戦国人物伝 竹中半兵衛 (コミック版 日本の歴史)

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  • Amazon.co.jp ・本 (128ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784591137215

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  • 秀吉がもっとも信頼した天才軍師!

    美濃の斎藤家に仕える竹中半兵衛は、態度の悪い主君をいさめるために、わずか16人で稲葉山城を奪取する。それは、稲葉山城を長年落とすことができなかった
    織田信長をも驚愕させる事件だった! のちに織田信長に登用され、羽柴秀吉の軍師として活躍する半兵衛の、短くも波乱の生涯を描く!!

    織田信長の跡を継いで天下人となった羽柴秀吉には優れた参謀が2人居た。
    後の世で「二兵衛」と呼ばれた
    ・竹中半兵衛
    ・黒田官兵衛
    である。

    この両名が打ち立てた作戦が秀吉軍の天下取りに貢献した度合いは計り知れないものがあった。
    両名共に信長ではなく秀吉の直属となった背景には、人間的な魅力で秀吉のほうが信長よりも温和で敵に対して過酷な処置をしなかったことだろう。
    秀吉が天下人となる前半戦では竹中半兵衛が、そして毛利家との戦いの最中に半兵衛が病死した後は官兵衛が参謀としての地位を担った。

    竹中半兵衛は元は美濃の斎藤家の家臣であり、父親は「美濃のマムシ」と呼ばれた下剋上の申し子・斎藤道三に仕えていた。
    しかし、道三は息子の斎藤義龍との戦いに敗れて死に、ほどなく義龍も病死して、その息子の龍興が当主となっていた。
    やがて半兵衛の父親も死に、半兵衛が家督を相続したが、主君の龍興は暗愚と評判で美濃国はまとまらなかった。

    半兵衛がその名を世に知られるようになったのは手勢僅か16名で主君の居城の稲葉山城を奪取してそれをすぐに龍興に返還。
    自らは弟に家督を譲って隠居した。自らが下剋上の世の潮流に乗る気など毛頭無く、あくまでも主家を想ってのことだったとのこと。
    けれど、これは後の世に彼の息子である竹中重門が著した「豊鑑」のよる伝承のようだ。
    実際は「龍興派」と「反龍興派」との対立によるもので、城乗っ取りは一時的には成功したものの、巻き返しに出た龍興によって奪い返されたというのが本当のところであるようだ。
    本来なら「謀反」を起こした半兵衛は抹殺されるはずだが、幸いにも龍興の求心力は低下しており、美濃攻略を目指して進軍してきた織田軍を抑えられなかった。

    やがて隠遁する半兵衛の下へ秀吉が訪ねてきて織田家へ仕えるように勧めてくる。
    斎藤家への忠節からかそれを断る半兵衛であったが、秀吉は何度も半兵衛を訪問して軍略の手ほどきなどを受け、師弟関係が徐々に構築されていった。そのうち信長の調略によって美濃の国人たちは織田家に寝返り、事ここに至り半兵衛もようやく折れて織田家に出仕するようになった。けれど、立場的には信長の直属ではなく「秀吉傘下」であった。時に半兵衛27歳の再デビューである。
    中国攻めの陣中で没したのが36歳の時なので、半兵衛の表舞台での活躍は僅か10年弱の短い期間である。

    けれどそれは織田信長の「天下布武」の戦いの軌跡にそのまま参戦することを意味した。
    浅井・朝倉氏との「姉川の戦い」「小谷城攻め」等でも秀吉傘下で功を上げ、浅井長政の裏切りで信長が危機に陥った際は秀吉と共に「金ヶ崎の退却戦」で殿を務めている。
    彼の編み出す作戦・用兵は「孫子」の軍略に基づいたものであり、「戦わずして勝つ」を基本とした。
    決して犠牲を出すような力攻めは好まず、極力犠牲を避け勝利を得ることに集中した。
    「秀吉は城攻め、家康は野戦が得意」という後世の評価も、秀吉が半兵衛から教えられたものが大きかった故であろう。
    自らは病身であり、決して戦国の世に向いてはいなかったはずであるが、秀吉の、或いは信長の「軍勢をその知略によって使役する」ことで、大いに力を発揮して周囲の人間、特に秀吉には一目も二目も置かれていた。

    やがて城持ち武将となった秀吉の下で中国地方の毛利氏攻めに参加。ここで自身の後継者ともなる「黒田官兵衛」と出会う。
    後に秀吉に「油断ならない男」として警戒されることになる官兵衛も半兵衛の実力を認め、敬った。
    半兵衛は病弱故か自身が長生き出来ないことを悟っていたフシがあり、それが無欲かつ清廉なイメージを作り出した。
    禄高や褒賞などには頓着せず、織田家の勝利が「乱世の終結」へ繋がることを信じていたのだろう。
    その中国攻めの陣中で結核の病状が悪化。遂に帰らぬ人となる。
    「人生五十年」と称された戦国の世で36年の短い生涯であった。
    その精神は「黒田官兵衛」「秀吉」に受け継がれ、間接的ながら天下統一に大きく貢献したといえる。
    存命ならば秀吉によって数十万国の大大名となり、五大老に列せられていたかもしれない。

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