正義のフロンティア: 障碍者・外国人・動物という境界を越えて (サピエンティア)

  • 法政大学出版局
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  • Amazon.co.jp ・本 (568ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784588603259

作品紹介・あらすじ

健常者/障碍者、国内の人/国外の人、人間/人間以外の動物は、これまでリベラリズムにおいて恣意的な境界によって分断され、差別的な扱いを受けてきた。本書は、ロールズが正義の主題から排除せざるをえなかった存在者を、政治哲学、法哲学、倫理学、国際開発論その他の分野を横断しつつ、センを踏まえた独自の可能力アプローチによって包摂し、現代リベラリズムに一石を投じる。

感想・レビュー・書評

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  • 資料ID:21402471
    請求記号:311.1||N
    配架場所:普通図書室

  • [ 内容 ]
    ロールズが正義の主題から排除せざるをえなかった存在者たち。
    さまざまな学問分野を横断しつつ、センを踏まえた独自の可能力アプローチによって、現代リベラリズムに一石を投じる。

    [ 目次 ]
    第1章 社会契約と正義の未解決の三つの問題
    第2章 障碍と社会契約
    第3章 可能力と障碍
    第4章 相互有利性とグローバルな不平等―国境を越える社会契約
    第5章 国境を越える諸々の可能力
    第6章 「同情と慈愛」を超えて―人間以外の動物のための正義
    第7章 道徳情操と可能力アプローチ

    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


    [ コメント ]


    [ 読了した日 ]

  • ロールズのモデルを多義的に拡張させたもの。精読する価値がある。

  • 社会契約の伝統は、「自由かつ平等かつ別個独立の人びと」の相互有利性のための契約としての社会の一般イメージを私たちに遺してきたとは言えるだろう。p21

    【未解決の三つの問題】
    1. 器質的損傷と障碍
    2. ナショナリティ
    3. 種の成員資格
    ⇒<三点の共通項>
    本書がその権原に着目する生き物たちと、ある支配的なグループとのあいだにおける、力と能力の深刻な非対称性を含んでいる。p30

    社会契約の伝統は「社会の基本的諸原理は誰によって設計されるのか」と「社会の基本的諸原理は誰のために設計されるのか」という、原理的に異なる二つの問題を融合している。p23

    「自由かつ平等かつ別個独立」p37

    ジョン・ロック「同じ種、同じ級の被造物は、生まれながら無差別にすべて同じ自然の利益を享受し、同じ能力を用いうるのであるから、互いに平等であって、従属や服従があるべきではない」p39『市民政府論』

    社会契約およびその目的に関する構想を全体的に変えない限り、別個独立の想定は、平等の想定と同様に、容易には変更しえない。それというのも、この構想が描いている当事者はそれぞれ、相互協働の利益を得るために自らの特権の一部を犠牲にすることに意欲的な、各々が生産的な個人だからである。p43

    【ロックの自然状態には拘束力のある道徳的な諸義務がある】
    ①<自己保存の義務>
    ②自然本性的な平等性および互恵性を所与とする<他者保存の義務>
    ③<他者を殺さない義務>
    ④<他者の自由、健康もしくは財産に害を加えることを通じて他者に打撃を与えるようなことをしない義務>p53

    【人間の中心的な可能力】p90-92
    ①生命
    ②身体の健康
    ③身体の不可侵性
    ④感覚・想像力・思考力
    ⑤感情
    ⑥実践理性
    ⑦連帯
    ⑧ほかの種との共生
    ⑨遊び
    ⑩自分の環境の管理

    可能力アプローチが契約主義よりも正義の問題に対して柔軟に接しうるのは、それが結果指向の理論であって手続き的な理論ではないことを理由のひとつとしている。p102

    知的損傷のある人びとは、社会の基本的諸制度が構築されるさいの名宛人のなかに、またそれらが構築されるさいのやり取りを行う人びとのなかに、事実上含まれていないのである。p116

    ヒューム「正義が生じる状況」

    ロールズの理論はハイブリッドであり、公正な諸条件を重視する点ではカント的だが、「自然状態」および相互有利性という目標を重視する点では古典的な意味で契約主義的である。p122

    【障碍者は初期条件から排除されている】
    人々はが他者と集って基本的な政治原理のために契約するのは、ある特定の諸状況、つまり相互便益が期待でき、かつ全員が協働から利益を得る側にある状況においてのみである。通常ではない費用がかかる人々や、集団の福利への貢献度がたいていの人々よりもはるかに低いと見込まれる人々を初期状況に含めることは、この理論全体のロジックに反することになるだろう。もし人々が相互有利性のために協働的な制度を編成しているならば、協働を通じた利得があると期待しうる相手と集いたいだろうし、社会的生産にほとんど何も寄与しないにもかかわらず、例外的で高額な費用がかかる配慮を要求し社会の福利レヴェルを引き下げる相手とは、集いたくないだろう。⇒「契約理論の不快な特徴」p123

