どつぼ超然

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著者 : 町田康
  • 毎日新聞社 (2010年10月15日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (312ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784620107585

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どつぼ超然の感想・レビュー・書評

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  • ブクログさんより献本していただきました。ありがとうございます。

    町田康の小説を評するなど、凡人の自分にはまあ不可能だと思われますので感想をば書かせていただきます。

    「くっすん大黒」では大黒像を捨てなければ自分は幸福になれないと思い込み、「きれぎれ」では画家として売れた旧友への嫉妬心を晴らすために、彷徨・思考を繰り返す主人公を描き、僕を悶絶と爆笑の世界に連れて行ってくれた町田康の、久々に時代小説(風)な設定から離れた最新作。

    本作は、初期の上記2作と似たような印象を受けたが、彷徨・思考する方向性が短絡的な目的ではなく、超然とした人間になるという点が大きく違う。

    もちろん短絡的な目的・意図を、得意の被害妄想満点の思考力で展開する初期2作は(目的が自分勝手すぎるため)かえって爆笑を生むのだけれども、本作は(一応)高尚な目的・意図を持って主人公が行動・妄想するところがポイントだと思った。

    高尚な「超然とした人間」になろうと心に決めたものの、そこはやはり持って生まれた被害妄想・誇大妄想の脳内パレードにより、自分勝手な目的よりもさらに多くの困難や、脳内からの反論に見舞われ、そのたびに自分を保つために最大限の言い訳をおこなうさまに、初期2作の自分勝手すぎる主人公の所作に対する情けなさに対する笑いではなく、人間の滑稽さを露骨に見せ付けられ笑いが止まらなかった。

    被害妄想による脳内からの反論に、時に論理的に、ほとんどは詭弁で返し、さらに広がる妄想ドライブに読んでるこちらの脳もぐらんぐらん揺さぶられ、にへらにへらと笑みがこぼれ、ファミレスで読み始めたことに大きな後悔を覚えさせてくれる。

    特にP103「二十四の瞳」の教師を「瞳が二十四ある女教師」と説明するくだり、P133の「当初のコンセプトを最後まで保ち続ける重要性」を説くくだりでは声を出して笑わされた。

    何とか評論チックに書こうと思ったが、やはり町田康相手では無理だなと痛感したので、結局最終的に伝えたいことを書かせていただくと
    「この本は僕が読んだ中でも一番と言ってもいいくらいに爆笑できる稀有な本なので、みんなも読んだほうがいいよ」
    というあまりにありきたりな感想となってしまいましたw

  • 本人コメント有り!ブクログ特集http://booklog.jp/special/dotsubo/

  • ブクログ献本キャンペーンで頂きました。ありがとうございました。
    期日に間に合わず申し訳ありませんでした。

    せっかく頂いたのに急いで読むのは失礼だと思って、ゆっくり読みました。

    舞台は熱海ということで、それがなんだか面白い。
    なぜ田宮とされているのか、熱海と明記するにはためらわれるような記述をしているからなのだろうと察せられます。

    文学にはいくつか条件があって、ある程度日記みたいで、ある程度代名詞と固有名詞がまじっていて、そして現代を描いているものだと考えます。
    それは後世に残されて、また日本の文学者として知られるからには世界に向けても発信されていく。
    そういう意味では視点をこちらも大きくして読む必要がある。

    疲れるからいやなんですが、しかも最初は胸が悪くなりましたが、我慢して読みました。
    そうしたら、最後のほうにはなんかすっきりとしていました。
    つまりこういうことです。

    この物語には三つのポイントがあります。
    これに気づかないと、ただ単純に自殺をしようとしたおっさんが、それをやめて、生きながらえて牧場や文豪の宿泊した施設を見学してよかったね、という話になってしまう。

    そうではありません。まあ、ありていに言えばそうなんですが、そうではないのです。
    タイトルにあるように、「超然」、このこと以外、この本は何も語っていません。
    死でも生でも文豪の旅館でも、牧場でも、そんなものは表面の文章であって、そんなことはどうでもいいのです。

    まずは一つめのポイント。

    P.18 どんな考えか。すなわち超然と言う考えである。
    超然。そのことを乗りこえていて問題にしない様子。世俗的なことと無関係な様。
    素晴らしいじゃないかと思う。これこそが私の理想ではないかと思う。


    主人公は超然としたい、と心に固く誓います。
    そう思うようになるまでも、まあ色々あるんですが、まあたいした理由ではないです。
    なんか、そうなりたくなっちゃった。

    何があっても何がなんでも、超然としていようと。
    これは「海賊王におれはなる」に換言してもいいと思います。
    とにかく、まあ、なんかになりたいんだよと。

