- Amazon.co.jp ・本 (264ページ)
- / ISBN・EAN: 9784620107653
感想・レビュー・書評
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生きることを肯定する小説だと思う。
でも、生きることを大げさに言い立てたりしない小説だと思う。
日常は、別にきらきら輝いたりしない。でも、時としてはっとするほど鮮やかに焼きついて、いつまでも残り続ける。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
『くるくる丸まった金属の削り屑がたくさん落ちていた。その前のアスファルトには油が滲み、いつもと同じように虹色に輝いていた』-『十二月』
チョコレート色の泥水の表面に広がる薄い油の膜。ギラともいうけれど、その輝きをiridescentと表現することは仕事を始めてから覚えた。その状況を見逃してはいけない職業に就いたので。しかし、この言葉を英和辞典的訳語の通り「虹色」と表現する日本語の文章には、出会いそうでほとんど出会わない。仕事の上でもその状況は中々お目にかからないけれども。それでも「虹色に」と言われるとその英単語は条件反射的に記憶の中から浮き上がる。それはとても個人的な話。
柴崎智香が小説の中で大阪のことを書いたり大阪弁を喋らせたりすることは余りにいつものことなので、違和感を覚える筈もないことなのに、「ビリジアン」の中で柴崎智香が描く大阪は見たことのない街という印象を、執拗に押し付けてくる。文章にそれ程変わったところがあるとも見えない。「~だった。」と繰り返す叙景的な文章もいつもと同じであると言えば同じであるのだけれど、何かが決定的に違うように響いている気がする。ごく短い文章のまとまりがなせるわざ、なのだろうか。身体の中心がしんとしてくる。そんなことを思いながら読んでいるうちに見えてくる。この描写には未来に進んでいこうとするものが存在しない、ということに。これは極端に言ってしまえば封印された風景たちなのだ、ということに。そうだとすると、ここに描かれている大阪は、きっと柴崎智香にとってとても個人的な大阪であり、過去であるのに違いない。
『使っている船も捨てられた船もたいして変わりがなさそうで、置いてあるうちに時間が経って捨てられたということになるんだと思った』-『火花1』
だからといって、柴崎智香が私小説のようなものを書いていると言いたいわけではない。ただこれまでの柴崎智香が描いてきたものとは随分異なるスタイルの小説を書いているなあ、というだけである。ここには可能性に溢れた今を描写する柴崎智香はいない。新しい柴崎智香だ。
柴崎智香の書く短篇の余韻が好きだったけれど、この本に収められている文章は随分と短くそして余韻がほとんどない。そのことが潔いとも思える。掲載されていたのが小冊子ということも影響しているのだろうか、と思いを巡らせてみる。以前から色や洋楽を効果的に使うのもお馴染みであってけれど、ここではその符丁に込めた意図を随分と拡大していみせている。見たことのないSF的とすら言える柴崎智香の世界がある。唐突に表れる洋楽のアーティスト。彼らに大阪弁を語らせているのは楽しいし、色が世界を圧倒的に染めてしまうのも新しいと思う。しかしそのことによって、物語が一人の頭の中に閉じ込められている、という印象が少しだけ強くなる。しんとした身体がさらに少し冷えたような心持ちに傾く。柴崎智香、ずいぶんとさびしい所へすすんでいくなあ、という感想が湧く。
そういえば、webちくまで連載されていた小説もどこへも行かないことをどちらかというと肯定的に描いた話だったし、どうもそういうスタグナントな状況をじっくり見つめる時期に柴崎智香はいるのだろうか。
ところで、この本の赤い栞が146頁と147頁の間に挟まっているのはやっぱり偶然ってことじゃないんですよね。147頁は「赤」というお話の扉になっているんですけれど。