    ロールズのカント的な契約主義ー基本善、カント的人格、だいたいの平等性、相互有利性 p125

    子ども、老齢者、知的・身体的な障碍のある人びとのケアは、どの社会においてもなされる必要のある仕事の主要な部分であり、またほとんどの社会では甚だしい不正義の源泉となっている。どの正義の理論も、この問題を基本的な制度構造の設計において、そしてとくにその基本善の理論において、はじめから考えなければならない。p148

    人間一人ひとりが目的であるというカント的な観念と、社会的利得の増進のためにほかの人間を誰ひとりとして毀損してはならないというカント的な観念とは、障碍のある人びとのための正義の理論のどれによっても、適切に拡張されたかたちで用いられるべき大いなる価値を有する諸観念である。p171

    「重なり合うコンセンサス」p188

    【ケア】
    ケアを受ける人びとの生においてケアが果たす親密で基本的な役割をもってすれば、私たちは、ケアは人間の中心的な可能力の全範囲に取り組むものだと言わなければならないし、もしくは取り組むべきだと言わなければならない。p195

    「直観主義であるという論難」p200

    【なぜ可能力アプローチか?】
    可能力アプローチは、各人を目的とする原理という基本原理である。p248

    <リストについて寛容と多元主義>p339-341
    ①リストは可変的で継続的な修正と再考を免れないものだと理解されている
    ②リストの項目は、まさに各国における市民たちおよび議会と裁判所による明確化や熟議といった活動の余地を残すために、やや抽象的で一般的な仕方で定められている
    ③リストは独立の「不完全な道徳的構想」を表すものであり、政治目的のためだけに導入されている
    ⇒リストは「重なり合うコンセンサス」のための基礎を提供している
    ④適切な政治目標は可能力であって機能ではないことを強く主張するならば、国際領域においても多元主義は保護される
    ⑤言論の自由、結社の自由、良心の自由という、多元主義を保護する重要な自由が、リストの重要な項目になっている
    ⑥可能力アプローチは、正当化の問題と導入の問題を厳格に区別する
    ⇒⇒可能力アプローチはこれらすべての仕方において、各人の基本的な権原に関して妥協することなく、多元主義と差異を尊重するものである

    ロールズが相対的な社会的地位の指標として所得および富に依拠していることに問題がある。p325

    【可能力と教育】
    あらゆる人間の可能力の鍵は教育である。また教育は世界でもっとも不平等に分配されている資源のひとつである。民主主義にとって、人生の享受にとって、自国内部の平等および社会的流動性にとって、そして国境を越える実効的な政治活動にとって、教育よりも重要なものはない。教育は役立つ専門技能を与えてくれるものとしてのみならず、同時にもっと重要なこととして、人間を適切な情報、批判的思考、そして想像力を通じた全般的にエンパワーメントするものとしても、理解されるべきである。p368

    Cf. インド憲法 p330、『人間開発報告書』p333

    国家は必要不可欠な道徳的出発点だとは言えない。各人はどんなときも何らかの国境の内部で生きているというのは真実である。だが、人びとは身体から身体へと移動することがなく、またそうすることは出来ないが、国家から国家へは移動できる。p271

    (可能力アプローチでは)人びとは実際に何ができて何になりうるかという、ある一定の有益な結果の達成という観点から、社会正義の最小限の構想が規定される。p284

    功利主義は共同体をひとつの超人格として扱うことを通じて、またこの単一構造内におけるあらゆる満足は代替可能なものであると見なすことを通じて、諸個人と彼らの生が根本的に別個であることを無視しており、それらを「権利と義務がそれに従って割り当てられることになる数多くの系列」として扱っている。p290

    【正統性の閾値】
    政府が人びとに道理的な説明責任を果すことである。p297

    「二段階契約」p300

    【グローバルな契約ーベイツとポッゲ p302】
    ロールズ的な枠組みのなかで個人を正義の主題として十分尊重する唯一の方法は、グローバルなシステム全体が存在すると想像することであり、また当事者たちは正義にかなったグローバルな構造へ向けて諸個人として契約を結んでいると想像することであると、説得的に論じている。<グローバルな原初状態>

    義務基底的か権原基底的か p317

    義務と権原は究極的には相関しているが、義務から出発すると、手に負えないように見える問題に直面する場合、私たちは匙を投げたくなるだろう。権原から出発するならば、私たちは(キケロやカントを先達とする)オニールのように思考を急停止させるのではなく、より深くかつよりラディカルに考えるよう促される。p322
    ⇒端的に言えば、10の可能力を世界中のすべての人びとに対して適切な閾値レヴェルまで保障し終えない限り、私たちの世界はまっとうで最小限に正義にかなった世界とはならないのである。

