水 (百年文庫 69)

  • ポプラ社
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  • Amazon.co.jp ・本 (153ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784591121573

作品紹介・あらすじ

父を見舞いに故郷へ戻ると、草木は芽吹き、鳥は鳴く春の盛り。北国の遅い春の輝きと迫りくる死のコントラストに眩暈を覚える、伊藤整の『生物祭』。「彼女も俺も、もうどちらもお互に与えるものは与えてしまった」-海辺の病院で妻の看病に身を捧げる夫。疲弊した二人の間に差し込んだ微かな光(横光利一『春は馬車に乗って』)。「僕」は、新聞記事で十年前に滞在した運河の町が火事で焼失したと知る。下宿先の旧家のこと、美しい姉妹のこと…あの夏の記憶が動き出す(福永武彦『廃市』)。時の流れの中に浮かぶ生命を描いた三篇。

感想・レビュー・書評

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  • 私は「水」に生命のイメージを持っていたけれど、この巻は全体的に「死」の影が濃い。でも「生」の気配も持たせている。生死は分かち難いのかも。
    暗い水というよりは、清らかな水。

    伊藤整『生物祭』は死と生と性の描写が巧み。
    横光利一『春は馬車に乗って』は、まずタイトルが妙。愛がありました。
    福永武彦『廃市』はこの巻で一番気に行った。舞台がすごくいい。

  • 『春は馬車に乗って』三十年ぶりに再読。当時いたく感動した記憶があるのだが、今読むと微妙にこんな話だったかと感覚のズレを感じる。
    福永武彦『廃市』は見事な構成美というほかない。個人的には丸谷才一の『樹影譚』に連なるモダニストの系譜を印象づける。
    伊藤整含めて3人ともモダニストやね。

  • 横光利一が著者に含まれる作品で最初にとったのがこれ。

    ・収録作品
    伊藤整『生物祭』
    横光利一『春は馬車に乗って』
    福永武彦『廃市』

  • 「生物祭」
    死していくものと、若く命のさなかにいるもの。
    そのアンバランスさを、気持ちが悪いほど感じた。
    父と、父の死を、うまく受け入れられない。
    向かい合えない。
    それでも、死は世界に食い込んで浸出してくる。
    世界は春なのに、死ははっきりと存在している。
    そんな感じがした。

    「春は馬車に乗って」
    病によって、心身ともに苦しみ、苦しみ、苦しんで、死を受け入れる心境に入っていく。
    妻の八つ当たりと、それを受け止めたりかわしたりする夫の、夫婦だからこその姿に、胸を打たれた。
    最後に贈られたスイトピーの花束は、この2人の姿と重なって、私にはとても優しく柔らかく美しく感じられた。

    「廃市」
    想像はついた。
    が、なんとも切ない。
    水の町。
    水が多くを象徴する町。
    たしかに古めかしい。
    芯のある、凛とした、強く、美しく、頑なな古さ。
    見方によっては陳腐な話だけれど、すごくうまい。
    風景も人も、目の前にあるみたいに読めた。
    私は好きだな。

  • 伊藤 整『生物祭』
    横光利一『春は馬車に乗って』
    福永武彦『廃市』

  • ・伊藤整「生物祭」
    父の病状の悪化で実家に戻ったものの、まわりの風景はすっかり春で花や鳥が謳う。生殖の季節を女の粘液とかける比喩が直截で好きだ。死と生のコントラストが鮮やかでよい。
    「鶯の谷渡り」ってなにかと思って調べたら、鶯の「ケキョ、ケキョ、ケキョ、」というのは雄が縄張りを主張すること、と。
    それからエッチぃ意味もあって、これは女の身体をせわしなく接吻しまくることだとか。四十八手にあるのだってさ。へー。

