容が多く、読むのが疲れました。 -
科学コミュニケーションそのものというよりは、科学コミュニケーション以前に身に着けるべき心構えについて、著者独自の考察から書かれた本。
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数あるコミュ力向上の啓発本を読んだ人、これを読め。
コミュニケーションとは発注と納品で、その齟齬を改善するしかない。
科学を好きにさせる。そう意気込む人はいるが、それは発注されているものなのか。理系の人は発注と納品の観念が薄い。
一般人はそもそも科学を本質的に好きじゃない。なのに「科学はいいぞー。」「科学たーのしー。」と価値観を押し付けても決して伝わらない。
そこで必要なのが、「方法と世界観」だという。もっと非理系のひとが分かりやすい具体例と経験を与えることがよりよい「科学コミュニケーション」になるという。
この本は教育の本にカテゴライズされるのかな。科学的思考を一般人にとって身近なものにする。科学サイドが一般人にとってわかりやすいものになるように譲歩するようにする。
けっきょく、教育の革新ってマイノリティを育てるだけである。そういう寂しさも覚えた。ここにあるような科学的な思考とかをご老公たちにどれだけ身に着けてもらえるか。それをしなければ日本社会、いや世界規模の社会は大きく動かない。子供たちは変えることができるんだ。マジョリティである大人たちが変わらなきゃあ、世の中良くならない。大人たちへのアプローチ、その「大人へのコミュニケーション」が大事だなと思った。
これからのネット利用は、知的レベルが低いほど情報の偏りが大きくなるであろう。だからこそ科学コミュニケーションという名のニュートラルでリアリスティックな見方も重要視される。そう思った。
「時間の使い方」本当に大事。ネットの登場で情報処理が加速して、情報の扱いが雑になった。効率化とはいえ、丁寧さを失っては本末転倒だということを心に刻みたい。
あと「おわりに」の去り方が颯爽としている。
この著者の今後の本も読みたい。そう思える人柄が本の内容から伝わってきた。よかった。 -
科学嫌いはそもそも科学信奉者の押し付けが嫌い。
という主張はまぁそうだよなぁという感じ。
そもそも気に入らないところからの熱烈な押し付けって、怪しい宗教と何ら変わらんし。
それはいいとして、論理展開は中々グダグダ。
著者の決め付けによる進行、根拠の古さ(発行が数年前ということを置いても)が目立つ。
主題とは特に関係無いところだけど、成る程なぁと思ったのは「科学は蓄積可能、芸術は蓄積不可能」という点。
今、紀元前の時点の科学を学ぶ意味というのは特に無いけど、芸術は変わらずに楽しめる。
それは偏に、科学は(記録の技術により)積み上げていくことができるが、感性の分野はそうではないから。
そこからその二項の対立みたいな話があるんだけど、そこはまた別の話。 -
サイエンスカフェに対する違和感の正体がわかった。
日本人はまだその段階に達することができていないのだな。
2~5章の話なら、村上陽一郎の本を読んだほうが良い。
あとがきの参考図書だけ、参考にさせてもらおうと思う。 -
サイエンスコミュニケーションの教科書というよりは、比較文化、世界観的なところで風呂敷が広がっていて面白かった。
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第1章 科学コミュニケーションとは何かー情報伝達と共感・共有の違い
第2章 物理学が難しい理由ー人間の脳と思考の傾向
第3章 アダムとイブの子孫としての私たちー進化による考え方の形成
第4章 合理と神秘の間に揺れてきた歴史ー科学という強力な道具
第5章 科学への向き合い方ー文と理の分裂の地域差
第6章 第三の方法へ向けてー共感・共有のための可能性
第7章 バベルの塔ー人類と科学の責任 -
たまにはこういう読み物を読んでみましょう。