    なんかこうありたいんだよと、決意する。
    これは別に特別なことでなくて、こうありたいなあと思うことは、誰でもあると思います。


    そして、実際にそれを実践するべく、一人称を「余」と言い換えるようになります。
    余。なんか超然とした感があるので、そのことに異論はありません。


    けれども、早くも彼は挫折します。

    海岸で若い男女がキャッチボールをしているのを彼は見かけます。
    なぜかわからないけど、キャッチボールをしていて、そのうちの一人の少女は浴衣を着ている。

    浴衣で海岸でキャッチボール。どっこもひとつもマッチしていない、この姿。
    超然としていれば見逃すこともできますが、残念ながら彼は見逃すことができず、超然としていられなくなる。

    むしろ、そんなミスマッチを気にしない彼女こそが超然としていると気づいてショックを受けます。

    P.48 敗北。敗亡。
    この世に生を受けて四十五年。余はけっこう頑張って生き、自らを余と呼ぶ男までになった。
    そしてここ田宮の山上に居を構え、俗事を遠ざけ超然と生きようと心に誓い、実践してきた。
    しかし、余の超然主義の底の浅さがいまここに明らかにあったのである。
    ひとりの娘の存在によって。

    そこまでショックを受けることはないのに、とてもショックを受けて、彼は挙句

    余はこの世を去ることにするよ。

    と、潔いにも程がある、くらいの決断を下します。これが二つ目のポイントです。



    自分の理想とする姿を、あっさりと誰かがやっちゃっていて、それがあんまり自然で、へこたれちゃう。

    ここから、彼の紆余曲折がはじまります。

    といっても、死に場所を求めてただふらふらするだけなんですが。

    このふらふらする過程が前半部分。

    そうすると、このふらふら、なかなか終わらない。

    不思議なことに、彼が死ぬの怖さに理屈をつけているだけではなく、本当に「死に場所がない」のです。


    彼は死ぬための縄と台と、枝振りのいい静かな林を探している。

    けれども、縄と台がある場所には林がない。

    林がある場所には、縄と台がない。

    そして、どこもかしこも、どこかしら、誰かの所有物、所有地で、自分が安心して死ねる場所がない。

    この章を読んでいて、私は、現代の地獄は地獄がないところにあると三島由紀夫が記していたことを思い出しました。


    地獄、死に場所。

    こういうものが見つからないのが、今の世の中です。そのことに彼は失望します。


    P.160 絶対矛盾である。

    死神にも見放されたか。

    笠も漏りだしたか、という自由律俳句を拵えた人はこんな心境だったのだろうか。

    と、そう思った瞬間、余の頭のなかが突如として真っ青になった。


    この「真っ青になる」という表現。はい、これ文学、みたいな表現です。ここ大事。

    そのことに気づいた瞬間です。そういう表現です。

    つまり、死を意識したことで、死ねないと気づく。

    死ねない理由は、何もかもが「間に合わない」から。

    ぴったりと重ならないから。

    死ねない、と。

    つまり、現代では、完全に誰かのものである場所、誰かのものである道具、それを一式完全にそろえられることなど、ありえない、ということです。

    それに気づいたとき、人はどうするか。

    ありあわせで用を足すことになる。

    つまり、浴衣で海岸でキャッチボールの娘さん、そのひとそのものです。

    それこそが超然の真髄である。

    これがつまり、第三のポイントです。

    このことを、主人公は理解します。

    超然のしくみに気づいて、そのことに気づいたことで、超然の域に至る。

    そのおかげで、死を必要としなくなる。

    超然と生きながらえる、ということになる。

    だから、死ぬのが怖くなったわけではないのです。

    死ぬ必要がなくなった。


    これにつづく、第三章、第四章というのは、では、超然としてみると、どうなるか、という、応用編というか、ここからがお楽しみ、という章に入ります。

    まず、この第二章までの段階で、彼がただの理想論にすぎなかった超然主義を破壊され、自殺を心がけることによって、実際に超然を自然に会得する流れを理解しなければ、この第三と第四はもう読み解くことができません。むしろ、いっそ、唐突に旅館施設や牧場がでてきて意味ワカンナイ、ってことになります。


    物語の本質をとらえる、ということが大事です。
    文学って、そうだ、こういうものだった! と思ったのです。
    これは決して、ただのある町で起きたことの小説、おはなし、ではなく、おはなしという体裁をとった暗喩です。比喩。たとえ話にすぎません。

