家光=千恵が女だということを公表したため、大名たちも女性の跡取りを持つものが増えてきた。皆男名を名乗った。
千恵は大奥改革に着手。大奥の人員を整理し、暇を出したものを吉原に送る。
また、「御内証の方」を死罪にすることも決定する。
有功はそれに対し、素直にしたがって手配した。
そして、女子の5分の1にまで減った男子が、4分の1まで回復。
また、その年米が大豊作になる。
女将軍はめでたいということになり、民衆にも受け入れられていく。
ある日、千恵に夜伽に呼ばれた有功は「お褥すべり」を願い出る。
千恵は納得し、ここに唯一将軍の側室から選ばれた大奥総取締・「お万の方」が誕生する。
千恵はその後、流産や出産を繰り返し、慶安二年、それがたたったのか二十七歳の若さで亡くなってしまう。
その死は千恵の遺言で父家光のものとして公文書には記されることになった。
また、堀田正盛、阿部重次、稲葉正勝がその死に伴って殉死した。
側室であった玉栄、お夏はそれぞれ出家し桂昌院、順性院と名を改めた。
時は変わって千恵の娘、千代姫が四代将軍家綱として君臨。
家綱の時代には女性大名がさらに増えており、全大名の半数以上にのぼっていた。
家綱が14歳のとき、宮家から縁談が持ち上がる。しかし家綱は能や狂言、水墨画にしか関心がなく、恋などはとてもとても…。という感じの将軍だった。
家綱の治世は家光時代の遺産ともいえる優秀な家臣たちが集まっており、幕政は安定の一途をたどっていた。
しかし家綱自身は政治にあまり関心がなく、家臣にまかせきりにするため、「左様せい様」というあだながついてしまう。
こまった家綱の大叔母、「保科正之」は、大奥総取締・万里小路有功に相談する。
ある日家綱が「平家物語」を聞いていたとき、(有功の誘導によって)心優しい家綱は流罪人の境遇に心を痛め、暮らしを改正するため保科正之をよぶ。
しかしこれが、彼女が将軍らしい所を見せた最初で最後のものだった。
かねてから問題になっていた家綱の「御内証の方」には倉持(くらもち)という青年が自ら希望して選ばれ、死罪となる。
明暦三年、江戸全体が大火災に見舞われ、江戸城本丸も焼け落ちてしまった。世に言う「明暦の大火」である。
火災の中有功は家綱を抱えて火の手の遠い所へ逃げる。その道中、家綱は有功に抱きつき、「好き」と告白。「ずっとそなただけが私の男と思っていた」と。
有功は愕然とする。
江戸の町の復興が優秀な幕閣によっておこなわれ、また大奥も有功の指示により形を取り戻していった。
だが有功はそののち、大奥から去る。剃髪して、吉宗が将軍になる五年前まで生きた。
家綱は41歳でその生涯を終えるまで子を儲けることなく、妹の徳子(とくこ・千恵と玉栄の娘)が五代将軍綱吉として就任することになる。
ここらへんから、男女の立場が入れ替わってゆく。
綱吉は娘松姫を側室・伝兵衛との間に儲けた後、自分の自由にならない大奥のきまりに飽きていたが、御側用人・柳沢吉保の提案で、同じく御側用人・牧野成貞(ふたりとも女性です)の家で、能楽の宴を開くことになった。
成貞は腕によりをかけて綱吉を歓迎し、上様好みの美男も用意。しかし、綱吉が指名した男は、成貞の夫、邦久―通称・阿久里だった。
ここから綱吉の魔性の女っぷりが発揮される。
綱吉の阿久里への寵愛は度を越しており、牧野邸へのお成りは32回に及んだ。また、牧野成貞には、下総国関宿の城主の座を与える。
そんな綱吉に対して御台所の信平(のぶひら)は、京から美男を連れて来て綱吉の側室にし、自分の勢力拡大を画策する。
一方側室の伝兵衛は、非常にあせり、ついには桂昌院(玉栄)に「少しは頭を使わんかい!」と怒鳴られてしまう。
そんな中、綱吉は自分の横で眠る阿久里の姿を見て、「この男、もう永くないかもしれぬな」と察知し、その息子である貞安を誘惑。貞安は妻の時江を離縁し、大奥に入ることに。時江は自害。阿久里も死亡してしまう。また貞安も大奥に入った一年後に病死。夫も息子も奪われた牧野成貞はうつ状態になり、綱吉のもとを去った。
そのせいで綱吉の寵臣は柳沢吉保ただ一人となり、彼女は絶大なる権力を手にする。
そこにやってきたのが信平が呼び寄せた右衛門佐という青年だった。
たちまちその美貌は大奥中に知れ渡る。
しかし、彼はなかなかのしたたか者で、桂昌院をして「曲者」と言わしめる人間だった。
また、学問にも優れ、学問(儒学など)の講義をするようになる。
無類の学問好きである綱吉は、右衛門佐の評判を聞き、かれと学問についての問答をする。満足した綱吉は、信平に、右衛門佐を自分にくれるよう頼むが、右衛門佐自身は側室になることを拒否。
代わりにお万の方有功以来ずっと空席だった大奥総取締の座を要求したのだった。