    現代国家では、人間の可能力をもっとも深刻に脅かしている問題のひとつが汚職であるため、政府およびビジネス界の両方において汚職を発見しかつ防止する機制が、諸々の可能力にもとづく構想の安定性とにとって絶対に不可欠である。法に関する教育と法の執行官の訓練もまた、市民たちの可能力の保護を念頭に行われるべきだろう。したがって、人種、宗教、あるいは性別にもとづく差別が喫緊の社会問題となっているところでは、教育に、人種とジェンダー問題に重点を絞り込むことが盛り込まれるべきである。p357

    【グローバルな構造のための10の原理】p360~368
    ①責任の所在は重複的に決定され、国内社会も責任を負う。
    ②国家主権は、人間の諸々の可能力を促進するという制約の範囲内で、尊重されなければならない。
    ③豊かな諸国はGDPのかなりの部分を比較的貧しい諸国に供与する責任を負う。
    ④多国籍企業は事業展開先の地域で人間の諸々の可能力を促進する責任を負う。
    ⑤グローバルな経済秩序の主要構造は、貧困諸国および発展途上中の諸国に対して公正であるように設計されなければならない。
    ⑥薄く分散化しているが力強いグローバル公共圏が涵養されなければならない。
    ⑦すべての制度と(ほとんどの)個人は各国と各地域で、不遇な人びとの諸問題に集中しなければならない。
    ⑧病人、老人、子ども、障碍者のケアには、突出した重要性があるとして、世界共同体が焦点を合わせるべきである。
    ⑨家族は大切だが「私的」ではない領域として扱われるべきである。
    ⑩すべての制度と個人は、不遇な人びとをエンパワーメントするさいの鍵として、教育を支持する責任を負う。
    ⇒⇒国際協力の諸目的に関する新たな説明が、この取り組み全体の精神に活力を与え、それとともに人間発展とグローバルな人間的交際という諸概念が、相互有利性という希薄な観念に取って代わる。p369

    Cf. トマス・ポッゲ「グローバルな資源税」p366

    ある生き物が繁栄・開花するためのまっとうな機会を有しているかどうかを判断するさい、何が適切な基準であるかを教えてくれるのは(正当に評価された)種の模範である。これは人間以外の動物についても当てはまる。それぞれの場合で必要となるのは、それぞれの種に特定的な、諸々の中心的可動力の説明である(それには、犬と人間のあいだの伝統的な関係性といった、ある特定の種のあいだの関係性も含まれるだろう)。つぎに必要となるのは、その種の模範レヴェルまで、その種の構成員をー特別な障碍があろうともー高めることへのコミットメントである。p415

    相互有利性のみを接合剤とするリベラルな社会の像には特異な歴史的起源があり、またそのような像のみが有効であったわけではないということを、私は示してきた。p472

    想像力に富んだ勇気がなければ、こうした三つの領域が突きつけるとてつもなく大きな困難を前に、公衆の皮肉と絶望とが残るだろう。だが、可能であるかもしれないことに関するいくつかの新しい像があれば、これらのフロンティアに少なくとも接近することができるのであり、また哲学の理論がこれまで頻繁に承認してきた世界よりもはるかに複雑で相互依存的な世界における正義は何でありうるのかについて、創造的に思考することができる。p473

    <メモ>
    ・社会契約説論者たちは伝統的に、社会契約の主体対象を「自由かつ平等かつ別個独立」の合理性を備えたものと措定してきた。すなわち、障碍者や動物などはそこから暗に排除されているのである。
    +p123参照
    ロールズが想定していたのも「正常で十全に協働する」主体であった。p130⇒「無知のヴェール」に覆われた人にも含まれない。

    ・ロールズが「可能力アプローチ」を受け入れられなかった原因としてそれが「格差原理」と背反してしまうからである。
    ⇒相対的な社会的地位の指標として所有と富を用いることにコミットしている p190

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著者プロフィール

(Martha C. Nussbaum)
1947年生まれ。ハーヴァード大学博士(Ph. D)。ハーヴァード大学、ブラウン大学を経て、現在、シカゴ大学教授(Ernst Freund Distinguished Service Professor of Law and Ethics)。1986年から世界開発経済研究所(WIDER)のリサーチアドヴァイザー。2004年に発足した「人間開発と可能力アプローチ学会」(Human Development and Capability Association)の第二代会長(2006-2008年)。
主な著書に、The Fragility of Goodness: Luck and Ethics in Greek Tragedy and Philosophy(Cambridge: Cambridge University Press, 1986),Love’s Knowledge: Essays on Philosophy and Literature(Oxford: OxfordUniversity Press, 1990),The Therapy of Desire: Theory and Practice inHellenistic Ethics(Princeton, NJ: Princeton University Press, 1994),Upheavals of Thought: The Intelligence of Emotions(Cambridge: CambridgeUniversity Press, 2001),Philosophical Interventions: Reviews 1986-2011(Oxford: Oxford University Press, 2012)、ほか多数。

「2012年 『正義のフロンティア』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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