    主人公が唐突に死を思い立つ、この「死」は一見重いテーマですが、全体を通してものすごく軽い空気が流れる理由は、この「死のう」がたとえば「モデルになろう」でも「パイロットになろう」に置き返されたとしても成立する「ある決意」の象徴にすぎないためである、と私は思うのです。

    自分が何かしようと思ったときに、それができないと気づいたときの愕然とする感じ。

    その感じを想起できたのは、彼の死に場所を探す行為のあてどころのなさに、自分が経験した、ある体験を思い出したからです。

    小さい頃、ある女の子ふたりと「秘密基地をつくろう」と近所をうろうろしたことがありました。

    友達ふたりは意気揚々と、駐車場の物陰だの、開発前の原っぱだのに場所を定めようとするのです。

    けれども、ここは管理の人にみつかっちゃうよ、とか、ここは誰かの土地だから、空き地にみえてもだめだよ、などといちいち私は注意しました。

    そうすると、ふたりが、私の言っていることを聞いているといつまでたっても秘密基地が決まらないと怒り出したのです。

    私はまったくほんとうにそうだなあ、という、秘密基地がつくれない悲しみと、私のせいではないのに友達ふたりに嫌われたことが悲しくて、黙ってしまいました。

    やがて、…こいつぁ… というような、子供が秘密基地をつくるのにうってつけな空き地、草の生えた原っぱが見つかりました。

    そこにも立て札がしてあったので、私はやっぱりだめだと思いました。

    でも、嫌われるの怖さに黙って、ふたりについていって、基地をつくる作業的なことをはじめました。
    すでにそこを基地としたつもりでいるふたりと、あそこはこうでここはこうでといった建設計画を頭で組み立てるという楽しい空想作業をしていました。

    けれども、その入り口のあたりに、作業服を着たおじさんがきて、厳しい口調で叱られて追い出されました。

    つまり、今の世の中、死に場所や地獄どころか、秘密基地ひとつさえ容易には作れないのです。

    大人になって、日銭を稼いで「誰にも教えたくない」カフェとか、「おれの隠れ家」的な居酒屋とか、そういうものがつくれるように待つしかないのです。

    けれど、大人になってからも、そういう場所を見つけることができない人がたくさんいます。

    隠れることが苦手な人がたくさんいます。

    そういう人が子供を虐待したり、人を殺したりしてしまうのだと思います。

    世の中には隠れ場所が必要だし、それは幼い頃から、隠れるという体験を通して学ぶことです。

    けれども、今の世の中はあまりにも何もかもが明るすぎる。すべてのものが大人の眼差しのもとにさらされている。

    ドラッグストアも、ペットショップも、専門店も、猶予と隙間をなくしている。

    大きなデパートがどんどんつぶれて、ほんの少しの誰かが隠れるための遊び場もない。

    あるとすれば、チケットを購入して指定席に座らなければならない。

    最初は、自殺をしようだなんて大人気ないやつだと腹立たしく感じましたし、実質、今でもそのテーマそのものは受け入れがたいのですが、そのある体験を思い出したときに、するっと読みやすいものになりました。

    何が言いたいかがわかった気がするのです。
    それを理解しないうちに、「あわない」とか言って、ブックオフに売ってしまってはいけません。
    それは「あわない」のではなく「わかんない」だけなのです。
    わかんない、と、あわない、は違うのです。
    実際はわかんないだけなのに、ばかだと思われるのがいやで「あわない」と言ってはいけません。

    ただし、私もはっきり「あわない」と感じました。
    でも、それは「理解できない」のではなく、理解できた上での「あわない」なのであって、断じて解読できなかったわけではないと主張します。

    でも、ブックオフには売りません。図書館に寄贈しようと思っています。
    最初理解できないうちは、それこそ売ろうかと思っていましたけれども、理解できたら、そんな気持ちはうせました。
    ぜひ「あう」人に読んでほしい。だから寄贈する。

    あと、まあ、本当に、個人的なことを言わせて貰うと、死んでもいないのに死ぬ死ぬいいながらリストカットする歌手とか、死のうと思ったとか、そういうこと言いながら健康に気をつかってそうな文学者とか、もうおまえら本当、そんなら早く死んじまえよ、とか思うんですけれども。
    そういうのを好んで読む人も、よせよこっちは死ぬ暇もねえんだよ、とか思う。

    死を決意するとか、自殺しようとするとか、死にたいと思うのって、暇人の特権だと思っているので、ほんと、あわないんですけど。

    けど、言いたいことがわからないわけではないので、気づいたことを書きました。
    自殺しようとする表現についてのみ拘泥すると見過ごしてしまうのですが、あくまで「超然」、さらに「超然って、こういうこと」ということを氏は表現しているのだと思います。
    その熱心さ、熱中ぶりには驚嘆させられますし、あまりに世間を斬る眼差しが爽快で愉快なので、だんだんと、こんな面白い人が死んじゃうのはもったいないなあという気にすら、うっすらとさせられます。