    ・横光利一「春は馬車に乗って」
    これも似たような話だが、もう見込みのない妻の病状を看病する夫の話。妻は夫を遊びに行きたがるとか、仕事に夢中になるとかいってなじる。夫は理屈をつけて批判を交わし、本当のところはふたりの心は通じるように思える。死の淵にありながらも、どこにでもある男女のいつもの光景…。
    寝床から起き上がることのできない妻に、臓物やとりたての魚介類の説明をする夫のユーモアに愛を感じる。

    ・福永武彦「廃市」
    いまはなき思い出の中の水の都。町中を運河が走り、どこにいても川のせせらぎの音が耳に入る。幻想的、という言葉がぴったりする。
    しかし福永武彦の小説はいまいちしっくりこない。
    効果を狙いすぎるというか、破局やその後の展開が予兆されているような書き方が一枚のすでに出来上がった絵を見ているような気分にさせる。
    クラシックのように小説を書いたということだから、あるいは予定調和というのも美学なのかもしれんが。
    なんか古臭く感じる。

  • 2012.10.12読了。

    「水」は、いずれも喪失感をもたらすモチーフとして使われている。

  • 伊藤整「生物祭」、作者独特の生々しい表現が好きになれない。
    横光利一「春は馬車に乗って」、病床に伏した妻と看病しつつも食べるためと言いながら創作にいそしむ作家のやりとり。主人公の妻への思いは伝わらない。
    福永武彦「廃市」、この三編の中で一番好きな話。思うようにならない日常が描かれているからだろうか。自分の好きな男が本当は誰を好きなのかという思いこみは、当の本人から「あなたが一番だ」と答えを得ても疑心暗鬼は消えない。思いを遂げることは難しいことだと思わせる。

  • 百年文庫2冊目は「水」

    収録は
    伊藤整「生物祭」
    横光利一「春は馬車に乗って」
    福永武彦「廃市」

    伊藤整の小説は実は読んだことがなかった。「生物祭」は名前は何となく知っていたけど、というレベル。けっこう面白く読めた。他2編は再読である。

    とりわけ今回、私にとって面白かったのが「春は馬車に乗って」
    この作品の小説としての出来不出来は実はよくわからない。なのであるが、著者の歴史と合わせて読むとけっこう興味深かったのも事実。横光利一は芥川が亡くなったショックと今作のヒロインのモデル?である恋人を亡くしたことを自身の文学へ昇華させているのだが、その昇華のさせ方、あるいは、なぜこういうものを書こうとするのだろう、というところにとても考えを巡らせてみたくなったのである。
    昔はけっこう「テキスト(「テクスト」のほうがいいか?)に書かれているものが全て」という考え方(読み方)に染まっていたように思うのだが、最近は、「何がこういう風に書かせるのか」というところを考えてみることに少しずつ考え方が傾きつつあるようだ。その観点で読むと「春は馬車に乗って」は不思議な魅力のある短編に思われた。
    「春は馬車に乗って」は基本、客観の視点(「彼」と「彼女」)をとっているが、特に「彼」に入り込みすぎるように思えるところもあり、それが、小説の目新しい技法を用いてやっているというよりは、著者横光自身の中で大事な人の死が消化しきれず、結果として、表現に揺らぎを与えているように読めるような気がしたのである。恋人が亡くなってしまう、という場面を書いていないのもまた余韻を感じさせる結果となっているように思う。多少思い込みの強い読み方のような感じもするが、何となくそんなことを考えながらこの一編を読むことになった。

    題の「水」を最も感じさせる「廃市」は、今の自分にはあまり心に響かなかったようだ。福永武彦は本を読みだしたころとても好きだったのだが、「廃市」を今読むと、自分が想定しうる展開と文章の範囲にすっぽり収まってしまっている、という印象を受けた。この本の半分以上が「廃市」なのだが、「廃市」が一番早く読み終わってしまったのである。
    本を好きになり始めた頃の感覚、あの何を読んでも新鮮で面白かった、という感覚を取り戻したい、と思うことはしばしばあるが、やはりそれはとても難しいことのようだ。

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