- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784620319100
作品紹介・あらすじ
この世の日々や本のこと。感覚と認識を一粒ずつ繋いでいく、注目の詩人・作家の最新「文」集(2006‐2008)。
感想・レビュー・書評
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良かった。蜂飼耳の日々のこと、本のこと、絵の事、作品のこと。彼女の詩集同様にどきりとする事が往々にしてある。特に本の紹介などで引用する箇所が絶妙に美しく良い。
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自分の読んだことのない本の紹介が多いエッセイはあまり好きではないけれど、今回は未読の本の話も楽しめた。今川焼きの話が好き。
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エッセイや書評が収録されている。詩人と呼ばれる人は、身近なとても小さなことから、天空のようなおおきな広がりのあることまで、すべて自分のものにしてしまうのか。虹を交えた文章からは水の匂いが立ち上り、森を交えた文章からは息が苦しくなるほどの酸素の濃さに身もだえする。それでも目をそらすことが出来ない。それほど蜂飼さんの言葉がとてもキャッチーだっだりするからかもすれない。
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有名な現代詩人の中でうたを歌ったりメディアを煽ったりということから無縁なポジションを確立している、現時点で一番共感できる著者の詩の習作ともいえるエッセイ集。これはまさに秘密裏に書かれた日々の賜物です。そこら中に詩のかけらが散りばめられています。言葉に細心の注意を払って構成されていて息をひそめて読む感覚は紅水晶を読んだ時にも味わいました。じっくりひっそりゆっくりと楽しめる1冊です。
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蜂飼耳のこの本は、エッセイ集というべきなのであろうけれど、そうとは言い切らせない言葉の配置の美しさがある。収められた文章の一つで蜂飼耳自身も言及しているが、詩とそれ以外の呼び名の文章の隙間は余りにも狭いことを改めて感じる。これを詩集と呼んでしまうこと、あるいは明確に書評のようなものは除く必要がひょっとしたらあるのかも知れないけれど、そのことに対する不都合さを自分はほとんど感じない。
そんな風にいつものように蜂飼耳の美しい日本語にひたっていたら、じわじわとある考えが浮かんできた。いつもいつも蜂飼耳の言葉にしびれているけれど、本当は単純に蜂飼耳の言っていることそのものに惹かれているのではないだろうか、と。
言葉は言葉として存在する状態に留まれない。言葉は絵画ではない。絵画がそうではないとは言うつもりは少しもないけれど、言葉は頁の上で存在を主張した瞬間、次には読み手の脳の中に侵入してくる。侵入されることに心地よさを覚える場合もそうでない場合も、すべては引き返し不可能な状況、つまり頭の中で何かが「再」構築されてしまった後に引き起こされる感情だ。だから再構築されたものを無視して、侵入されることの心地よさを蜂飼耳の日本語の美しさというように表現しているのは、何かを見落としていることになるんじゃないかな、とじわじわと考え始めたのだ。
そんな思いがはっきりと形になってきた時、蜂飼耳の引用する高橋たか子の『どこか或る家』という文章に出会う。
「美しい文章とは、まず、命が言葉の背後にぴっちりと張りつめていなければならない。」『闇の結晶』
そう、そういうことなんだね、やっぱり。その張りつめた命に惹かれるのだ。
言葉の矢を静止状態で観察して、あれがいいねとか、ここが素晴らしいねとか、なんとか言い表そうとしてみても、矢の素晴らしさはどこかへ飛んで行ってしまう。矢の素晴らしさは矢尻や矢羽根の美しさにあるのではなく、飛翔そのものに、ひいてはその矢を放った者の心に由来するものに、ある。きっと自分が最初に受取った蜂飼耳の矢が余りに素晴らしく鋭かったので、射抜かれたことも、その傷口の痛みもなにも感じなかったのだろう。だから、言葉の美しさにばかり目が(ということは頭が)行ってしまったのだな、と改めて思う。
『食うものは食われる夜』のレビューを読み返してみると、ちゃあんとその射抜かれたことを身体は感じているのが解る。そして『紅水晶』でも言葉の侵入のことをなんとか言葉にしようともがいているのが見える。やっぱり、そういうことを感じてはいたんだなあ。頭というのは、なんて鈍いものなんだろうなあ。
「白い色が点々と目につく。そんな景色のなかを歩く。気もちが浮き立つのは、雪のためばかりではない。バックの底に忍ばせた柑橘のせいだ。浅ましい気がしてくる。それから誇らしい気がしてくる。心の明暗を、交互に踏んでいく。」『ひとつだけ』
それでも、こんな文章を読むと、蜂飼耳の言葉の美しさ、そして読み手の中にその心持を移植する手さばきの巧みさに、ただただうなってしまうのではあるけれど。