    これはまぎれもなく文学だと思う。
    ただ、悲しいのは、このような姿が現代であると言わざるをえない現代そのものの姿、その実態だろうと思います。

    久しぶりに国語の宿題をやるような気持ちで読みました。
    せっかく頂いたので、読解力をフルに活用して読み解きました。

    普段リアルタイムで同じ時代に生きている文学者の本はあまり読みたいと思わないです。
    途中で自殺したり、薬漬けになったり、リストカットしたり、借金を背負って行方知れずになったり、急にセレブ顔でテレビに出てきて「あちゃー」と思わされる、そういう顛末を作者が起こしたりする可能性があって、それは胸が悪くなるから、読むとすれば既に亡くなられている作家か、「この人は大丈夫」というような作家の本しか手に取らないのです。

    町田康氏は、そういうことをしそうなぎりぎりのラインにいる人、という印象があって、なんだか手に取りづらい作家の類でした。

    でも、芥川賞を受賞したというニュースを耳にしたときあたりから、じゃあもう大丈夫かな、世間に認められたんだし、と思ってはいましたが、まあでもなあ、というか、好きな作家さんがほかにいるので、別にいいやと思ってました。

    でも、なんの因果かブクログキャンペーンにはずみで応募してしまいました。

    というのは、町田康氏が猫を飼っていることを、エッセイなどでちらほらと見聞していたからです。
    猫好きにとって、猫好きの書く文章は見逃しがたいものがあり、それまで何度か読んだ文章のなかでも、猫に関する文章は私好みでした。

    もともと、音楽をされる方であるためか、独特のリズム感があって、文章が読みやすい。それが罠で、読みやすいからするする読んでしまう。
    でも、思想についていけないと、吐き出したくなってしまうようなところがある。

    だから敬遠していたのですが、そうか、このひと、猫がすきなのか、と思った瞬間に警戒心が薄れてしまうものなのです。

    でも、だからといって、自分が買うほどではないといいますか、借りて読むほどでもない。といいますか、書店員だったときに、なんか苦手だった同僚も町田康がすきだった。なんか苦手な人が読んでいる本の作者。それだけで、ちょっとなあ、と。

    でも、申し込んでしまいました。
    ただ単に無料だったからです。

    あとサインがついているのかと思っていたためです。
    そんなもんです。

    テーマである、超然、という表現においては、さほど重要ではない表現、しかも文中ではいずれ淘汰されてしまう「ある考え」を示した文章が、そこだけは妙にしっくりきたので、そこを引用しておこうと思います。

    これがしっくりくるということは、私は一生超然とできないだろうなと思いますが、でも別にいいです。超然とか。
    でも、猫に関するエッセイならやっぱり改めて読んでみたいかなあと思いました。それが今回得したことです。

  • 人生、苦しいこともあるだろう、腹の立つこともあるだろう、でも大丈夫。そういう時は『どつぼ超然』を読みましょう!すると人生『頑張るぞー、頑張って、死ぬぞー』って気になりますから!

    すると悠々と人生を超然と見据える事が出来るようになり、「善きかな、善きかな、ほほほ。」と言えるようになる・・ハズ!!((笑))

    文章の書き方が主人公の独り言の形で物語が書かれているのですが、実は私、こういう文法?っていうんですか?例えば森見登美彦さんの【恋文の技術】や、アンシリーズの【アンの友情】など、台詞があまりない文章を読むのは(しかも、それが状況説明ではなく、独り言だったりすると)集中力を欠いてしまうんです。

    なので、例えに出した作品も、最後は面白く読み終わったのですが、本の世界に入り込むまで時間がかかってしまうのですが、この『どつぼ超然』に限って言えば、最初っから、一気に読んでしまいました。

    一言で言えば『お笑い読本』ですね。

    特に気にいったところ(笑ったの)は、P139の『そこで余は、下りていく男の背中に向かい、心内語、「ばーか」と言い、少し足りないような気もしたので念のため、「ばーか、ばーか、ばーか」と付け加えた。完璧である。』という部分です。

    しかも、この作者の偉いところは、これが『何とかの遠吠え』(もちろん、負け犬遠吠えですよ。これが『オオカミの遠吠え』や、『おっかさん!の遠吠え』だったりしたら、怖いだけですからね。)の証拠を、例え話で非常に上手く説明してるんですね。で、最後は『そうか~、そんな小さい事を考えているようではまだまだ凡人、善きかな、善きかな、ほほほ。』とつぶやいてしまっているんですから、恐るべし、どつぼ超然!と思いました。(ホントか?ホントです(爆)

    他にも人生を超然と生きるためのバイブルが盛り沢山と書かれていますが、一番盛り上がったのは自殺するための場所選びの主人公の考えている事や行動、縄と踏み台の配色などを遠くから真剣に眺めたりするところでしょうか?

    あと、どうしても分からなかったのが、どうして突然主人公が自殺しようと思ったのか?という部分です。その理由が、あまりに超然過ぎて凡人の私などには、とてもとても(ここで手のひらを上に向け、両肩をすくめ、首を左右にゆっくり振る)。理解できなかった次第でして・・うーむ、、やはりまだまだ修行が足りないようです。

    最後に主人公が「善きかな、善きかな。」とつぶやいたあと付け加える「ほほほ。」これにも深い意味があるとみました。ただ「善きかな、善きかな。」とつぶやくだけより、そのあとに「ほほほ。」と付け加えるだけで、あ~ら不思議、主人公が心から「善きかな、善きかな。」と思っている時と、実は無理して「善きかな、善きかな。」と思っている事が分かって面白いと思いました。

  • 呆れるほど不毛で、生きる活力の溢れる物語。
    冒頭から、自殺を志向するという現代的な悩みを持つ主人公ながら、不可解な出来事(?)にどんどん迷い込んでしまう達人。自意識過剰なあまり300P近くの大作になるまで右往左往を続ける。町田作品の中でも、ここまで意味のなさを追求して、笑えて、力が漲る物語はないかもしれない。

  • ブクログ様献本企画で頂きました。ブクログ様ありがとうございます。

    町田康さんの本は初体験ということで何の前情報もなく読み始めました。

    フィクションなのかエッセイ的なものなのか分からない文体で、主人公のひねくれた、頭の中でよくそんなに思考をめぐらせられるなっという独り問答の展開に驚きました。衝撃的なファーストインパクト。

    一体なんなんだこの人は?奇怪なものを見るように読み進むうちに、主人公というか著者の人間観察力とシュールな着眼点にニヤニヤしてしまいました。特に写真がある部分の話はシュールで笑えました。超然ってかっこいいかもしれん。

    普通だったら見逃してしまう事を自己展開し、思考がフライハイするという。人の頭を覗いているような感覚。

    町田康という人の思考や感性を楽しめたという点ではとても満足でしたが、その展開についていくのにはかなりパワーが必要でした。少し読みづらかったという印象です。
    しかし、読後、妙にこの本の内容が頭に残っていて、思い出してしまうのがなんとも不思議。

  • ミュージシャンでもあり小説家でもある町田康氏の小説「どつぼ超然」を読了。3連休で頭は疲れていなかったし、ストレス度合いも低い状態なので読み終えられたが正直読み進めるのにちょっと疲れた。だからといってまったく面白くない訳ではない。妄想力が尋常ではない主人公「余」がストレスあふれる日常から逃れるべく多分熱海をベースにしたとおもわれる街を歩き回り色々なシーンに出会うたびに頭に浮かんだことをつらつら書き付けたような形で進んで行く小説なので、ばかばかしさが半端ではなく、ばかばかしさが限度を超えるときに思わずふと笑ってしまう部分は何度かあるにはある。だがこの徹底したおばか妄想に最初から最後までつきあえる人と出来ない人に完璧に分かれるだろうと思われ絶対読者を選ぶ小説だ。パンクバンドでは伝説の人らしいいので、この小説もパンクだと思えば楽しめるのかもしれないので誰か試してみてはどうだろう。

  • 圧倒的な紙の無駄使い感、思考の無駄使い、日本語表現の無駄使い感。これこそアート!

  • 作者の分身?的な「余」が綴る、街の散策日記的内容。町田康の頭の中はこんなに忙しいのか、面白い。脱線しまくり言い訳しまくり。

  • 今までにも増して、脳味噌をぐぢゃぐぢゃに掻き回されたような読後感。
    私の脳が「余」のとりとめのない思考と、洪水のように溢れ出す
    訳のわからん言葉に浸食、いや侵略されそうだ。
    やばい、やばい。
    うかうかしていると町田康に脳を乗っ取られかねない。
    中毒性のある麻薬のような言葉は、もはや快感。
    ツボすぎて自分が怖くなる(笑)

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どつぼ超然の作品紹介

明るすぎるし、見晴らしがよすぎる。どうも死ににくい。飄然から超然へ。世界を睥睨する町田文学の新境地。

どつぼ超然のKindle版

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